Ⅱ列王記6章

 

 今回は、Ⅱ列王記6章から学びます。

 Ⅰ.浮かんだ斧の頭(1-7)

まず、1~7をご覧ください。「1 預言者の仲間たちがエリシャに、「ご覧のとおり、私たちがあなたと一緒に住んでいるこの場所は狭くなりましたので、2 ヨルダン川に行きましょう。そこから各自一本ずつ梁にする木を切り出して、そこに私たちの住む場所を作りましょう」と言うと、エリシャは「行きなさい」と言った。3 すると一人が、「どうか、ぜひ、しもべたちと一緒に来てください」と言ったので、エリシャは「では、私も行こう」と言って、4 彼らと一緒に出かけた。彼らはヨルダン川に着くと、木を切り倒した。5 一人が梁にする木を切り倒しているとき、斧の頭が水の中に落ちてしまった。彼は叫んだ。「ああ、主よ、あれは借り物です。」6 神の人は言った。「どこに落ちたのか。」彼がその場所を示すと、エリシャは一本の枝を切ってそこに投げ込み、斧の頭を浮かばせた。7 彼が「それを拾い上げなさい」と言ったので、その人は手を伸ばして、それを取り上げた。」

エリシャの奇跡の物語が続きます。1節には、預言者の仲間たちがエリシャに、一緒に住んでいる場所が狭くなったので、ヨルダン川から各自一本ずつ梁にする木を切り出して、そこに住む場所を作りましょう、と提案しました。おそらくここはエリコだったと思われます。というのは、エリコには預言者の学校があったからです。エリコからヨルダン川まではすぐ近くです。約10㎞くらいです。ですから、預言者の仲間は、その宿舎が手狭(てぜま)になったので、ヨルダン川から木を切り出して宿舎を建てようと提案したわけです。

エリシャが「行きなさい」と言うとその中の一人が、自分たちと一緒に来てくださいと言ったので、エリシャは彼らと一緒に行くことにしました。彼らはヨルダン川に着いて木を切り倒し始めると、一人が使っていた斧の頭が水の中に落ちてしまいました。オ、ノー!です。小さな出来事ですが、当事者にとっては大変なことでした。なぜなら、それは借り物だったからです。

それでエリシャは「どこに落ちたのか」と言うと、彼がその場所を示したので、エリシャは一本の枝を切ってそこに投げ込みその斧の頭を浮かばせたのです。エリシャが「それを拾い上げなさい」と言ったので、その人は手を伸ばして取り上げました。

斧の頭を取り戻したその人は、どれほど安堵したことでしょうか。この人が預言者の仲間たちであったことに注目してください。すなわち、預言者学校の生徒たちです。バアル礼拝がはびこっていた当時のイスラエルにあって、彼らは真の神に仕えていました。それがどれほど容易なことではなかったことは想像できます。しかし、そうした中にあって彼らは、この奇跡によって主が生きておられることを体験的に学んだのです。私たちの神は、どんな小さなことにも目を留めてくださり、その必要に応えてくださるお方なのです。

Ⅱ.目をくらまされたアラムの軍勢(8-23)

次に、8~23節をご覧ください。14節までお読みします。「8 さて、アラムの王がイスラエルと戦っていたとき、彼は家来たちと相談して言った。「これこれの場所に陣を敷こう。」9 そのとき、神の人はイスラエルの王のもとに人を遣わして言った。「あの場所を通らないように注意しなさい。あそこにはアラム人が下って来ますから。」10 イスラエルの王は、神の人が告げたその場所に人を遣わした。神の人が警告すると、王はそこを警戒した。このようなことは一度や二度ではなかった。11 このことで、アラムの王の心は激しく動揺した。彼は家来たちを呼んで言った。「われわれのうちのだれがイスラエルの王と通じているのか、おまえたちは私に告げないのか。」12 すると家来の一人が言った。「いいえ、わが主、王よ。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」13 王は言った。「行って、彼がどこにいるかを突き止めよ。人を遣わして、彼を捕まえよう。」そのうちに、「今、彼はドタンにいる」という知らせが王にもたらされた。14 そこで、王は馬と戦車と大軍をそこに送った。彼らは夜のうちに来て、その町を包囲した。」

アラムの王とは、ベン・ハダド2世です。そのアラムの王がイスラエルと戦っていました。このイスラエルの王とはヨラム王です。5章では、アラムとイスラエルの関係は平和で、アラムの将軍ナアマンがツァラアトに冒された時、アラムの王ベン・ハダドがイスラエルの王ヨラムに宛てて手紙を書き送ったほどです。しかし、ここでは両国が対立し戦っています。アラムとイスラエルの間には、戦争の時と平和の時が交互に訪れていたのです。この時は戦争の時でした。

その時、アラムの王が家来たちと相談して、「これこれの場所に陣を敷こう」と言うと、神の人エリシャはイスラエルの王のもとに人を遣わして、「あの場所を通らないように注意しなさい。あそこにはアラム人が下って来ますから。」と警告していました。それは一度や二度ではありません。何度も、です。いわゆる筒抜けの状態だったのです。それでアラムの王は激しく動揺して、自分たちのうちにだれかイスラエルの王と通じている者がいるのではないかと疑いました。

すると一人の家来が、イスラエルにいる預言者エリシャの存在を告げます。彼がアラムの王が寝室で語っていることばまでもイスラエルの王に告げていると。すごいですね、寝室というのは最もプライベートな領域です。そこで語られることはそこにいる人しか知らないことです。そのことまで知っているということは、何でも知っているということです。そうです、イスラエルの神、主は何でもご存知であられる方です。寝室で語っていることでさえ知っておられるお方なのです。

そこでアラムの王は、エリシャの居場所を突き止めて彼を捕らえようとしました。そして彼がドタンにいるという知らせを受けたとき、そこに馬と戦車と大軍を送り、夜のうちに来て、その町を包囲しました。

15~23節をご覧ください。「15 神の人の召使いが、朝早く起きて外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若者がエリシャに、「ああ、ご主人様。どうしたらよいのでしょう」と言った。16 すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言った。17 そして、エリシャは祈って主に願った。「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。18 アラム人がエリシャに向かって下って来たとき、彼は主に祈って言った。「どうか、この民を打って目をくらませてください。」そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って目をくらまされた。19 エリシャは彼らに言った。「こちらの道でもない。あちらの町でもない。私について来なさい。あなたがたの捜している人のところへ連れて行ってあげよう。」こうして、彼らをサマリアへ連れて行った。20 彼らがサマリアに着くと、エリシャは言った。「主よ、この者たちの目を開いて、見えるようにしてください。」主が彼らの目を開き、彼らが見ると、なんと、自分たちはサマリアの真ん中に来ていた。21 イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った。「私が打ち殺しましょうか。私が打ち殺しましょうか。わが父よ。」22 エリシャは言った。「打ち殺してはなりません。あなたは、捕虜にした者を自分の剣と弓で打ち殺しますか。彼らにパンと水を与え、食べたり飲んだりさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」23 そこで、王は彼らのために盛大なもてなしをして、彼らが食べたり飲んだりした後、彼らを帰した。こうして彼らは自分たちの主君のもとに戻って行った。それ以来、アラムの略奪隊は二度とイスラエルの地に侵入しなかった。」

エリシャの召使いが、朝早く起きて外に出ると、なんと、馬と戦車と軍勢がその町を包囲していました。それで慌ててエリシャにそのことを告げると、エリシャはこう言いました。「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」

すばらしいですね。これは真実です。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのです。それを信仰によってしっかりと見なければなりません。今、エリシャのところで仕えている若者は、アラムの大軍しか目に見えていません。この大軍と自分たちを比べて、もうだめだ、と思ったのです。けれども、エリシャが祈ったように、私たちがしなければいけないのは、自分と敵を比べるのではなく、神と敵を比べることです。自分たちの味方の軍勢が、敵の軍勢よりも圧倒的に優勢であることを知ることです。このことによって、私たちの目に見える生活の中でも影響が与えられ、勝利することができるのです。

それで、エリシャは主がその若者の目を開いて、見えるようにしてくださいと祈ると、彼の目が開かれました。彼が見ると、なんと、火の戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていました。私たちの神は万軍の主です。エリシャを護衛するために、主の軍勢が町を取り巻いていたのです。

私たちもまた、霊の目が開かれるように祈るべきです。苦難の日には主の軍勢が私たちを取り囲み、敵の攻撃から守ってくださることをしっかりと見なければならないのです。

パウロは、エペソ人への手紙1章17~19節でこう祈っています。「17どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、19 また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」

パウロはここで、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますようにと祈っています。そのためには、心の目がはっきり見えるようにならなければなりません。でからパウロは、主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださるようにと祈ったのです。

そればかりではありません。アラムの軍勢がエリシャに向かって下って来たとき、エリシャは主に祈って言いました。彼らを打って目をくらましてくださいと。すると主はエリシャのことばの通り、彼らを打って目をくらませたので、彼らをイスラエルの首都であるサマリアへ連れて行きました。

サマリアに着くと、エリシャが彼らの目を開いて見えるようにしてくださいと祈ると、主が彼らの目を開けてくれたので、彼らは見えるようになりました。そして、なんと、彼らは自分たちがサマリアの真ん中にいることを知りました。

イスラエルの王ヨラムは彼らを見て、エリシャに「私が殺しましょうか。私が殺しましょうか。わが父よ。」と言いました。これまでヨラムはエリシャの存在を毛嫌いしていたのに、ここでは「わが父よ」と呼びかけています。これまでの経緯を見て、ヨラムはエリシャに敬意を表するようになったのでしょう。

それに対してエリシャは何と言いましたか。22節です。「打ち殺してはなりません。あなたは、捕虜にした者を自分の剣と弓で打ち殺しますか。彼らにパンと水を与え、食べたり飲んだりさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」

なんとエリシャは全く逆のことを言いました。打ち殺すどころか、彼らにパンと水を与えて、彼らの主君のもとに送り返しなさいというのです。捕虜の扱いとしては前代未聞です。そこでヨラムは大宴会を催しました。彼らのために盛大なもてなしをして、彼らが食べたり飲んだりした後、彼らを家に帰したのです。するとどういうことになったでしょうか?するとそれ以来、アラムは二度とイスラエルの地に侵入しませんでした。

多くの犠牲を払っても達成できなかった平和を、主は平和的に行われたのです。イエス様は「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」(マタイ5:9)と言われました。神は平和の神です。私たちは争いではなく平和をつくる者でなければなりません。そこに平和の神が臨在してくださるからです。

Ⅲ.サマリアに起こった大飢饉(24-33)

最後に、24~33節をご覧ください。「24 この後、アラムの王ベン・ハダドは全軍を召集し、サマリアに上って来て、これを包囲した。25 サマリアには大飢饉が起こっていて、また彼らが包囲していたので、ろばの頭一つが銀八十シェケルで売られ、鳩の糞一カブの四分の一が銀五シェケルで売られるようになった。26 イスラエルの王が城壁の上を通りかかると、一人の女が彼に叫んだ。「わが主、王よ。お救いください。」27 王は言った。「主があなたを救わないのなら、どのようにして、私があなたを救うことができるだろうか。打ち場の物をもってか。それとも、踏み場の物をもってか。」28 それから王は彼女に尋ねた。「いったい、どうしたというのか。」彼女は答えた。「この女が私に『あなたの子どもをよこしなさい。私たちは今日、それを食べて、明日は私の子どもを食べましょう』と言ったのです。29 それで私たちは、私の子どもを煮て食べました。その翌日、私は彼女に『さあ、あなたの子どもをよこしなさい。私たちはそれを食べましょう』と言ったのですが、彼女は自分の子どもを隠してしまったのです。」30 王はこの女の言うことを聞くと、自分の衣を引き裂いた。彼は城壁の上を通っていたので、民が見ると、なんと、王は衣の下に粗布を着ていた。31 彼は言った。「今日、シャファテの子エリシャの首が彼の上についていれば、神がこの私を幾重にも罰せられますように。」

32 エリシャは自分の家に座っていて、長老たちも彼と一緒に座っていた。王は一人の者を自分のもとから遣わした。しかし、その使者がエリシャのところに着く前に、エリシャは長老たちに言った。「あの人殺しが、私の首をはねに人を遣わしたのを知っていますか。気をつけなさい。使者が来たら戸を閉め、戸を押しても入れないようにしなさい。そのうしろに、彼の主君の足音がするではありませんか。」33 彼がまだ彼らと話しているうちに、使者が彼のところに下って来て言った。「見よ、これは主からのわざわいだ。これ以上、私は何を主に期待しなければならないのか。」」

その後、アラムの王ベン・ハダドは全軍を召集し、サマリアに上って来て、これを包囲しました。ちょっと待ってくださいよ。23節には、アラムの略奪隊は二度とイスラエルに侵入しなかったとあるのに、24節にはそのアラムの王ベン・ハダドが全軍を召集してサマリアに上って来て、これを包囲したとあります。これはどういうことでしょうか。

この23節と24節の間には、どれくらいの期間があったのかはわかりませんが、おそらく何年もの時間が経過していたのでしょう。その間に彼らは、超自然的に盲目とされ、最後は盛大なもてなしを受けて本国に戻されたことを、すっかり忘れてしまったのです。感謝の記憶が薄れることは、危険なことですね。

そして、私たちにもそのようなことがよくあります。神様はイエス・キリストを通して一方的な恵みによって私たちを救ってくださったのに、その恵みを忘れて、自分勝手に行動し、神の愛から離れてしまうことがあるのです。詩篇103篇2節には、「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の欲してくださったことを何一つわすれるな。」とあります。主が良くしてくださったことを忘れないで、いつも主に感謝と賛美をささげなければなりません。

さて、アラムの王ベン・ハダドがサマリアに上って来てこれを包囲したとき、サマリアはどうなったでしょうか。25節を見ると、サマリアには大飢饉が起こっていました。この飢饉は自然環境によってもたらされたものではありません。これはアラムがサマリアを包囲したことによってもたらされたものです。つまり、アラムがとった戦法は包囲戦で、いわゆる兵糧攻めにしたということです。その結果、サマリアに大飢饉が起こったのです。

それは想像を絶するほどひどいものでした。ろばの頭一つが銀80シェケルで売られ、鳩の糞一カブの4分の1が銀5シェケルで売られるようになっていました。ろばの頭は、不浄の動物の頭なので、平時であれば食べる人などいません。それが80シェケルで売られていたのです。1シェケルは、現代の価値に換算すると、仮に銀1g80円だとすると912円となります。ですから、ろばの頭が72,960円ということになります。普通はたべないろばの頭が72960円もするのです。鳩の糞とは、通常は家畜の餌になるものでしたが、その一カブの4分の1が4,500円もしたのです。かなりのハイパーインフレです。

そんな時、イスラエルの王が城壁の上を通りかかると、一人の女が彼に叫んで言いました。「わが主、王よ。お救いください。」

すると彼はこう言いました。27節です。「主があなたを救わないのなら、どのようにして、私があなたを救うことができるだろうか。打ち場の物をもってか。それとも、踏み場の物をもってか。」つまり、自分は王であっても、何もあげるものはないよと言うことです。それほど飢饉がひどい状態であったということです。どれほどひどい状態であったかは、この女の訴えを聞くとわかります。ヨラムが彼女に「どうしたのか」と尋ねると、彼女は答えました。知り合いの女の提案で、今日は自分の子どもを煮て食べ、明日は彼女の子どもを煮て食べることになっていましたが、彼女の番になったとき、彼女はその子を隠してしまったというのです。こんな悲惨なことが起こるほどに、サマリアの町の飢饉は激しかったのです。

それを聞くと王は、衣の下に荒布を来ていましたが、「今日、シャファテの子エリシャの首が彼の上についていれば、神がこの私を幾重にも罰せられますように。」と言いました。荒布は、悔い改めを表現するために着用するものですが、彼は主に立ち返るどころかそれをエリシャのせいにして、イスラエルの罪を指摘するエリシャに腹を立て、彼を殺そうとしたのです。彼は、主がなされた数々の奇跡を目撃しながら、悔い改めようとしませんでした。今回の試練は、主がイスラエルの民を悔い改めるために与えたものです。私たちも、試練に会ったとき、神が何を語っておられるのか、そこから神の御声を汲み取らなければなりません。

エリシャはそのことを知っていました。彼は自分の家に座っていて、長老たちと一緒にいました。そして、長老たちに、イスラエルの王ヨラムが自分の首をはねに人を遣わしたことを告げ、使者が来ても、だれも中に入れないように、戸を閉めておくようにと言いました。案の定、エリシャが話していると、イスラエルの王の使いがやって来ました。その使いはエリシャのところに来ると、「見よ、これは主からのわざわいだ。これ以上、私は何を主に期待しなければならないのか。」と言いました。どういうことでしょうか。

ヨラム王は、エリシャから今回の事は主からの裁きであると聞いていたのでしょう。だから、主が解決してくださるのを待つようにと助言されていたのです。けれどもヨラムは待ちきれなくなり、悔い改めるよりも自分で問題を解決しようとしたのです。エリシャを殺せば、彼が語った呪いの言葉が効力を失うと思ったのです。

ヨラムはどこまでも身勝手な人間でした。自分の身に起こるわざわいを自分以外の者は環境のせいにして、その本質を見ることができませんでした。その本質とは神との関係です。神との関係が崩れることで、私たちの人生にさまざまな問題が起こりますが、その最大の解決は悔い改めて神との関係を回復することなのです。それ無しには何も解決することはありません。それ無しに人間的に動いても、それはかえって逆の結果をもたらすことになります。静まって神を待ち望み、神の御前に悔い改めて神にすべてをゆだねること、それが、私たちが苦難の時に生きる道なのです。

エレミヤ15章15~21節「堅固な青銅の城壁とする」

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きょうは、エレミヤ書15章後半の個所から、「堅固な青銅の城壁とする」というタイトルでお話します。20節の御言葉から取りました。
  「この民に対して、わたしはあなたを堅固な城壁とする。彼らは、あなたと戦っても勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。」

  前回のところでエレミヤは、自分の運命を嘆き、生まれて来たことを後悔しました。10節でしたね。「ああ、悲しいことだ。私の母が私を生んだので、私は全地にとって争いの相手、口論する者となっている。」それは彼が、エルサレムが滅びるという極めて悲惨な預言をユダの民に語らなければならなかったからです。そしてそれを聞いた民が彼を憎み、彼に敵対したからです。なぜそんな仕打ちを受けなければならないのか。何とも理不尽な話です。

それに対して主は、こう言われました。11節です。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。」
すばらしい約束ですね。主はわざわいの時、苦難の時の助け、生きる道です。四方八方から苦しめられることがあっても窮することはありません。必ず主は彼を解き放って、幸せにすると約束してくださいました。もうこれで十分でしょう。

しかし、エレミヤはそれで解決しませんでした。再び彼は神に不平をもらすのです。それが今日の箇所です。そして、それに対する神の答えがこれだったのです。「わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする」

 Ⅰ.エレミヤのつぶやき(15-18)

まず、15~18節をご覧ください。「15 「主よ、あなたはよくご存じです。私を思い起こし、私を顧み、迫害する者たちに、私のために復讐してください。あなたの御怒りを遅くして、私を取り去らないでください。私があなたのためにそしりを受けていることを知ってください。16 私はあなたのみことばが見つかったとき、それを食べました。そうして、あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ、私はあなたの名で呼ばれているからです。17 私は、戯れる者がたむろする場に座ったり、喜び躍ったりしたことはありません。私はあなたの御手によって、ひとり座っていました。あなたが私を憤りで満たされたからです。18 なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は治らず、癒えようもないのでしょう。あなたは、私にとって、欺く小川の流れ、当てにならない水のようになられるのですか。」」

これは、エレミヤの祈りです。これは実に正直でストレートな祈りです。自分の思いの丈をぶつけています。言葉で飾るようなことをしていません。
  15節で彼は、「私を思い起こし、私を顧み、迫害する者たちに、私のために復讐してください。」「私があなたのためにそしりを受けていることを知ってください。」と言っています。あなたのみことばをストレートに語ったばかりに、私はみんなから非難されているのです、憎まれているのです、と訴えているのです。

16節をご覧ください。彼はみことばが見つかったとき、それを食べました。「食べる」というのはおもしろい表現ですね。まさに自分の舌で味わったということです。ただ聞くだけでなく、それが自分の一部になるほど吸収したということです。そしたらそれが楽しみとなり、心の喜びとなりました。リビングバイブルでは、「有頂天となった」と訳していますが、そういう意味です。これは、飛んだり、跳ねたりして喜ぶ様を表しています。御言葉を食べたら、そのあまりの美味しさに小躍りするくらいうれしくなったというのです。それが聖書のことばです。すばらしいですね。あなたはどうですか?神のことばが、あなたにとって楽しみとなり、心の喜びとなっているでしょうか。それは、患難や苦難が無くなるということではありません。神の御言葉を食べて喜んでも、患難や苦難があなたを襲うことがあります。人々から誤解されたり、バカにされたり、憎まれたり、(さげす)まれたりすることがあります。でも違うのは、そのような中にあっても、神の御言葉があなたを支えてくれるということです。エレミヤは神の御言葉によって支えられていました。彼が神の御言葉を食べていなかったら、簡単に潰れていたでしょう。

それは私たちにも言えることです。御言葉を食べて、御言葉を味わい、御言葉を楽しみ、御言葉を心の喜びとしていなければ、ちょっとしたことで潰れてしまうことになります。もういいです!もう止めます!神様を信じたって何の役にも立ちません。まさに砂の上に建てられた家のようです。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ち付けると、倒れてしまいます。しかし、岩の上に建てられた家は違います。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、ビクともしませんでした。岩の上に建てられていたからです。その岩とは何でしょうか。それは神の御言葉です。イエスのことばを聞いてそれを食べ、それを楽しみ、それを喜び、それに従う人は、岩の上に建てられた家のように、どんな嵐が襲っても倒れることがないのです。

それでも、エレミヤは傷ついていました。神の御言葉食べてそれを楽しんでいても、心が晴れなかったのです。それで彼は言ってはならないことを言ってしまいます。18節です。「なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は治らず、癒えようもないのでしょう。あなたは、私にとって、欺く小川の流れ、当てにならない水のようになられるのですか。」

どういうことでしょうか。エレミヤはここで神様に向かって、「あなたは偽り者だ!」と言っているのです。なぜ私がこんな目に遭わなければならないのですか。私はいつまで続まなければならないのですか。私の打ち傷は治らず、癒されません。そんなのおかしいじゃないですか。あなたは約束してくださいました。あなたはいのちの水の泉だと。だから私はあなたに信頼したのです。それなのに、あなたに頼ってもあなたは答えてくれません。それは欺く小川の流れのようです。当てにならない水にすぎません。そう言っているのです。これは本来言ってはいけないことばです。神様に不平不満をもらしているのですから。
  この「小川」というのは、「ワディ」と呼ばれる川のことですが、この川は雨の季節は水が流れていることはあっても、乾燥した季節は干上がっていることが多いのです。当てにならない水とはそういう水のことです。あるようでない。あるように見せかけても実際にはありません。エレミヤは神様をこの当てにならない小川にたとえたのです。あると思ったのにない。神様は欺く小川の流れだと。全く役に立たない。祈っても答えてくれない。期待はずれです。いや、嘘つきです、そう言ったのです。皆さん、どう思いますか。なかなか言えないことです。神様に対して「あなたは嘘つきです」なんて言えません。確かにエレミヤはかなり混乱していました。感情的にも取り乱していました。疑心暗鬼になっていました。でもエレミヤは神に対して正直でした。自分の思いを正直に訴えたのです。本当にあなたをこのまま信じていいんですかと。

私たちにもこのようなことがあります。落ち込んだり、苛立ったり、腹を立てたり、ムカついたりすることがあります。でも、エレミヤのようにそれを正直に神に訴えることができません。ちゃんと祈らなければならないと思っているからです。それで美辞麗句を並べて、心にもないことを言ってしまうのです。
  「主よ、あの人からこんなことを言われて心を痛め苦しんでいますが、あなたはもっとひどい苦しみを受けられました。あなたは十字架で「父よ。彼らをお赦しください」と祈られました。ですから、私もあなたの御言葉に従ってあの人を赦します。あの人を愛します。あの人のために祈ります。どうか、あなたのお力を与えてください。アーメン」
  すばらしい祈りです。でも本音は違うでしょ。本当は憎いのです。赦せないのです。ムカついています。それなのに、きれいな言葉で祈らなければならないと思っています。クリスチャンだから。一応。
  でも神様は、あなたの心の思いを全て知っておられます。だからわざわざ自分を偽る必要はなのです。あなたの正直な気持ちをエレミヤのように神様に訴えていいのです。なかなか祈れないという人の問題はここにあります。そういう祈りじゃないと聞かれないと思っています。だから祈りが自分のものにならないというか、身近に感じられないのです。どうしても構えてしまいます。仮面を被ったもう一人の自分が祈っているかのような、そんな感覚さえ抱いてしまいます。しかし、主はすべてをご存知であられます。敬虔なふりをする必要はありません。カッコつける必要もない。エレミヤのように正直に祈っていいのです。

詩篇を見るとそういう祈りがたくさん出てきます。詩篇109篇などはそうです。その中でダビデは敵に仕返ししてくだいというだけでなく、敵がことごとくのろわれるようにしてくださいとまで祈っています。「敵を愛しなさい」と言われたイエス様の教えを知っている私たちにとっては戸惑いを感じますが、それでいいのです。自分の心の思いを正直に主に申し上げることが大切なのです。

私は、1993年に初めて韓国に行きました。当時ホーリネス教会では世界で一番大きいと言われていた教会がソウルにあって、その教会が主催した牧師のセミナーに参加したのです。教会の信徒さんが「ぜひ先生も行って恵まれて来てください。その費用は私たちが献げますから。先生が恵まれることで私たちも恵まれますから」と、背中を押してくれたのです。それは光林教会という教会でした。今でも覚えています。礼拝が始まると同時に礼拝堂の窓のカーテンが自動的に閉まるのです。すると講壇の前にいたオーケストラが賛美歌を奏でました。「来る朝ごとに」でした。荘厳な雰囲気の中で荘厳な曲が奏でられ、体が震えました。あたかも天国にいるかのような光景でした。
  私たちは、その教会が所有している祈祷院に宿泊したのですが、そこには毎晩のように多くの信徒が祈るために来ていました。何を祈っているのかわかりませんが「チュよ、チュよ」と犬の遠吠えのような大きな声が聞こえてきました。私も隣の部屋で祈っていましたが声が気になってなかなか祈れませんでした。
  そこで担当の牧師にそのことをお話したら、その場合はこうするといいですよと教えてくれました。それは、その声に負けないようにもっと大きな声で祈るんですよと。韓国人はそういう国民性なのかと驚いて、もっと大きな声で祈りましたが、ナイーブな私にはやはりうるさくて祈れませんでした。でも韓国の兄姉は違うんですね。もっと大きな声で祈ります。他の人は関係ありません。全く視野に入ってこないのです。ただ主を見上げて、「チュよ、チュよ」と叫ぶのです。祈りの内容が正しいかどうかも気にしません。あまり・・・。自分の率直な思いを神様にぶつけているという感じでした。
  当時、世界で最も大きな教会と言われていたヨイドの純福音教会もそうでした。私は徹夜祈祷会にも行きましたが、11月の末のとても寒い時ですよ。教会を出たところで多くの人たちがあちこちでひざまずいて祈っているのです。中では礼拝形式で祈祷会が持たれていましたが、集会の終わると多くの兄姉が講壇になだれ込み、「チュよ、チュよ」と泣きながら祈っていました。それはもう祈りじゃないです。叫びです。主に向かって心を注いで叫んでいるという感じでした。飢えた魚がえさを求めるように。周りの人がどう思うかなんて関係ありません。自分の率直な思いをありのままにぶつけていました。

それでいいんです。というのは、このエレミヤのつぶやきや疑いに対して、主は愛をもって応えておられるからです。そんなことを祈るなんてひどいヤツダとか、私を疑うなんてとんでもないことだとか、お前のような者はもうわたしのことばを語る資格などないとか、一切おっしゃっていません。むしろ主はそのように正直に訴えたエレミヤの祈りを受け入れてくださいました。19節からのところで、その祈りに対して主が応答していることからもわかります。正直に言ってくれた。だから、わたしも正直にあなたに答えようと。皆さん、これが祈りです。そこに生きた交わりがあります。本物のコミュニケーションがある。正直に自分の思いを訴え、神の声を聞く。それが本物のコミュニケーションです。それが祈りです。それがエレミヤの祈りでした。祈りとはまさにコミュニケーション、対話です。それがこの中に見られるということです。

私たちは神様とこのようなコミュニケーションを取って来たでしょうか。それとも決まりきった美辞麗句を並べて、最後にイエス・キリストの名前で祈ります、という通り一辺倒の祈りではなかったでしょうか。ただ台詞を読み上げているような祈り、作文をただ読み上げているような祈りで終わってはいなかったでしょうか。それは祈りではありません。祈りはコミュニケーションですから。親の前で作文を読み上げる子どもはいません。直に会ったら自分の気持ちを正直に伝えます。勿論、なかなか言葉がうまく伝わらないということもあるでしょう。感情のもつれもあるかもしれません。でも神様はすべてをご存知ですから、心配しなくていいのです。たとえ言葉に出せなくても、どのように祈ったらよいかわからなくても、神の御霊がことばにならないうめきをもってとりなしてくださいますから。ローマ8章26節にこうあります。「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。」
  感謝ですね。ことばにならない祈りも、御霊ご自身が深いうめきをもって、とりなしてくださいます。たとえあなたの祈りが的外れであったとしても、神の右の座におられるイエスが、あなたの祈りをとりなしていてくださいます。ですから、安心して祈ることができます。あなたの正直な気持ちを祈ることができるのです。たとえそれが間違っていても、言葉が足りなかったとしても、言葉使いがおかしくても、感情が乱れて思わず勢いよく言ってしまったとしても、イエス様がちゃんととりなしてくださるのです。
  ですから、決して神様に対して自分の気持ちを隠す必要はありません。仮面を被らなくてもいい。神様はすべてをご存知ですから。「主よ、もう我慢することができません。あの人を赦すことができません。この人が憎らしいです。もう生理的に受け付けられません。もう一緒にいるのも嫌です。顔を見るのも嫌です。同じ空気を吸いたくないんです。」これでいいんです。

でも、これで終わってはいけません。ここが重要なポイントです。これを神に訴えるとはどういうことかということです。これを神に訴えるとは、だから助けてください!ということなのです。自分で何とかうまく取り繕うとするのではなく、表面的に愛せるように、赦せるようにということではなく、神様に助けを求め、神様がその力を与えてくださるように願うことなのです。神様はあなたの本音を知っておられますから。正直な気持ちを知っておられますから。それをまず神様にぶつけない限り何も始まりません。それを正直に訴えたうえで神に助けを求める。そこに主が働いてくださいます。それを隠したまま、ただことば巧みに自分を霊的、信仰的な者であるかのように見せかけると、そこに「偽善」が生じることになります。そうじゃなくて、そんなあなたのやるせない思い、正直な思いをありのままに神様に訴えて、その上で神様にきよめていただく、助けていただく、それが神様が望んでおられることなのです。

Ⅱ.わたしの前に立たせる(19)

次に、エレミヤの祈りに対する神の答えを見たいと思います。19節をご覧ください。ご一緒に読みたいと思います。「それで、主はこう言われた。「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせる。もし、あなたが、卑しいことではなく、高貴なことを語るなら、あなたはわたしの口のようになる。彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。」

エレミヤのつぶやき、疑いに対して主は、「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせる。」と言われました。これはエレミヤに対する悔い改めの促しです。それは彼が神様を疑ったからではありません。神様に本音で訴えたからではないのです。そうではなく、主が「いのちの水の泉」(2:13)であるはずなのに「当てにならない小川の流れ」のようであると失望していたからです。失望して信仰から滑り落ちそうになっていました。エレミヤは、そんなことならいっそのこと民といっしょになって不信仰でもいい、その方がよっぽど楽だと思っていました。
  そこで主は、「あなたが帰ってくるなら」と言われました。そこから帰って来るようにと促しているのです。10節では、自分なんて生まれて来ない方が良かったという自己憐憫に駆られていました。またここでは神を疑うほどまで落ち込んでいました。それは預言者としては失格でした。彼は預言者としての召命を失うところまで来ていたのです。これはエレミヤの生涯における最大の危機でした。ですから、主は彼に「もし、あなたが戻って来るなら」と言われたのです。もし悔い改めるなら、神は彼を受け入れ、再びその職務に就かせてくださると。「わたしの前に立たせよう」とはそういう意味です。もしエレミヤが、神のことばを伝えるなら、彼は神の口のようになります。どうやって帰ったらいいかわからないという人もいるでしょう。でもここにはこうあります。「もし、あなたが帰って来るなら、私はあなたを帰らせ」。主が帰らせてくださいます。あなたが正直にありのままで主のもとに帰って来るなら、あなたがそのように決めれば、主が帰らせてくださいます。だから心配しないでください。まず主の前に正直になることです。そして、主に立ち返ると決めることです。そうすれば、主はあなたを帰らせ、主の前に立たせてくださいます。主の前にはあなたは裸同然ですから、何も隠すものはありません。ですから、私たちに必要なことは隠すことではなく立ち返ることです。そうすれば、主があなたを帰らせ、主の前に立たせてくださいます。これが私たちに求められていることなのです。そして、もし、彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはなりません。「彼ら」とはユダの民のことです。エレミヤは神の預言者として神に立てられた器ですから彼らに流されたり、彼らの影響を受けるべきではない。預言者としての使命を果たしなさいということです。

Ⅲ.堅固な青銅の城壁とする(20-21)

最後に主は、ご自身の下に帰ってくる者に対してもう一つの約束を与えてくださいました。20~21節をご覧ください。ご一緒に読みたいと思います。「20 この民に対して、わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする。彼らは、あなたと戦っても勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。─主のことば─21 わたしは、あなたを悪しき者たちの手から救い出し、横暴な者たちの手から贖い出す。」

エレミヤは、民に対して堅固な青銅の城壁のようになります。「青銅の城壁とする」とは、1章18~19節でも語られた約束ですが、揺るぐことがない堅固な町とするという意味です。主はそれをエレミヤに繰り返して語られました。主は彼を揺るぐことがない堅固な者とするということです。だれも彼と戦って勝つことはできません。なぜなら、主が彼ととともにいて、彼を救い、彼を助け出されるからです。主が救ってくださいます。自分で自分を救うのではありません。主が救ってくださいます。これほど確かな保証があるでしょうか。主が堅固な青銅の城壁としてくださるので、あなたは絶対に潰されることはない。倒れることはありません。ハレルヤ!あなたが今置かれた状況がどんなに耐え難いものであっても、主があなたを堅固な城壁としてくださるので、あなたは絶対に倒れることはありません。主がともにいて、あなたを救い出されるからです。

これと同じことを、パウロはこう表現しています。Ⅱコリント4章7~9節です。「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」
  この「宝」とはイエス・キリストのこと、「土の器」とはパウロ自身のことです。「土の器」というと響きがいいですが、「土の器」の「の」を取ると、ただの「土器」です。皆さん、私たちはただの「土器」にすぎません。本当に脆いものです。しかし、パウロはそんな土の器の中に宝を持っていると言いました。それは「測り知れない力」を与えてくれます。「測り知れない」とは、「常識では考えられない」という意味です。その宝こそイエス・キリストです。彼はこの宝を土の器に入れていたので、四方八方から苦しめられても窮することがなく、途方に暮れても、息詰まることがなく、迫害されても、見捨てられることなく、倒されても、滅びませんでした。

皆さん、私たちの人生にはポッカリと穴が開くときがあります。そんな時、その開いた穴をじっと見て、嘆き悲しんで人生を送ることもできますし、その穴を見ないように生きることもできます。でも一番いいのは、その穴が開かなかったら決して見ることのできなかった新しい世界を、その穴を通してみることです。パウロの人生には、何度も大きな穴が開きました。しかし、パウロはその度ごとに、その新しい穴から、新しい希望を見つけることができました。「希望は必ずある。この開いた穴の向こうには、新しいチャンスが広がっているのだ」と信じて疑わなかったのです。
  それは、私たちも同じです。私たちの人生にも突然ポッカリ穴が開くことがあります。思いがけないような出来事に遭遇することがある。突然病気になったり、事故に遭ってしまった、会社が倒産した、会社は大丈夫だけれども、自分が失業した、愛する人を突然亡くした、というようなことがあります。
  そのような時エレミヤのように、神様を当てにならない小川のようだと恨むのではなく、その苦しみを、その叫びを、あなたの心の奥底にある叫びを正直に神に打ち明けて、だから助けてくださいと祈り求めなければなりません。そうすれば、主があなたを帰らせ、あなたを堅固な城壁としてくださいます。主があなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出してくださいます。それはあなたという土の器の中に、測り知れない宝を持っているからです。主はあなたがどんな状況においても神を信頼することを期待しておられるのです。

マルコの福音書16章1~8節「石は転がしてあった」

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 復活の主イエス・キリストの御名を心から賛美します。きょうはイースターです。キリストの復活を記念してお祝いする日です。金曜日の午後に十字架の上で息を引き取られ、墓に葬られたイエスは、三日目の朝に、墓を破ってよみがえられました。何と不思議な、何と驚くべきことでしょうか。イエスが葬られていた墓は空っぽだったのです。墓の入り口をふさいでいた石は転がしてありました。先ほどお読みしたマルコ16章4節に「ところが、目を上げてみると、その石が転がしてあるのが見えた。」とあります。口語訳では、「ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。」と訳しています。石はすでに転がしてあったのです。
  私たちの人生にも、私たちの心を塞ぐ石があります。でも私たちがイエスのみもとに行くなら、復活の主イエスがその石をころがしてくださいます。きょうは、この転がしてあった石についてご一緒に思い巡らしたいと思います。

 Ⅰ.だれが石を転がしてくれるか(1-3)

まず1~3節までをご覧ください。「1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。2 そして、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に行った。3 彼女たちは、「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。」

十字架で死なれたイエスのからだは、アリマタヤのヨセフによってまだだれも葬られたことのない新しい墓に埋葬されました。このアリマタヤのヨセフはイエスの弟子でしたが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していました。しかし彼は、勇気を出してピラトにイエスのからだの下げ渡しを願うと、ピラトはそれを許可したので、イエスが十字架につけられた場所のすぐ近くにある墓に葬ったのです。というのは、すでに夕方になっていて、もうすぐ安息日(土曜日)が始まろうとしていたからです。安息日が始まったら何でできなくなってしまうので、その前に彼は急いでイエスのからだを十字架から取り降ろし、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、イエスのからだをその墓に埋葬したのです。

その安息日が終わると、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買いました。油を塗るとは、香料を塗るということです。

これらの女性たちは、ずっとイエスにつき従って来た人たちでした。彼女たちは最後の最後までイエスに愛と敬意を表したかったのです。それはイエスが自分に何をしてくれたのかを知っていたからです。特にマグダラのマリアは七つの悪霊を追い出してもらいました。一つじゃないですよ。七つです。七つの悪霊です。一つの悪霊でも大変なのに彼女は七つの悪霊に取り憑かれていました。それは、彼女が完全に悪霊に支配されていたということです。身も心もズタズタでした。しかし彼女はそのような状態から解放されたのです。どれほど嬉しかったことでしょう。感謝してもしきれないほどだったと思います。イエスがいなかったら今の自分はない。イエスはいのちの恩人以上の方。最も愛すべき方。その方が苦しんでいるならほっておけません。何もできないけれども、せめてイエスの傍らにいたい。どんな目に遭おうと、たとえ殺されようとも、イエスのみそば近くにいたかったのです。イエスは自分にとってすべてのすべてだから。そういう女性たちが複数いたのです。

彼女たちは、安息日が終わったので、イエスに油を塗ろうと思い、香料を買い、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に向かって行きました。新共同訳では、「日が出るとすぐ墓に行った。」と訳しています。そうです、彼女たちはもう待ちきれませんでした。日が昇るとすぐに墓に行ったのです。

しかし、墓に向かっている途中で、彼女たちは一つの問題があることに気が付きました。何でしょうか?それは、墓の入り口が大きな石で塞がれていることです。だれがその石を転がしてくれるでしょうか。この石は重さ2~2.5tもある重い石で、女性たちが何人いても女性の力では動かせるようなものではありませんでした。男でもよほどの人数がいなければ動かせないほどのものです。

しかも、その石はただの石ではありませんでした。並行箇所のマタイ27章66節を見ると、その石には封印がされていたとありました。これはローマ帝国の封印で、これを破る者は逆さ十字架刑にされることになっていました。ですから、そこには番兵もつけられていました。屈強なローマ兵たちが、24時間体制で監視していたのです。その石を動かさない限り、中に入ってイエスのからだに香油を塗ることはできません。とても無理です。それでも女性たちは墓に向かって行きました。無理だ、不可能だと思っても、です。

3節には、彼女たちは「話し合っていた」とありますが、彼女たちはどこで何を話し合っていたのでしょうか。彼女たちは墓に向かう途中で「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていました。

ここが男性とは違うところです。一般の男性ならどうするでしょうか。まず行く前に話し合うんじゃないですかね。「どうする、行っても無駄だ。墓の入り口には大きな石があるし、自分たちの力ではどうやっても動かせない。しかもそこにはローマ兵たちがいる。どう考えても無理だ!その前に香料なんて買ったってただのお金の無駄遣いだ」と。

これが一般的な男性が考えることです。でも女性は違います。女性は心に感じるまま行動します。そうしたいと思ったらあまり考えずすぐにそれを行動に移すのです。そんなことを言うのは女性を差別しているのではないかと叱られるかもしれませんが、私は女性を差別しているのではありません。それが女性の素晴らしいところだと言っているのです。とにかく安息日が明けたらイエスのもとに行きたい。できるだけ早くイエスに会いたいと思う。その愛が彼女たちを突き動かしたのです。その前に立ちはだかった大きな石も彼女たちにとっては問題ではありませんでした。愛がなければその大きな石を前にして何もできなかったでしょう。「あの石をどうしよう」で終わっていたはずです。でも愛は不可能を可能にします。「愛には、計算が成り立たない」と言った人がいます。彼女たちの行動は、まさに計算が成り立ちません。しかし、それが愛なのです。考えてみれば、イエス様の生涯もそうだったのではないでしょうか。計算では成り立ちません。この世の目から見たら愚かなことのように見えるでしょう。その極めつけが十字架でした。イエス様は十字架の上で敵を救うために取りなしの祈りをされたのです。このような愛はこの世の常識では考えられません。人間の計算をはるかに超えています。しかし、そうでなければ見いだせない大切なことがあります。そのことに気付かないと大切なものを失ってしまうことがあるのです。

注目すべきことは、彼女たちがここで「だれが」と言っていることです。「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか。」と。この「だれが」が重要です。彼女たちは自分たちにはできないことが最初から分かっていたので、だれか他の人に頼らなければなりませんでした。「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか。」でも男性はそう考えません。男性はこう考えます。「どうやって」。どうやってあの石を転がすことができるかと。いつも頭の中で考えてばかりいて行動に移せないのです。でも女性は違います。だれが転がしてくれるかと言ったのです。皆さん、だれが墓の入り口の石を転がしてくれるのでしょうか。そうです、イエス・キリストです。イエス・キリストが死からよみがえって墓から石を転がしてくださいます。ですから、この女性たちの「だれが」という問いには、彼女たちの信仰が表れていたということです。

これは私たちにも問われていることです。私たちは「だれが」の前に「どうやって」と問うてしまいます。その状況とか方法とかを考えてしまうあまり、足がすくんで何もできなくなってしまうのです。でも彼女たちは違いました。もう動いています。動いている最中で「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていました。彼女たちは自分たちにできないことは考えませんでした。だれかがしてくれると信じていたのです。彼女たちは、復活の信仰を持っていたとも言えるでしょう。それは私たちにも求められていることです。「どうやって」ではなく、復活の主があなたの心を塞いでいる石を転がしてくださると信じて、イエスのもとに行かなければならないのです。

Ⅱ.石はすで転がしてあった(4)

次に、4節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。「ところが、目を上げると、その石が転がしてあるのが見えた。石は非常に大きかった。」

彼女たちが墓に行ってみると、墓はどうなっていましたか。あの石が転がしてありました。新改訳第3版、口語訳、新共同訳、創造主訳のいずれの訳では「すでにころがしてあった。」と訳しています。その石はすでに転がしてありました。イエスに近づくことを妨げていたあの大きな石が、すでに取り除かれていたのです。彼女たちのイエスを愛する愛に神様が応えてくださったのです。

それはあなたにも言えることです。あなたがイエスに会いに行こうとする時、そこに大きな石のような問題が立ちはだかっていることがあります。でもその時、「どうやって」と問わないで「だれが」と問うなら、イエスがあなたの問題をすでに解決してくださいます。女性たちがイエスの墓に到着したら、石はすでに転がしてありました。もしあなたがイエスを信じ、イエスを愛するなら、どんな問題でもイエスが解決してくださるということを知っていただきたいのです。この女性たちのように。彼女たちはイエスの墓に向かう道中で「だれがこの問題を解決してくれるか」と問うていましたが、そのだれがとは、もちろん、イエス・キリストです。イエスはすでにあなたの悩みを解決しておられるのです。もしあなたがキリストのもとに行くなら、あなたの問題はもうすでに解決されています。あの大きな石は転がしてあるのです。彼女たちが墓に向かったのは、まだ暗いうちでした。人生の暗いうちにはまだ大きな石がたちはだかっています。でもあなたがキリストに向かって歩き始めるなら、どんなに人生が暗かろうと、どんなに大きな問題が立ちはだかろうと、どんなにそれが不確かであろうと、キリストがそれを取り除いてくださるのです。あなたに求められているのは、イエスがこの石を転がしてくださると信じて、イエスのもとに歩き出すことです。

榎本保郎先生が書かれた「ちいろば」という本の中に、こんな話があります。

榎本先生が開拓した教会に、T君という、1人の高校生が来ていました。とてもやんちゃな子でしたが、熱心に求道するようになり、いつしか高校生会のリーダーになりました。

そのT君が高校3年生の時、献身者キャンプに参加しました。献身者キャンプとは、将来、牧師になることを決心するためのキャンプです。榎本先生も、講師の一人として、参加しました。そのキャンプの最後の集会で、「献身の志を固めた人は、前に出て、決心カードに署名しなさい」、という招きがなされました。

招きに応えて、泣きじゃくりながら、立ち上がる者。こぶしで涙を拭いながら、前に進み出る者。若者たちが、次々に立ち上がって、震える手で、署名しました。しかし、T君は、なかなか前に出て行きません。頭を垂れて、じっと祈っていました。しかし、招きの時が終わろうとした時、遂に、T君は、立ち上がって前に進み、決心カードに、名前を書き込みました。

席に戻ってきたT君は、真っ青になって、ぶるぶる震えていました。決心したことで、心が高揚したこともあったと思います。しかし、T君には、もっと深刻な、問題があったのです。

T君は、とても勉強のできる生徒でした。ですから、両親は、大きな期待を、彼に懸けていました。両親は、彼が、京都大学の工学部に入ることを、ひたすら願っていたのです。それが、両親の、生き甲斐とも、言えるほどでした。それなのに、もし、T君が牧師になる決心をした、と聞いたなら、両親は、どんな思いになるだろう。がっかりするだろうか。怒るだろうか。その両親の期待の大きさを身に沁みて知っていただけに、T君は、両親に、どのように打ち明けたらよいか、途方に暮れていたのです。そして、両親の落胆と、怒りを、想像しただけで、いたたまれない気持ちになっていたのです。

T君は、真っ青になって、「先生、祈ってください」、と榎本先生に頼みました。先生にも、その気持ちがよく分かりました。そこで榎本先生とT君は、ひたすら祈りました。祈るより他に、すべはなかったのです。その時、榎本先生の心に浮かんだのが、この4節のみことばでした。「石はすでに転がしてあった」。

榎本先生は、「T君、神様は、必ず、君の決心が、かなえられるように、備えてくださる。『石は、すでに転がしてあった』、という御言葉を信じよう」、と力づけました。

それを聞いて、T君は帰っていきました。しかし、T君から、両親との話し合いの結果が、なかなか報告されてきません。榎本先生は、どうなったか、心配でたまらず、T君の家の前を、行ったり来たりしていました。

帰ってから、三日たった夕方、げっそりやつれたT君が、教会にやってきました。そして「先生、石は、のけられていませんでした」、と言ったのです。父親は激しく怒り、母親は食事も取らずに、ただ泣き続けている、という報告でした。

榎本先生は、暗い気持ちになって、「どないする?よわったなぁ」と、呟きました。その時、「先生、『石はすでに転がしてあった』というあの御言葉は、どうなっとるんですか」。というT君の鋭い言葉が迫ってきました。先生は、自分の不信仰に気付かされ、「いや、あの御言葉は、君にも必ず成就するよ」と、T君と自分自身に言い聞かせました。

それから半月ほど経った頃です。T君の両親が、教会を訪ねてきました。「息子をたぶらかした悪者」、と罵倒されるものと思って、戦々恐々として迎えた榎本先生は、びっくりしました。というのは、T君の両親がこう言ったからです。

「先生、息子を、よろしくお願いします」。

頭を下げたお父さんは、両肩を震わせながら、じっと涙をこらえていました。お母さんは、手をついたまま、泣きじゃくっていました。両親は、T君の献身を、許してくれたのです。

「石は、すでに転がしてあった」のです。この御言葉は、T君の上に、見事に成就しました。その後、T君は、牧師となって、よい働きをしているという内容です。

皆さん、私たちの人生にも大きな石が立ちはだかることがあります。しかし、あなたがイエスを愛し、イエスに向かって歩むなら、イエスがその石を転がしてくださいます。ですから、どこまでも最善に導いてくださる主に信頼して、祈り続けましょう。そうすれば、あなたも必ず「石は、すでに転がしてあった」という、神様の御業を見るようになるからです。

Ⅲ.弟子たちとペテロに告げなさい(5-8)

最後に、5~8節をご覧ください。「5 墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚いた。6 青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。7 さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」8 彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

〔彼女たちは、命じられたすべてのことを、ペテロとその仲間たちに短く伝えた。その後、イエスご自身が彼らを通して、きよく朽ちることのない永遠の救いの宣言を、日の昇るところから日の沈むところまで送られた。アーメン。〕」

女性たちが墓の中に入ってみると、そこにまっ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚きました。青年は彼女たちにこう言いました。6節です。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。」

ここでは「驚いた」ということばが強調されています。イエスのからだが納められていた墓からあの石が転がされていただけでなく、その墓の中は空っぽだったからです。なぜ墓は空っぽだったのでしょうか?イエスがよみがえられたからです。イエスは死んで三日目によみがえられ、その墓を塞いでいた大きな石をころがしてくださったのです。それを見た女性たちはどんなに驚いたことでしょう。そして、私たちも同じ体験をすることになります。私たちの心を塞いでいた大きな石が転がされるという体験です。どんなに悩みがあろうと、どんなに疑問があろうと、どんなに問題があろうと、イエスはあなたの心に立ちはだかる石を転がしてくださいます。なぜなら、イエスはみがえられたからです。

ところで、この青年は彼女たちにもう一つのことを言いました。それは7節にあることです。「さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」」

ここで青年は、イエスが弟子たちより先にガリラヤに行くので、そこでお会いすることができると言いましたが、ここでは弟子たちだけでなく、弟子たちとペテロにと言っています。あえて使い分けているのです。弟子たちだけでなく、ペテロに対して個人的に伝えてほしいと。なぜ「弟子たちに」ではだめだったのでしょうか。なぜ個人的にペテロに告げる必要があったのでしょうか。

それはペテロが弟子たちの筆頭であったからではありません。それは、ペテロが一番イエスに会いづらい人物だったからです。なぜなら、彼は公の場で3度もイエスを否定したからです。彼は「他の弟子たちがすべてあなたを見捨てても、私だけは火の中水の中、死までご一緒します。口が裂けてもあなたを知らないとは絶対に言いません。」と言い張ったのに、イエスを知らないと否定しました。今さら、どの面下げて主に会えるでしょう。弟子の筆頭だった彼が一番してはいけないことをしたのです。イエスの目の前で。

でもペテロは先にイエス様にこういうふうにも言われていました。ルカ22章31~32節のことばです。

「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

イエスはすべてのことがわかっていました。十分わかった上で、あなたの信仰がなくならないように祈った」と言われたのです。そして「ですから、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われました。これは「もし立ち直ったら」ということではありません。イエスは彼が立ち直ることもちゃんとご存知の上で、それを前提にして、あなたが立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさいと言ったのです。失敗した人にやり直しをさせて、兄弟たちを力づけてやるという新しい務めも与えると、イエスはあらかじめ約束しておられたのです。ですから、イエスはその約束通りにまずペテロの前に現れ、その約束を果たされるのです。まずペテロを立ち直らせる。これが復活された主がなさる最初のことだったのです。イエスのことを3度も否定した弟子の筆頭、その立場なり、その資格を失っている者に対して、まず回復をもたらしたのです。つまり、イエスは一番傷ついている者、一番痛い思いをしている者、一番恥ずかしい思いをしている者のところへ行って、和解をもたらしてくださるということです。ペテロはとてもイエスの復活の証人として相応しいとは思えません。しかし、そのようなペテロを主はあわれんでくださり、復活の姿を現わしてくださったのです。

それは私たちも同じです。このイエスの愛は、同じように私たち一人ひとりに注がれています。神様に背いてばかり、神様になかなか従えないこんな私をイエスは愛し恵みを注いでいてくださる。私たちも復活の主によって支えられ、復活の主の弟子とされているのです。弱いペテロをどこまでも愛され「そうそう、あのペテロにも伝えなさい」と仰せられた主は今、私たち一人ひとりにも、語り掛けてくださっているのです。「そう、そう、あのおっちょこちょいの富男さんにも伝えてあげなさい。何度言ってもわからない。同じ失敗を繰り返しているあの人にも」と。救われるに本当に相応しくないような者であるにもかかわらず、主は一方的な恵みをもって救ってくださいました。あなたがペテロのように主を否定するような者であっても、パウロのように教会を迫害するような者であっても、復活の主はあなたをどこまでも愛しておられるのです。

 最後に8節をご覧ください。「彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。〔彼女たちは、命じられたすべてのことを、ペテロとその仲間たちに短く伝えた。その後、イエスご自身が彼らを通して、きよく朽ちることのない永遠の救いの宣言を、日の昇るところから日の沈むところまで送られた。アーメン。〕」

 彼女たちは墓を出ると、そこから逃げ去り、そのことを誰にも言わなかったとありますが、実際には、ペテロにも、他の弟子たちにも伝えています。これはペテロと弟子たち以外には、だれにも伝えなかったという意味です。つまり、彼女たちは、復活の主の最初の証人となったということです。最初の証人となったのはイエスの12人の弟子たちではなく、この女性たちだったのです。これはすごいことです。というのは、当時、イエス様の時代は、女性が証人になることは考えられないことだったからです。しかし、そんな女性たちがイエスの復活の最初の目撃者となりました。男たちではありません。女たちです。

 復活のメッセージを伝えることは、実に栄誉ある務めです。その栄誉に与ったのはこの女性たちだったのです。なぜでしょう?男たちは「どうやって」と考えると何も出来なかったのに対して、彼女たちはどんなに大きな石が目の前に立ちはだかっていても、どんなに屈強なローマ兵が監視していようとも、たとえ捉えられて死ぬことがあっても構わない、とにかくイエスに会いたい。愛するイエスに会いたい。その一心で動いていたからです。

 それに対してなされた大いなる神様の御業を、私たちは今ここで見ているのです。これは男か女かの違いを言っているのではありません。これは、信仰か不信仰かの違いです。イエスを愛しているか、いないのかの違いです。彼女たちには信仰があり、イエスに対する愛がありました。そして、イエスの復活によって希望まで与えられました。この女性たちは、私たち信仰者の模範です。私たちもこの女性たちのようにイエス様を愛するゆえに、「どうやって」ではなく「だれが」石を転がしてくださるのかと問いながら、復活の主がそれをなしてくださると信じて、心から主を愛し、主につき従う者でありたいと思います。イエスはよみがえられました。死からよみがえられた主は、あなたの前に立ちはだかるいかなる石も必ず転がしてくださるのです。

Ⅱ列王記5章

 

 今回は、Ⅱ列王記5章から学びます。

 Ⅰ.ナーマンの癒し(1-14)

まず、1~14節までをご覧ください。7節までをお読みします。「1 アラムの王の軍の長ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。それは、主が以前に、彼を通してアラムに勝利を与えられたからであった。この人は勇士であったが、ツァラアトに冒されていた。2 アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から一人の若い娘を捕らえて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていた。3 彼女は女主人に言った。「もし、ご主人様がサマリアにいる預言者のところに行かれたら、きっと、その方がご主人様のツァラアトを治してくださるでしょう。」4 そこで、ナアマンはその主君のところに行き、イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。5 アラムの王は言った。「行って来なさい。私がイスラエルの王に宛てて手紙を送ろう。」そこで、ナアマンは、銀十タラントと金六千シェケルと晴れ着十着を持って出かけた。6 彼はイスラエルの王宛ての次のような手紙を持って行った。「この手紙があなたに届きましたら、家臣のナアマンをあなたのところに送りましたので、彼のツァラアトを治してくださいますように。」7 イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の衣を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、ツァラアトを治せと言う。しかし、考えてみよ。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」」

アラム(シリア)の王ナアマンの話です。ナアマンはアラムの王の将軍で、その主君から重んじられていました。それは彼が勇士であって、以前彼を通してアラムに勝利をもたらしていたからです。ここには、その勝利は「主が以前、彼を通して」与えられたものであったと記されてあります。主が彼を選び、彼とともにあったので、彼は勝利を得ることができたのです。それは主が彼を選び、彼の癒しも計画しておられたからです。

しかし、そんなナアマンですが、「ツァラ―ト」に冒されていました。「ツァラ―ト」は重い皮膚病で、イスラエルではツァラートの患者は隔離されなければなりませんでしたが、アラムではそうではありませんでした。彼はこのことでどれほど心を痛めていたことでしょうか。人々に認められて、何一つ不自由ない生活を送っていたにもかかわらず、自分ではどうすることもできない弱さや痛みを抱えていたのです。私たちも同じです。表面的には有能で一生懸命働いていて、何一つ不自由のない生活をしているようでも、こうした弱さを抱えながら生きています。

ところで、彼の家に一人の若い娘がいて、彼の妻に仕えていました。彼女は、かつてアラムが略奪に出たとき、イスラエルの地から連れて来られた娘です。その娘はある日、女主人にエリシャのことを伝えました。3節です。「もし、ご主人様がサマリアにいる預言者のところに行かれたら、きっと、その方がご主人様のツァラアトを治してくださるでしょう。」

彼女には、エリシャを通してこのツァラートが癒されるという信仰がありました。この信仰が、ナアマンの癒しにつながっていくことになります。このような若い娘でも、主によって大きく用いられる器になることができるのです。

そのことがナアマンの耳に入ると彼は主君のところへ行き、この娘から聞いたことを伝えました。するとアラムの王は有能な将軍を病で失うことは一大損失と考えたのか、ナアマンがイスラエルに行くことを許可しただけでなく、イスラエルの王に宛てて手紙を書き送りました。それは6節にあるように、「この手紙があなたに届きましたら、家臣のナアマンをあなたのところに送りましたので、彼のツァラアトを治してくださいますように。」という内容のものでした。この時のアラムの王はベン・ハダド2世(B.C860-841)ですが、この時点ではイスラエルの王ヨラムと良好な関係を維持していました。それでナアマンは、銀10タラント、金6千シェケル、晴れ着10着を持って出かけて行きました。銀10タラントとは340㎏です。金6千シェケルは68.4㎏です。相当な重さ、相当な額の贈り物です。これを150㎞も離れたサマリアまで運ぶのは大変なことだったと思います。ナアマンはツァラートの癒しのためにそれ相応の贈り物を用意して、イスラエルに敬意を払おうとしたのです。それほど癒されたかったということです。

それに対して、イスラエルの王ヨラムはどのように対応したでしょうか。7節です。イスラエルの王は、自分がナアマンを癒さなければならないと勘違いしたのか、これは再びイスラエルを攻めてくる言いがかりではないかと疑いました。彼は、ナアマンの妻の女奴隷のイスラエル人の少女と違って、預言者エリシャのことが思い浮かびませんでした。神の働きを受け入れようとしない人は、ヨラムのように神の働きを見ることができません。取るに足りない娘が発した信仰の言葉が、二つの王国の運命を大きく揺さぶることになります。私たちの主は、小さき者の信仰を大いに祝福してくださる方なのです。

次に、8~14節までをご覧ください。「8 神の人エリシャは、イスラエルの王が衣を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人を遣わして言った。「あなたはどうして衣を引き裂いたりなさるのですか。その男を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」9 こうして、ナアマンは馬と戦車でやって来て、エリシャの家の入り口に立った。10 エリシャは、彼に使者を遣わして言った。「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります。」11 しかしナアマンは激怒して去り、そして言った。「何ということだ。私は、彼がきっと出て来て立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で手を動かし、ツァラアトに冒されたこの者を治してくれると思っていた。12 ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で身を洗って、私がきよくなれないというのか。」こうして、彼は憤って帰途についた。13 そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」14 そこで、ナアマンは下って行き、神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に七回身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。」

エリシャは、ヨラム王が動揺して衣を引き裂いたと聞いて、王のもとに人を遣わして言いました。「あなたはどうして衣を引き裂いたりなさるのですか。その男を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」

エリシャは、自分が責任を持って癒すので、彼はイスラエルに預言者がいることを知るようになるだろうと言いました。

それでナアマンは馬と戦車でやって来て、エリシャの家の入口に立ちました。するとエリシャは彼に使いをやってこう言わせました。「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります。」

何ということでしょう。はるばるアラムからやって来たというのに、しかもそれ相応の贈り物まで持って来たというのに、自分に会おうともしないというのは。あまにも失礼だ。しかも、その治療法はとんでもない。ヨルダン川へ行って七回身を洗うというのは。

これを聞いたナアマンは激怒し、そこを去りました。彼が激怒したのは、エリシャ自身が出て来てきよめの儀式をしてくれると思ったのにそうではなかったこと、そしてそれがあまりも失簡単すぎると思ったからです。彼は英雄だったので、英雄にふさわしい治療を期待していました。それなのに、ヨルダン川に行って7回身を洗えというのですから。だったら故郷のアマナやパルパルの川の方がましじゃないか。プライドの高かったナアマンには、信仰による単純な癒しを受け入れることができなかったのです。

それは私たちの救いにも言えることです。神様が同様の単純な方法で赦しを与えようとすると、ナアマンのような反応をする人々がいます。イエス・キリストを信じるだけで救われるというのは重みが足りないと感じるのです。でもナアマンがツァラートを癒していただくために必要だったことは、彼がへりくだって神のあわれみを受け入れることです。神のことばを受け入れて、ただ信じるならば救われるのです。

今週の礼拝は受難週のメッセージで、ルカ23章からお話しましたが、あの一人の犯罪人が救われたのはどうしてでしょうか。彼がへりくだってイエス様に「あなたが御国にお着きになる時には、どうか私を思い出してください。」と言ったからです。彼は十字架に磔にされていましたから、彼には何もすることかできませんでした。彼に出来ることは、救ってくださいと神に懇願することしかなかったのです。するとイエスは感動をもってこう言われました。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)

彼に出来ることはただ、イエスが救うことができる方であると信じ、そのイエスにすがることだけだったのです。その結果、彼は救われました。「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」と、イエスから救いの約束を得ることが出来たのです。

ナアマンは憤って帰途につくと、彼のしもべたちが近づいて来て、彼に言いました。「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」このしもべは冷静でした。ヨルダン川に行って7回洗うということは何でもないことです。しもべは知っていました。主君ナアマンのことを。そして、もっと難しいことをエリシャが命じたら、あなたはそれをやろうとしたでしょう、と言ったのです。簡単なことができずに、難しいことだったらやろうとする。それが私たち人間の持っている性質です。簡単なことでは救われないと思っているのです。救われるためにはもっとハードなことをしなければならないと。ナアマンはそういうことを期待していました。でもエリシャが言ったことは実にシンプルなことでした。ヨルダン川に行って7回身を洗うだけです。

ナアマンはよい家来を持ったものです。彼はそのことばを聞くと反省し、家来たちの助言を聞き入れます。彼は下って行き、神の人エリシャが言ったとおり、ヨルダン川に7回身を浸しました。これが信仰です。信仰とは、主が言われているとおりに信じて聞き従うことです。すると彼はどうなりましたか。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなりました。主は彼を癒しただけでなく、彼の皮膚を幼子のようにすべすべした肌に作り変えたのです。それはヨルダン川の水に癒す力があったからではありません。それは、ナアマンが預言者を通して語られた主のことばを信じたからです。彼は信仰によっていやされたのです。この「7回」という数字は、それを物語っています。聖書の中で「7」は完全数、または神のことを表わしています。彼が神のことばを受け入れて7回浸ったことで、彼は癒しの恵みを受けることができたのです。そうです、神のことばに力があります。その神のことばを受け入れ、それに従う人は何と幸いでしょうか。

Ⅱ.ナアマンの感謝(15-19)

次に、15~19節をご覧ください。「15 ナアマンはその一行の者すべてを連れて神の人のところに引き返して来て、彼の前に立って言った。「私は今、イスラエルのほか、全世界のどこにも神はおられないことを知りました。どうか今、あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。」16 神の人は言った。「私が仕えている主は生きておられます。私は決して受け取りません。」ナアマンは、受け取らせようとしてしきりに勧めたが、神の人は断った。17 そこでナアマンは言った。「それなら、どうか二頭のらばに載せるだけの土をしもべに与えてください。しもべはこれからはもう、主以外のほかの神々に全焼のささげ物やいけにえを献げません。18 どうか、主が次のことについてしもべをお赦しくださいますように。私の主君がリンモンの神殿に入って、そこでひれ伏すために私の手を頼みにします。それで私もリンモンの神殿でひれ伏します。私がリンモンの神殿でひれ伏すとき、どうか、主がこのことについてしもべをお赦しくださいますように。」19 エリシャは彼に言った。「安心して行きなさい。」そこでナアマンは彼から離れ、かなりの道のりを進んで行った。」

癒されたナアマンは、感謝に溢れてエリシャのもとに引き返してきました。これは決して短い距離ではありません。ヨルダン川からエリシャがいたサマリアまでは約40㎞もありました。それほど彼は感謝に満ち溢れていたということです。その距離をもろともせずに引き返してきたのですから。エリシャのもとに引き返して来たナアマンは彼の前に立つとこう言いました。「私は今、イスラエルのほか、全世界のどこにも神はおられないことを知りました。どうか今、あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。」

これはナアマンの信仰告白です。この奇跡は、神の視点からは、このナアマンの信仰を引き出すためのものだったのです。アラムの将軍ナアマンといったら異邦人です。その異邦人でもイスラエルの神に従うなら救われるということを示していたのです。

ルカ4章27節には、「また、預言者エリシャのときには、イスラエルにはツァラアトに冒された人が多くいましたが、その中のだれもきよめられることはなく、シリア人ナアマンだけがきよめられました。」とあります。イスラエルにはツァラアトに冒されて人が多くいましたが、きよめられたのはそのイスラエル人ではなく、異邦人であったナアマンだけでした。なぜ?イスラエルには信仰がなかったからです。ナアマンにはありました。イスラエルの民はバアル礼拝に走っていましたが、ナアマンはイスラエルの神、主への信仰を告白しました。なんとい皮肉でしょうか。これは何を意味しているのかというと、たとえ異邦人であっても、ヤハウェを信じる者はみな救われるということです。信仰によって、神の救いの中に加えられるのです。それは日本人である私たちも同じです。日本人であっても、イスラエルの主ヤハウェを信じるなら救われるのです。主は新約時代だけでなく、旧約時代からすでにご自分のわざを示しておられたのです。

ナアマンは感謝のしるしに贈り物を差し出しましたが、エリシャはそれを拒否しました。なぜでしょうか。エリシャはこのように言っています。「私が仕えている主は生きておられます。私は決して受け取りません。」エリシャは、それが神の働きであって、神の働きはこの世のそれと違い仕事の報酬であるかのようにお金を受け取ってはいけないことを知っていたからです。それは神の働き人が報酬を得てはならないということではありません。聖書には、「「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない」、また「働き手が報酬を受けることは当然である」」(Ⅰテモテ5:18)と言われているように、ある意味それは当然のことなのです。しかしそれを当然であるかのように受けることは神の働き人としてふさわしいものではありません。それでエリシャは、ナアマンが受け取らせようとしてしきりに勧めましたが断ったのです。

そこでナアマンは一つのことをエリシャに願いました。それは二頭のらばに乗せられるだけの土を与えてほしいということでした。これは祭壇を築くための土です。彼はヤハウェへの祭壇を築くためにイスラエルの土でないとだめだと思っていたのです。すべてのものは信仰によってきよめられるから(ローマ14:23)です。別にシリアの土を用いても構わなかったのですが、彼はイスラエルの土にこだわっていました。イスラエルの神、主だけにいけにえをささげるために。

しかし、そのように言いながら彼は、突拍子のないようなことをエリシャに告げています。それは18節にあるように、彼の主君がリモンの神殿に入って、そこでひれ伏すために自分の手を必要としますが、自分がリモンの神殿でひれ伏すとき、それを赦してほしいということです。「リモン」とは、雨と雷を司る偶像です。そのリモンの神殿に入るとき、それは自分の職務としてやっていることだけなので、礼拝するわけではないから、身をかがめることを赦してほしいというのです。

するとエリシャは何と言いましたか。エリシャはこう言いました。「安心して行きなさい。」どういうことでしょうか。旧約聖書を見る限り、たとえそれが礼拝するわけではないとしても、偶像にひれ伏してもいいという箇所はどこにもありません。むしろ神は聖なる方であって、その聖なる方にならって分離することを命じておられます。偶像礼拝に陥らないように。それなのに、ここでエリシャはたとえそれが職務の一つであるとは言え、「安心して行きなさい。」とナアマンがリンモンの神殿でひれ伏すことを許しているかのように受け取れます。これはどういうことでしょうか。どの訳を見ても同じです。どの聖書も「安心して行きなさい。」「Go in peace」と訳しています。

バイブルナビには、このように解説しています。

「ナアマンはどうして異教の偶像の前で身をかがめる行為を許されたのだろうか。ナアマンは、リンモン神を礼拝する許可ではなく、王が身をかがめるとき、立ち座りの介助をする義務を果たす許可を求めたのである。別名ハダドとしても知られるダマスコの神リンモンは、雨と雷の神として信じられていた。同時代のほとんどの人間と異なり、ナアマンは神の御力に対し鋭い意識を持っていることを示した。神を国が拝む偶像の一つに加えるのではなく、彼は唯一神がおられると認めた。ナアマンは、他の神々を礼拝しようとしなかった。この一点においてのみ許しを求めたナアマンの行為は、多くの偶像を拝み続けていたイスラエル人とは対照的である。」

確かに、ここでエリシャが許したのは、ナアマンがアラムの王ハダドが立ったり座ったりするのを介助する許可を与えたということでしょう。しかし、たとえ彼の主人のこととは言え、それを手助けすること自体受け入れられないことです。

フレデリック・ファーラー(1831-1903年、聖公会の司祭)はこう述べています。

「エリシャの助言を誤解してはならない。彼は、異教の教えの影響が残っているこの新改宗者に、無制限の自由を約束したわけではない。ナアマンが置かれていた状況は、どんなイスラエル人の状況とも異なる。彼は改宗して1日しか経ってない。それも「生煮え」の改宗者に過ぎない。ナアマンのように、一貫して偶像礼拝に関わって来た人に、多くを要求することはできない。それまで慣れ親しんできた習慣や伝統のすべてを放棄するようにナアマンに迫ることは、余りにも唐突過ぎる。それは、無分別な無益な要求であり、彼に不可能な自己犠牲を迫るものである。最善の方法は、彼がリモン礼拝の不毛さを自ら体験できるように導いてやることである。それでも、リンモンの神殿で偶像を礼拝してはならないという原則だけは、不変である。」

ここでフレデリック・ファーラーが言っていることは、ナアマンの信仰は情報不足もあってまだ未熟なものであったということです。そのナアマンにそれまで慣れ親しんできた習慣や伝統のすべてを放棄するように迫ることは余りにも唐突過ぎることであり、無分別な要求であるということです。彼にとって必要なことは、リンモン礼拝の不毛さを自ら体験できるように導いてやることであり、やがてナアマン自身が、いかに行動すべきかを判断する必要があったということです。そういう点ではナアマンが置かれていた状況を考えると、これはギリギリの許可だったのではないかと思われます。

しかし、ここで注目していただきたいことは、このエリシャのことばです。彼はここで「安心して行きなさい。」と言っていますが、これはナアマンのこの行為を許可したとかしないということではなく、ただ「神があなたと共にあるように」と言ったのです。いわゆる、「シャローム」と言ったのです。それはあなたが判断することです。確かに神の原則は変わりません。リンモンの神殿で礼拝してはならないという原則だけは、不変です。その原則を踏まえた上で、彼がどう判断するのか、それはあなたが決めることであって、重要なのは、神があなたとともにおられるということ。神の平安とともに行くように、ということです。つまり、エリシャは彼の判断にゆだねたのです。たとえ、今そうであっても、イスラエルの神、主がどのような方であるかを知るようになれば、自ずとどうすれば良いかはわかって来るでしょう。偶像を礼拝してはならないという原則だけは変わらないが、何よりも重要なことは神とともにあること、神の平安をもって出て行くことです。そう言いたかったのではないでしょうか。

これはきわめて現実的で知恵に満ちた答えでした。この日本という異教社会に住む私たちもナアマンのような問題を抱えることがありますが、同じような問題で悩んでいる人に対してどのような助言をすべきかを、神様から知恵をいただきながら聖書の原則に立ってしっかりと対応していきたいと思います。

Ⅲ.ゲハジの貪欲(20-27)

最後に、20~27節をご覧ください。「20 そのとき、神の人エリシャに仕える若者ゲハジはこう考えた。「何としたことか。私の主人は、あのアラム人ナアマンが持って来た物を受け取ろうとはしなかった。主は生きておられる。私は彼の後を追いかけて、絶対に何かをもらって来よう。」21 ゲハジはナアマンの後を追いかけて行った。ナアマンは、うしろから駆けて来る者を見つけると、戦車から降りて彼を迎え、「何か変わったことでも」と尋ねた。22 そこで、ゲハジは言った。「変わったことはありませんが、私の主人は私を送り出してこう言っています。『たった今、エフライムの山地から、預言者の仲間の二人の若者が私のところにやって来たので、どうか、銀一タラントと晴れ着二着を彼らに与えてやってください。』」23 するとナアマンは、「ぜひ、二タラントを取ってください」と言ってしきりに勧め、二つの袋に入れた銀二タラントと、晴れ着二着を自分の二人の若者に渡した。そこで彼らはそれを背負ってゲハジの先に立って進んだ。24 ゲハジは丘に着くと、それを二人の者から受け取って家の中にしまい込み、彼らを帰らせたので、彼らは去って行った。25 彼が家に入って主人の前に立つと、エリシャは彼に言った。「ゲハジ。おまえはどこへ行って来たのか。」彼は答えた。「しもべはどこへも行っていません。」26 エリシャは彼に言った。「あの人がおまえを迎えに戦車から降りたとき、私の心はおまえと一緒に歩んでいたではないか。今は金を受け、衣服を受け、オリーブ油やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷を受ける時だろうか。27 ナアマンのツァラアトは、いつまでもおまえとおまえの子孫にまといつく。」ゲハジはツァラアトに冒され、雪のようになって、エリシャの前から去って行った。」

すると、エリシャに仕えていたゲハジは考えました。エリシャはナアマンが持って来た物を何も受け取ろうとしなかった。では、自分が行って、何かをもらって来よう。そしてナアマンの後を追いかけて行き彼に追い着くと、「何か変わったことでも」と尋ねるナアマンに、彼は嘘を言いました。22節です。「変わったことはありませんが、私の主人は私を送り出してこう言っています。『たった今、エフライムの山地から、預言者の仲間の二人の若者が私のところにやって来たので、どうか、銀一タラントと晴れ着二着を彼らに与えてやってください。』」ゲハジは自分の主人エリシャの名を使って、嘘をついたのです。

するとナアマンは、銀1タラントと晴れ着2着という要求に対して、銀2タラントと晴着2着を与えました。ゲハジが求めた額は、ナアマンが用意していたものに比べると控え目ですが、それでも大金です。これを手に入れたら、一生楽に暮らしていけます。結局ナアマンは、その倍の額と晴着2着をゲハジに与え、財宝を運ぶ2人の若者まで提供しました。

ゲハジは家に帰って来ると、それを二人の若者から受け取って家の中にしまい込み、彼らを帰らせました。そして、彼が家の中に入りエリシャの前に立つと、エリシャは彼にどこに行っていたのかと尋ねました。彼は「しもべはどこにも行っていません。」と嘘をつきました。二回目の嘘です。これは嘘の上塗りです。人は一度嘘つくとその嘘を隠すために他の嘘もついてしまうことになります。けれども、エリシャは知っていました。彼がどこに行って来たのかを。エリシャはこう言いました。

「今は金を受け、衣服を受け、オリーブ油やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷を受ける時だろうか。」

「オリーブ油やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷」は、ゲハジが手に入れた銀で買おうと思っていたものです。その結果、彼に神のさばきが下りました。ナアマンのツァラートが、いつまでもゲハジと彼の子孫にまといつくことになる、と告げられたのです。そしてそのことばの通り、ゲハジはツァラートに冒され、雪のようになって、エリシャの前から去って行きました。

ここでは、エリシャとゲハジが対比されています。エリシャは、神の器として神の恵みを分かち合い、人から見返りを受けるのではなく、ただ主に仕えるしもべであったのに対して、ゲハジは神の栄光を、自分の欲望のために奪い取ろうとしました。このように、神のしもべにも2種類のタイプの人がいます。あなたはどちらのタイプのしもべですか。私たちは神のことばへの信頼と従順によって、エリシャのように神の恵みを分かち合うしもべでありたいと思います。