エレミヤ17章1~10節「神に信頼する人の幸い」

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エレミヤ書17章に入ります。きょうは、1節から10節までの箇所から、「神に信頼する人の幸い」というテーマでお話します。神に信頼するのか、人に信頼するのか、ということです。神に信頼する者は祝福されますが、人に信頼する者にはのろいがあります。どうしてでしょうか。9節にあるように、人の心は何よりもねじ曲がっているからです。新改訳改訂第3版ではこの「ねじ曲がっている」という言葉を「陰険」と訳しています。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」それは直りません。誰にも直すことができません。そんな人間に信頼したらどうなるでしょうか。裏切られ、失望することになります。しかし、神はその心を変えることができます。ですから、この方に信頼するなら、この方が祝福してくださいます。祝福は、あなたの心にかかっているのです。

Ⅰ.消し去ることのできないユダの罪(1-4)

 まず、1~4節をご覧ください。「1 「ユダの罪は、鉄の筆と金剛石の先端で記され、彼らの心の板と彼らの祭壇の角に刻まれている。2 彼らの子たちまでもが、その祭壇や、高い丘の青々と茂る木のそばにあるアシェラ像を覚えているほどだ。3 野にあるわたしの山よ。あなたの領土のいたるところで犯した罪ゆえに、わたしは、あなたの財宝、すべての宝物を、高き所とともに、戦利品として引き渡す。4 あなたは、わたしが与えたゆずりの地を手放さなければならない。またわたしは、あなたの知らない国で、あなたを敵に仕えさせる。あなたがたが、わたしの怒りに火をつけたので、それはとこしえまでも燃える。」」

ここには、ユダの罪が彼らの心の奥深くにまで刻み込まれていると言われています。1節に「鉄の筆」とか「金剛石の先端」とありますが、これは堅いものに何かを刻む時に使われるものです。新共同訳では「金剛石」を「ダイヤモンド」と訳しています。他の多くの英語の訳も「ダイヤモンド」と訳しています。よっぽど堅いものに文字を刻むんだなあと思ったら、刻むものは「彼らの心の板」と「彼らの祭壇の角」です。彼らの心があまりにも頑ななので、堅すぎて普通の筆では書くことができないというのです。その心には二度と消えることのない文字が刻まれています。それは彼らの根深い罪です。彼らの心には罪の性質が深く刻みこまれているということです。遺伝子の中に組み込まれているDNAのように、彼らの心には、決して消し去ることができない彼らの罪が深く刻まれているのです。

ここには、「彼らの心」だけでなく「彼らの祭壇の角」にとあります。祭壇の角とは、罪のためのいけにえの血を塗って罪の赦しを祈る青銅の祭壇のことです。それは神の幕屋の門から入ると外庭の中心に置かれてありました。その祭壇の四隅には角が作られていますが、そこに彼らの罪が刻まれているというのは、神の御前でその罪が決して赦されることがないという意味です。彼らの罪はそれほど深く刻まれていたのです。もはや消しゴムなどでは消すことができません。修正液でごまかすこともできません。堅すぎて削り落とすこともできません。入れ墨ならレーザーで消すこともできるでしょう。でも心の刻印、罪の入れ墨は何をもってしても消すことができないのです。

創世記6章5節には「主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。」とあります。ノアの時代の人たちの姿です。その時代の人たちの心に図ることはみな、いつも悪に傾いていました。これがまさに鉄の筆と金剛石の先端で記されている罪です。ノアの時代の人たちはよっぽど(わる)だったんだなぁと思うかもしれませんが、これはノアの時代の人だけではなく今の人も同じです。イエス様は再臨の前兆として、人の子が来るのもノアの日と同じようだと言われました。現代もノアの時代と同じように、いやそれ以上に悪が増大し、その心に図ることがみな悪いことだけに傾いています。まさにその心に鉄の筆と金剛石によって罪が刻み込まれているのです。そのやること成すこと全部的外れ、神の御心を損なっています。それが今の時代です。それは何をもってしても消すことができません。

2節をご覧ください。ここには、その罪の影響が彼らの子どもたちまでに及んでいると言われています。子どもたちまでも偶像礼拝に関わっていました。彼らはイスラエルの神、主を礼拝していましたが、それにプラスして他の神々も拝んでいました。その一つがここにあるアシェラ像です。アシェラ像は豊穣の女神、繁栄の神です。彼らは、イスラエルの神を拝みながら豊穣の神を求めて拝んでいたのです。現代の人に似ています。私たちも確かに聖書の神を信じていますが、それで満たされないと他の神々も拝みます。ビジネスの成功と繁栄を求めて、自分の心を満たすものを求めて、真実の神以外に別の神も求めてしまうのです。それによって自分の子どもたちにも影響を受けてしまうのです。親がしていることを子どもが真似するからです。それほど子どもは親の影響を受けやすいのです。

その結果、どうなったでしょうか。3~4節をご覧ください。「3 野にあるわたしの山よ。あなたの領土のいたるところで犯した罪ゆえに、わたしは、あなたの財宝、すべての宝物を、高き所とともに、戦利品として引き渡す。4 あなたは、わたしが与えたゆずりの地を手放さなければならない。またわたしは、あなたの知らない国で、あなたを敵に仕えさせる。あなたがたが、わたしの怒りに火をつけたので、それはとこしえまでも燃える。」

「野にあるわたしの山」とは、シオンの山のこと、つまりエルサレムのことです。主はエルサレムのいたるところで犯した彼らの罪のゆえに、彼らのすべての財宝、すべての宝物を、戦利品として引き渡すことになります。

そればかりではありません。4節には、主が彼らに与えたゆずりの地も手渡すことになります。ゆずりの地とは相続地のことです。主から賜った約束の地、乳と蜜の流れるすばらしい地を手放すことになってしまいます。どこに?バビロンです。4節に「あなたの知らない国で、あなたを敵に仕えさせる」とあふりますが、これはバビロンのことを指しています。エルサレムは、バビロンによって炎上することになります。それは神が怒りの火をつけられるからです。それは彼らの罪のゆえでした。ユダの罪は、鉄の筆と金剛石(ダイヤモンド)の先端で彼らの心に深く刻まれていました。それを消すことは不可能です。それは消し去ることができないほどの罪でした。

私たちは、自分の心に鉄の筆と金剛石の先端で自分の罪が刻まれていると思うと、その罪の深さにショックを受けるかもしれません。自分はこんなにひどい人間なのかと。こんなに汚れたものなのかと。自分自身にあきれるでしょう。あまりにも絶望して死を選ぶ人もいるかもしれません。
  でもここに希望があります。ここに良い知らせがあります。それは、私たちの主イエス・キリストです。キリストは、私たちの罪がどんなに深く刻みこまれていても、その罪を洗いきよめることができます。完全に消し去ることができるのです。
  主はこう言われます。「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)
  主は、ご自身の血をもって、私たちの罪、咎のすべてを洗いきよめてくださいます。私たちのどうしようもない罪に汚れた心を、全く新しく造り変えてくださることができるのです。

Ⅱ.神に信頼する者の幸い(5-8)

次に、5~8節をご覧ください。「5 主はこう言われる。「人間に信頼する者はのろわれよ。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者は。6 そのような者は荒れ地の灌木。幸せが訪れても出会うことはなく、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住む。7主に信頼する者に祝福があるように。その人は主を頼みとする。8 その人は、水のほとりに植えられた木。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめない。」

ユダの罪は偶像礼拝ということでしたが、それは人に信頼し、肉の力に頼っていたことが原因でした。そういう人たちの特徴は、心が神から離れているということです。心がピッタリと神に寄り添っていないのです。神に寄り添っている時というのは人を信頼しません。肉の力を頼みとしないのです。いろいろな人があなたを助けてくれることがあっても、その人に依存することをしません。助けてもらったら感謝はしますが、その人たちがいなければ自分は何もできないとは考えないのです。そのように考えているとしたら、それは神から離れている証拠です。
  当時のユダの人たちは、まさにここにある通り、人に信頼していました。肉なる力を自分の腕としていました。自分たちは、自分たちの力で何とかできると思っていたのです。具体的には、当時バビロン軍が攻めて来ていましたが、エジプトを後ろ盾にしました。たとえバビロンが攻めて来ても大丈夫、自分たちにはエジプトという同盟国がバックにいるから問題ないと思っていたのです。この時、彼らはエジプトと軍事同盟を結んでいました。だからいざとなったエジプトが助けてくれると思っていたのです。

でも心が主から離れ、人に信頼し、肉なる力を自分の腕とするなら、のろわれてしまうことになります。具体的には6節にあるように、そのような者は荒れ地の灌木となります。幸せが訪れても出会うことはなく、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住むことになります。
  「荒れ地の灌木」とは裸の木のことです。完全に枯れた木ですね。完全に渇ききってしまいます。そこにはいのちがありません。完全に不毛地帯となるのです。これがのろいです。そういう人の人生には、実が成りません。たとえあなたがクリスチャンであっても、神に信頼しないで人に信頼し、肉の力を頼みとするなら、あなたものろわれてしまうことになります。たとえあなたが物理的には神に寄り添っているようでも、その心が神から離れているなら、のろわれてしまうことになるのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの心は神から離れていないでしょうか。物理的にはここにいても、心は神から遠く離れていることがあります。こうして礼拝していながらも、あなたの心があなたの宝のところに行っていることがあるのです。イエス様はこう言われました。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのです。」(マタイ6:21)と。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあります。そのようにして、いつしか心が神から離れてしまうのです。心が神から離れ、人を信頼し、自分の肉に頼る人は、のろわれることになります。必ず失望することになるのです。

一方、主に信頼し、主を頼みとする人はどうでしょうか。7節には、「主に信頼する者に祝福があるように。その人は主を頼みとする。」とあります。そこには、祝福があります。その人は、水のほとりに植えられた木のようです。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめません。どこかで聞いたことがあるよフレーズですね。そうです、これは詩篇1篇3節からの引用です。詩篇1篇1節からお読みします。「1 幸いなことよ 悪しき者のはかりごとに歩まず 罪人の道に立たず 嘲る者の座に着かない人。2 主のおしえを喜びとし 昼も夜も そのおしえを口ずさむ人。3 その人は 流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える。」(詩篇1:1-3)
  すばらしい約束ですね。主の教えを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人は、流れのほとりに植えられた木のようになります。時が来ると実を結び、その葉は枯れることがありません。その人は何をしても栄えます。なぜでしょうか。なぜなら、その人は主に信頼したからです。主を頼みとし、他のものを頼みとしませんでした。そういう人は日照りの年も心配なく、いつまでも実を結ぶことをやめません。

  イエス様は、そのことを一つのたとえを用いて語られました。ぶどうの木と枝のたとえです。ヨハネ15章5節です。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」
  イエス様がぶどうの木で、私たちはその枝です。枝が木につながっているなら、その人は多くの実を結びます。枝自身が必死になって努力しなくても、自然に実を結ぶのです。枝にとって必要なことは何かというと、自分で実を結ぼうとすることではなく、木につながっていることです。枝が木につながっているなら、木の根が養分を吸い上げて枝に届けるので、自然に枝が成長して実を結ぶようになります。そのためには「時」が必要です。時が来れば実がなります。自分のタイミングでは実を結ばないかもしれませんが、時が来れば必ず実を結ぶようになるのです。でも、そのために力む必要はありません。ただイエスにとどまっていればいいのです。つながっていればいい。そうすれば、自然に実を結ぶようになります。これが主に信頼するということです。これが主を頼みとするということです。これが祝福です。
  でも、イエスにつながっていなければ何もすることができません。何の実も結ぶことができない。不毛な人生となります。どんなに頑張っても、どんなに汗水流しても、すべてが徒労に終わってしまいます。これがのろいです。神から心が離れ、人に信頼する者、肉の力を頼みとする者は、不毛な人生となるのです。こんなに時間をかけたのに、こんなにお金をかけたのに、こんなに信頼したのに、全部裏切られた、全部水の泡となったと、がっかりするようになります。失望させられることになるのです。

人間に信頼しない、肉なる者を自分の腕としないで、主に信頼する人は幸いです。言い換えると、自分を頼みとする人は高慢な人です。枝だけで何でもできると思い込んでいるわけですから。でも枝だけでは実を結ぶことはできません。実を結ぶために必要なことはたった一つ。それはつながるということ。ただそれだけです。木につながること。イエス様にとどまること。そういう人は多くの実を結びます。それが主に信頼するということ、主を頼みとするということなのです。

Ⅲ.人の心は何よりもねじ曲がっている(9-10)

どうして人に信頼する者、肉なる者を自分の腕とする者はのろわれるのでしょうか。ここが今日の中心となるところです。第三に、それは、人の心は何よりもねじ曲がっているからです。何よりも陰険だからです。9~10節をご覧ください。「9 人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。10 わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる。」

人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。人の深層をよく表していると思います。新改訳改訂第3版では、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」と訳しています。「ねじ曲がっている」という語を「陰険」と訳したんですね。「陰険」とは表面的にはよく見せても、裏ではこっそり悪いことをする、という意味です。「あの人は陰険だ」という時はそのような意味で使っていますけど、悪くないと思います。原意からそれほど離れていません。新共同訳では、「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる」と訳しています。「とらえ難く病んでいる」これもいいですね。人の心はとらえがたく病んでいます。そういう意味です。でも一番原意に近いのは「偽るもの」です。口語訳ではこれを「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている」と訳しています。心はよろずのもの、万物ですね、それよりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっています。つまり、何よりも偽るものであるという意味です。創造主訳でもそのように訳しています。「人の心はどんなものよりも偽るもので、直すことが難しい」。すばらしいですね。口語訳とほぼ同じですが、こういう意味です。一番ストンときます。

ちなみに、この「ねじ曲がっている」の原語は、ヘブル語の「アーコーブ」という語です。皆さん、聞いたことがありませんか。「アーコーブ」。これは「ヤーコーブ」、つまり、あの「ヤコブ」の語源となった語です。意味は何でしたか。意味は「かかとをつかむ者」です。つまり、騙す者、偽る者、嘘つき、悪賢いということです。人の心というのは、騙すもの、偽るもの、嘘をつくもの、悪賢いもの、人を出し抜くものであるということです。表面ではよく見せていても、裏では悪事を働きます。陰険ですね。外側では良い人を装っても、内側では人を見下しています。それは人の心が「アーコーブ」だからです。陰険だから、ねじ曲がっているから、偽るものだから、何にもましてとらえがたく病んでいるからです。それが人の心です。あなたの心です。そんな人間を信頼したらどうなりますか。あなたをがっかりさせ、あなたを傷つけ、あなたを苦しめ、あなたを怒らせることになるでしょう。だからこそ、そんな人間を信頼してはいけない、肉なる者を自分の腕としてはいけない、と神は言われるのです。

  イザヤは、こう言いました。イザヤ書28章20節です。「まことに、寝床は身を伸ばすには短すぎ、覆いも身をくるむには狭すぎる。」当時、北からアッシヤ帝国が北王国イスラエルに迫って来ていましたが、彼らはエジプトと同盟を結べば大丈夫だと思っていました。しかし、そのエジプトも身を伸ばすには短いベッドにすぎず、身をくるむには狭すぎるブランケットだと言ったのです。彼らは自分たちをカバーしてくれるものをエジプトに求めました。自分たちを覆ってくれるもの、守ってくれる存在、保護してくれる存在を神ではなく、エジプトに求めたのです。エジプトはこの世の象徴です。肉なるものの象徴ですが、そのようなものがあなたを救うことはできません。イザヤ書2章22節にある通りです。「人間に頼るな。鼻で息をする者に。そんな者に、何の値打ちがあるか。」
  鼻で息をする人間には、何の値打ちもありません。いつも心がコロコロ変わっているから「心」と言うんだと聞いたことがありますが、人の心はいつもコロコロ変わります。何よりも陰険です。とらえ難く病んでいます。それは癒しがたいものです。そんな人間に頼っていったいどうなるというのでしょうか。どうにもなりません。いつも自分の心に騙され続けることになります。

大体、自分がまともな人間だと思っているのは人と比較しているからです。他の人と比べて自分の方がマシだと思っています。自分の夫と比べて、隣の人と比べて、あの人と比べて、「私はそんなひどい人間じゃない」「あの人ほど悪じゃない」と思っています。でも、聖書の基準に照らし合わせたらどうでしょうか。もう顔を覆いたくなるのではないですか。あまりにもいい加減な自分の姿を見せられて。

では、どうしたら良いのでしょうか。それが9節の後半で問いかけていることです。ここには「だれが、それを知り尽くすことかできるだろうか」とあります。どうしたらいいのかということです。人類は自分の努力によって、さまざまなものを考え、文明の利器を作り出してきましたが、どんなに努力しても変えられないものがあります。それが、自分の心です。それは何よりも陰険でねじ曲がっています。それは癒しがたい。だれが、それを変えることができるのでしょうか。それがおできになるのは主なる神様だけです。10節をご覧ください。ここに、こうあります。「わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる。」
  人の心は何よりもねじ曲がっているので、それを変えることは誰にもできません。精神分析とか、自己分析とか、自己評価とか、他己評価とか、そういったことで見極めることはできませんが、神様はおできになります。神は私たちの心を探り、心の奥を試し、それぞれの生き方によって、行いの実にしたがって報いてくださいます。
  へブル4章12節にはこうあります。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」
  神のことばは生きていて、力があります。それは両刃の剣よりも鋭く、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通すのです。人の心の思いやはかりごとを判別することができます。正しい分析をすることができるのです。神のことばという判断基準をもって。これはいつまでも変わることがありません。人間の心はコロコロと変わりますが、神のことばは変わることがありません。神のことばは、書かれてから三千数年以上経っていますが、時代によって書き変えたり、付け加えたり、削除されたりしていません。ずっと同じです。いつまでも変わることがありません。ですから、神のことばは確かなものであると言えるのです。それは信頼に足るものです。書き換えられていないというのは完全なものだからです。ですから、私たちがすべきことはこれです。詩篇139篇23~24節です。「23 神よ、私を探り私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。24 私のうちに傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」
  これが私たちのすべきことです。まず自分の心がどれほど陰険で、罪に汚れているかを知り、それは人には直せない、どうすることもできないもの、自分の力でも、人に頼っても、どうすることもできない、と認めなければなりません。しかし、ここに私たちの心を探り、私たちの心を知っておられる方がおられる。この方にすべてをゆだね、私の心を調べ、その思い煩いを知ってもらわなければなりません。そして、とこしえの道に導いていただくことです。そのお方とはだれでしょうか。それは、私たちの主イエス・キリストです。

 黙示録2章23節には、復活の主がフィラデルフィアの教会に書き送った手紙がありますが、その中にこうあります。「また、この女の子どもたちを死病で殺す。こうしてすべての教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知る。わたしは、あなたがたの行いに応じて一人ひとりに報いる。」
  ここに、「こうしてすべての教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知る」とあります。イエス・キリストは人の思いと心を探られる方です。人の心を造り変えることがおできになる方です。宇宙一の名医、文字通り、神の手を持つ医者なのです。この方の手にかかれば、何よりもねじ曲がった、何よりも陰険で、何よりもとらえ難くやんでいる、どんなものよりも偽るあなたの心も癒していただけるのです。だからこの方に信頼しなければならないのです。

最後に、まとめとして、ニューヨークの風船売りの話をして終わります。彼は、まず白い風船を空中に浮かばせ、赤や黄色の風船も次々と浮かばせました。しばらくすると、子どもたちが集まって来ました。ところが、風船を見つめていた黒人の少年が聞きました。「おじさん、黒い色の風船も空中に浮かぶ?」すると風船売りは少年を見つめて言いました。「もちろんだよ。風船が空中に浮くのは色ではなく、中に入っているガスのおかげだから。」

同じように、人は心が美しいなら、外見に関わりなくすばらしい人生を生きることができます。人生の祝福は、あなたの心にかかっているのです。あなたの心が肉なる者を自分の腕とし、主から離れている人はのろわれますが、主に信頼するなら祝福されます。その人は、水のほとりに植えられた木のようになるのです。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめません。そのような祝福に満ち溢れた人生を歩ませていただきましょう。

Ⅱ列王記8章

 

 今回は、Ⅱ列王記8章から学びます。

 Ⅰ.あのシュネムの女(1-6)

まず、1~6をご覧ください。「1 エリシャは、かつて子どもを生き返らせてやったあの女に言った。「あなたは家族の者たちと一緒にここを去り、とどまりたいところに、しばらく寄留していなさい。主が飢饉を起こされたので、この国は七年間、飢えに見舞われるから。」2 この女は神の人のことばにしたがって出発し、家族を連れてペリシテ人の地に行き、七年間滞在した。3 七年たった後、彼女はペリシテ人の地から戻って来て、自分の家と畑を得ようと王に訴え出た。4 そのころ、王は神の人に仕える若者ゲハジに、「エリシャが行った大いなるわざを、残らず私に聞かせてくれ」と話していた。5 彼が王に、死人を生き返らせたあの出来事を話していると、ちょうどそこに、子どもを生き返らせてもらった女が、自分の家と畑のことについて王に訴えに来た。ゲハジは言った。「王様、これがその女です。そしてこれが、エリシャが生き返らせた子どもです。」6 王が彼女に尋ねると、彼女は王にそのことを話した。すると王は彼女のために、一人の宦官に「彼女のすべての物と、彼女がこの地を離れた日から今日までの畑の収穫のすべてを、返してやりなさい」と命じたのであった。」

「かつて子どもを生き返らせてやったあの女」とは、シュネムの女のことです。彼女のことについては、Ⅱ列王4章8~37節にあります。エリシャのために、自分たちの家の屋上に休んだり、勉強することができるような部屋を作った人です。彼女には子どもがいませんでしたが、エリシャの祈りによって男の子が与えられました。しかし、その子が父親のところに行ったとき、「頭が、頭が」と言ったかと思うと死んでしまいました。エリシャは主に祈り、その子を生き返らせました。そのシュネムの女に、家族の者たちと一緒にそこを去り、留まりたいところに、しばらく寄留していなさい、と言ったのです。主が飢饉を起こされたので、北イスラエル王国は七年間、飢えに見舞われることになるからです。今、アラムの包囲から解かれて、飢饉から脱したかと思いきや、それとは別の七年間の厳しい飢饉がやって来るというのです。しかも、ここに主が飢饉を起こされたとあるので、それはイスラエルに対する神のさばきによるものであったことがわかります。

そこでこの女はエリシャのことばに従って、家族を連れてペリシテ人の地に行き、そこに七年間滞在しました。なぜペリシテ人の地に行ったのでしょうか。そこは地中海沿岸の地で平地でしたから、比較的肥沃だったのでしょう。彼女はそこに七年間滞在し、七年後にそこからサマリアに戻ってきましたが、自分たちがいない間に家と畑を他の人に取られていました。そこで彼女は自分の家と畑を取り戻そうと王に訴え出ました。

ちょうどその頃、イスラエルの王ヨラムはエリシャの奇跡に興味を持ち、エリシャに仕えていたゲハジから話を聞いていました。基本的に彼はエリシャを嫌っていましたが、エリシャが行った数々の奇蹟には興味があったようです。そこでエリシャに仕えるゲハジが、ヨラム王に死人を生き返らせたあの出来事を話していると、ちょうどそこにそのシュネムの女がやって来たのです。自分の家と畑について王に訴えるためにです。そこでゲハジは驚いて王に言いました。「王様、これがその女です。そしてこれが、エリシャが生き返らせた子どもです。」そこで王が彼女に尋ねると、彼女はその出来事について話しました。すると王は彼女のために一人の宦官に命じて、彼女のすべての物と、彼女がこの地を離れた日から今日までの畑の収穫のすべてを、返してやりました。

本当に不思議ですね。神様のなさることは。ちょうど良い時に、ちょうど良いことを行なってくださいます。これが私たちの信じている神の御業です。神は、神を愛する者には、すべてのことを働かせて益としてくださる方なのです(ローマ8:28)。

Ⅱ. ベン・ハダドに代わる新しい王ハザエル(7-15)

次に、7~15節をご覧ください。「7 さて、エリシャがダマスコに行ったとき、アラムの王ベン・ハダドは病気であった。すると彼に「神の人がここまで来ている」という知らせがあった。8 王はハザエルに言った。「贈り物を持って行って、神の人を迎え、私のこの病気が治るかどうか、あの人を通して主のみこころを求めてくれ。」9 そこで、ハザエルはダマスコのあらゆる良い物をらくだ四十頭に載せて、贈り物として携え、神の人を迎えに行った。彼は神の人の前に来て立ち、こう言った。「あなたの子、アラムの王ベン・ハダドが、『この病気は治るであろうか』と言って、あなたのところへ私を遣わしました。」10 エリシャは彼に言った。「行って、『あなたは必ず治る』と彼に告げなさい。しかし、主は私に、彼が必ず死ぬことも示された。」11 神の人は、彼が恥じるほどじっと彼を見つめ、そして泣き出したので、12 ハザエルは尋ねた。「ご主人様はなぜ泣くのですか。」エリシャは答えた。「私は、あなたがイスラエル人に害を加えようとしていることを知っているからだ。あなたはイスラエル人の要塞に火を放ち、その若い男たちを剣で切り殺し、幼子たちを八つ裂きにし、妊婦たちを切り裂くだろう。」13 ハザエルは言った。「しもべは犬にすぎないのに、どうして、そんな大それたことができるでしょう。」しかし、エリシャは言った。「主は私に、あなたがアラムの王になると示されたのだ。」14 彼はエリシャのもとを去り、自分の主君のところに帰った。王が彼に、「エリシャはあなたに何と言ったか」と尋ねると、彼は「あなたは必ず治ると言いました」と答えた。15 しかし、翌日、ハザエルは厚い布を取って水に浸し、王の顔にかぶせたので、王は死んだ。こうして、ハザエルは彼に代わって王となった。」

エリシャがダマスコに行ったとき、アラムの王ベン・ハダドは病気でした。ダマスコはアラム(シリヤ)の首都です。いったいなぜエリシャはダマスコへ行ったのかはわかりません。エリシャは北イスラエル王国を中心に活動していたので、敵国であるアラムの首都ダマスコまで行くのは稀なことです。おそらく、アラムの王ベン・ハダドからの促しがあったのではないかと思われます。というのは、当時彼は病気になっていたからです。数々のエリシャが行った奇跡を聞き、彼に治してもらうことを期待していたのではないかと思います。そのベン・ハダドに、「神の人」がここまで来ているという知らせがありました。

そこでアラムの王ベン・ハダドは、ハザエルに贈り物を持って行き、神の人を迎え、自分の病気が治るかどうか、主のみこころを求めるようにと言いました。ここには「神の人」という言葉が強調されています。異教の王がイスラエルの神、主の預言者を「神の人」と呼ぶことは珍しいことです。彼はそれほどエリシャを尊敬していたということです。

そこでハザエルはダマスコのあらゆる良い物をらくだ四十頭に載せて、贈り物として携え、エリシャを迎えに行きました。らくだ四十頭ですよ。それは相当の贈り物でした。ベン・ハダドはそこまでしてエリシャを迎えたかったのです。そこまでして病気が治りたかったのです。

ハザエルはエリシャの前に立つと、こう言いました。「あなたの子、アラムの王ベン・ハダドが、『この病気は治るであろうか』と言って、あなたのところへ私を遣わしました。」

ここでハザエルはアラムの王ベン・ハダドのことを、「あなたの子」と言っています。これは、ベン・ハダドの意志を表明しています。彼はエリシャが語る神のことばを主のみこころと認め、その判断に従うという意思を示したのです。

すると、エリシャは彼にこう言いました。10節です。「行って、『あなたは必ず治る』と彼に告げなさい。しかし、主は私に、彼が必ず死ぬことも示された。」

エリシャは彼に二つのことを告げました。一つは、ベン・ハダドの病気は必ず治るということ、そしてもう一つのことは、しかし、彼は必ず死ぬということです。これは病気によって死ぬということではなく、別の形で死ぬということです。

するとエリシャはハザエルが恥じるほどじっと彼を見つめ、急に泣き出しました。どうして泣きだしたのか驚いたハザエルはエリシャに尋ねました。「ご主人様はなぜ泣くのですか。」するとエリシャはその理由を彼に告げました。それは、このハザエルがイスラエル人に害を加えようとしていることを知っていたからです。彼はイスラエルの要塞に火を放ち、その若い男たちを剣で切り殺し、幼子たちを八つ裂きにし、妊婦たちを切り裂くようになります。

それを聞いたハザエルは驚きました。なぜなら、犬にすぎない自分が、そんな大それたことなどできるはずがないと思っていたからです。表面上は。しかし、エリシャは彼にこう告げます。「主は私に、あなたがアラムの王になると示されたのだ。」彼はベン・ハダドに代わってアラムの王になるというのです。

彼はエリシャのもとを去り、自分の主君のところに帰り、主君ベン・ハダドにそのことを報告しましたが、翌日、彼は厚い布を取って水に浸し、王の顔にかぶせたので王は死に、彼が代わって王になりました。彼の治世はB.C.841~801年までの40年間です。その間、彼はイスラエルを大いに苦しめることになります。エリシャが涙したのは(11)、このことを示されてのことだったのです。

ハザエルは、犬にすぎない自分に、そんな大それたことができるはずがないと言いましたが、その翌日にはエリシャが預言した通り、自分の主君ベン・ハダドをいとも簡単に殺してしまいました。彼はただ自分の内に潜む邪悪さに気付いていなかっただけだったのです。しかし、機会が到来すると、その邪悪な思いが一気に化け物のような姿を取ることがあります。それは私たちにも言えることです。私たちも罪赦された罪人にすぎず、私たちの内にはそうした罪の性質が残っているのです。パウロはそんな自分の肉の性質を嘆いて、「私は本当に惨めな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ:24)と言ったのです。私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています(同7:19)と。そこで彼はイエス様に目を向けます。イエス・キリストにある者は罪に定められることは決してありませんと。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの道間の原理が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。肉によって弱くなったため、律法にはできないことを、神はしてくださいました。神はご自身の御子を、罪深い肉と同じような形で、肉において罪を処罰されました。そのいのちの御霊によって、罪と死の原理から解放していただくことができる。これは私たちも同じです。私たちの肉の力によってではなく、いのちと御霊の原理によってそうした罪と死の原理から解放され、主のご性質に似た者となるように祈り求めていきたいと思います。

Ⅲ.ユダの王ヨラム(16-29)

最後に、16~29節をご覧ください。まず24節までをお読みします。「16 イスラエルの王アハブの子ヨラムの第五年、ヨシャファテがまだユダの王であったとき、ユダの王ヨシャファテの子ヨラムが王として治めるようになった。17 彼は三十二歳で王となり、エルサレムで八年間、王であった。18 彼はアハブの家の者がしたように、イスラエルの王たちの道に歩んだ。アハブの娘が彼の妻だったからである。彼は主の目に悪であることを行った。19 しかし、主そのしもべダビデに免じて、ユダを滅ぼすことを望まれなかった。主はダビデとその子孫に常にともしびを与えると彼に約束されたからである。20 ヨラムの時代に、エドムが背いてユダの支配から脱し、自分たちの上に王を立てた。21 ヨラムは、すべての戦車を率いてツァイルへ渡って行き、夜襲を試みて、彼を包囲していたエドムと戦車隊長たちを討った。ところが、ヨラムの兵たちは自分たちの天幕に逃げ帰った。22 エドムは背いてユダの支配から脱した。今日もそうである。リブナもそのときに背こうとした。23 ヨラムについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、それは『ユダの王の歴代誌』に確かに記されている。24 ヨラムは先祖とともに眠りにつき、先祖とともにダビデの町に葬られた。彼の子アハズヤが代わって王となった。」

ここから、話は再び南ユダ王国に関する記述に戻ります。列王記には、北王国と南王国の歴史が交互に記録されているので、どちらの記録なのかをよく見分けなければなりません。これは南王国の記録です。

北イスラエルの王ヨラムの第五年に、南王国で王となったのはヨシャパテの子のヨラムです。どちらの王も「ヨラム」なので紛らわしいですが、それぞれ別の人物です。彼は32歳で王となり、8年間ユダを治めました。

彼について特筆すべきことは、彼はアハブの家の者がしたように、イスラエルの王たちの道に歩んだということです。アハブの娘が彼の妻だったのです。南ユダ王国にバアル礼拝を導入したこの北イスラエルのアハブ王の娘です。アハブ王に関してはⅠ列王記16~22章に記されてありますが、彼の妻はイゼベルといって、シドン人の王エテバアルの娘でした(Ⅰ列王16:31)。彼女によってイスラエルにバアル礼拝が持ち込まれました。バアルだけではありません。アシェラ像も造りました。ですから、アハブは、彼以前の、どのイスラエルの王たちにまして、主の怒りを引き起こしたのです。その娘がヨシャファテの子ヨラムと結婚したのです。南ユダがどうなるかは目に見えています。ここには「彼は主の目に悪であることを行った。」とあるように、彼は悪を行いました。悪王でした。彼の父ヨシャパテは善い王でしたが、彼は悪い王だったのです。妻の影響を受けてバアル礼拝者となったからです。18節に「彼はアハブの家の者がしたように」というのは、そういう意味です。

しかし、主はそのしもべダビデに免じて、ユダを滅ぼすことを望まれませんでした。主はダビデとその子孫に常にともしびを与えると彼に約束されたからで(19)どういうことでしょうか。

これはⅡサムエル記7章にあるダビデ契約のことです。Ⅱサムエル7章11b~16節にはこうあります。

「主はあなたに告げる。主があなたのために一つの家を造る、と。12 あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。14 わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が不義を行ったときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。15 しかしわたしの恵みは、わたしが、あなたの前から取り除いたサウルからそれを取り去ったように、彼から取り去られることはない。16 あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。』」

これは、主がダビデに約束されたことです。主はダビデのために一つの家を造る、と言われました。それはとこしえまでも堅く立つ王国です。それは、ダビデの身から出る世継ぎの子が、ダビデの死後に、彼の王国を確立させるということです。ダビデの世継ぎ子とはソロモンのことです。しかし、それはソロモンのことでなく、ダビデの子孫として生まれ、永遠の神の国を打ち立てられるメシヤ、キリストのことを預言していました。それはとこしえまでも堅く立つ王国です。ですから、15~16節には、「しかしわたしの恵みは、わたしが、あなたの前から取り除いたサウルからそれを取り去ったように、彼から取り去られることはない。あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」と言われているのです。サウルからは恵みが取り去られましたが、ソロモンからは取り去られることはありませんでした。確かにソロモンも罪を犯しました。サウルとソロモンの罪を比べたら、偶像礼拝に走ったソロモンの方がはるかに大きなものでした。しかしソロモンの王座が奪われることはありませんでした。なぜなら、これが永遠の契約に基づいていたからです。

これが神の救いです。神の救いは、私たちの不信仰によって取り去られるものではありません。神はこの救いの恵みを、イエス・キリストを通して私たちに約束してくださいました。ヨハネ10章29節には、「だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」とあります。どんなことがあっても、キリストにある神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。私たちはイエス・キリストによって決して滅ぼされることのない救いを受けたのです。これが新しい契約です。一度救われたら、その救いを失うことは絶対にありません。もし罪を犯したなら、神に告白することによって赦していただくことができる。つまり、南ユダが滅びることはないということです。彼らが滅びないのは、ただ神の恵みによるのです。

列王記の著者は、このヨラムの時代を特徴づける出来事として二つのことを記しています。一つは、エドムの反乱と、もう一つはリブナの反乱です。20~22節にあります。「20 ヨラムの時代に、エドムが背いてユダの支配から脱し、自分たちの上に王を立てた。21 ヨラムは、すべての戦車を率いてツァイルへ渡って行き、夜襲を試みて、彼を包囲していたエドムと戦車隊長たちを討った。ところが、ヨラムの兵たちは自分たちの天幕に逃げ帰った。22 エドムは背いてユダの支配から脱した。今日もそうである。リブナもそのときに背こうとした。」

エドムはヨラムの父ヨシャパテの時代にユダに征服され、傀儡王によって統治されていましたが、ヨシャパテが死ぬと、彼らはユダに背き、エドム人を王として立てました。それでヨラムはエドムの反乱軍を制圧するためにツァイルに進軍しましたが、そこでエドム軍に包囲され、いのちからがらエルサレムに逃げ帰りました。リブナはエルサレムの南西、ペリシテの地の国境に位置する町です。リブナもエドムの反乱に刺激されたのか、そのときに背こうとしました。

最後に、25~29節をご覧ください。「25 イスラエルの王アハブの子ヨラムの第十二年に、ユダの王ヨラムの子アハズヤが王となった。26 アハズヤは二十二歳で王となり、エルサレムで一年間、王であった。彼の母の名はアタルヤといい、イスラエルの王オムリの孫娘であった。27 彼はアハブの家の道に歩み、アハブの家に倣って主の目の前に悪であることを行った。彼自身、アハブ家の婿だったからである。28 彼はアハブの子ヨラムとともに、アラムの王ハザエルと戦うため、ラモテ・ギルアデに行った。アラム人はヨラムを討った。29 ヨラム王は、アラムの王ハザエルと戦ったときにラマでアラム人に負わされた傷を癒やすため、イズレエルに帰った。ユダの王ヨラムの子アハズヤは、アハブの子ヨラムが弱っていたので、彼を見舞いにイズレエルに下って行った。」

北イスラエルのヨラム王の第12年に、アハズヤがユダの王になりました。「アハズヤ」という王も北イスラエルと南ユダにいたので紛らわしいですが、これもまた別人です。これは南ユダの王ヨラムの子のアハズヤです。北イスラエルでは、アハブ→アハズヤ→ヨラムと続きますが、南ユダでは、ヨシャパテ→ヨラム→アハズヤと続きます。

この南ユダの王アハズヤは22歳で王となり、エルサレムで1年間治めました。その治世はたったの1年間でした。彼の特質すべきことは、彼の母親の名がアタルヤといって北イスラエルの王オムリの孫娘であったということです。つまり、アハブとイゼベルの娘です。そのアタルヤが南ユダにバアル礼拝を持ち込みました。今、礼拝でエレミヤ書からお話していますが、南ユダが偶像礼拝に陥った最大の原因は、このアタルヤだったのです。彼はそうした母アタルヤの影響を受けてバアル礼拝を採用し、アハブの家にならって、主の目の前に悪を行ったのです。

アハズヤは、イスラエルの王ヨラムとともにアラムの王ハザエルと戦うために、ラモテ・ギルアデに出て行きましたが、アラム人はヨラムを打ちました。ユダの王アハズヤは、アハブの子ヨラムが弱っていたので、彼を見舞いにイズレエルに下って行きましたが、これは愚かな選択でした。というのは、Ⅰ列王記22章でもこれと同じ出来事があったからです。彼の祖父ヨシャパテはアハブの同盟軍としてラモテ・ギルアデに出向いてアラムと戦いましたが、そこでアハブは戦死し、ヨシャパテも殺されそうになりました。今、その時と全く同じことが行われているのです。アハズヤは、彼の祖父ヨシャパテがかつてどうだったのかを思い起こし、その教訓から学ぶべきだったのに学びませんでした。全く同じ失敗を繰り返しました。

それは私たちにも言えることです。歴史は繰り返します。それは聖書を見てもわかります。人間の本質は変わらないからです。それゆえ、その失敗から学ばなかったら同じ結果になってしまいます。聖書の歴史を学び、同じ轍を踏まないように、そこからしっかりと教訓を学びたいと思います。

エレミヤ16章1~21節「主は生きておられる」

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きょうは、エレミヤ書16章から学びたいと思います。タイトルは「主は生きておられる」です。14~15節をご覧ください。
  「それゆえ、見よ、その時代が来る─主のことば─。そのとき、もはや人々は『イスラエルの子らをエジプトの地から連れ上った主は生きておられる』と言うことはなく、ただ『イスラエルの子らを、北の地から、彼らが散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」
  「そのとき」とは、イスラエルの子らが、北の地、これはバビロンのことですが、バビロンから彼らの土地に帰るときのことです。そのとき、彼らは「主は生きておられる」というようになります。それはイスラエルの子らだけではありません。19節には諸国の民とありますが、これは異邦人のことです。それを見た異邦人も、自分たちが先祖から受け継いだものは何の役にも立たない空しいものばかりであり、そのような神は神ではない。真の神はイスラエルの神、主であることを知るようになるというのです。

Ⅰ.私たちの罪とは何か(1-13)

 まず、1~9節をご覧ください。「1 次のような主のことばが私にあった。2 「あなたはこの場所で、妻をめとるな。息子や娘も持つな。」3 まことに主は、この場所で生まれる息子や娘について、また、この地で彼らを産む母親たちや、彼らをもうける父親たちについて、こう言われる。4 「彼らはひどい病気で死ぬ。彼らは悼み悲しまれることなく、葬られることもなく、地の面の肥やしとなる。また、剣と飢饉で滅ぼされ、屍は空の鳥や地の獣の餌食となる。」5 まことに主はこう言われる。「あなたは、弔いの家に入ってはならない。悼みに行ってはならない。彼らのために嘆いてはならない。わたしがこの民から、わたしの平安を、また恵みと、あわれみを取り去ったからだ─主のことば─。6 この地の身分の高い者や低い者が死んでも葬られず、だれも彼らを悼み悲しまず、彼らのために身を傷つけず、髪も剃らない。7 死者を悼む人のために、葬儀でパンが裂かれることはなく、父や母の場合でさえ、悼む人に慰めの杯が差し出されることもない。8 あなたは弔いの宴会の家に行き、一緒に座って食べたり飲んだりしてはならない。」9 まことに、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。「見よ。わたしはこの場所から、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶えさせる。あなたがたの目の前で。あなたがたが生きているうちに。」」

前章15章の終わりのところで主はエレミヤに、もしあなたが帰ってくるなら、私はあなたを堅固な青銅の城壁とすると約束してくださいました。どんなに敵があなたと戦っても、彼らはあなたに勝つことはできない。わたしがあなたとともにいて、あなたを助け出すからだ。そのように約束してくださいました。

その後で主はエレミヤに、不思議なことを命じられました。それは妻をめとるなということです。これは13章で学んだあのボロボロの帯のように、エレミヤの行動をもって語るためです。これを行動預言と言います。主はエレミヤに行動を通して語るように命じられたのです。その一つのことが、妻をめとるな、結婚するなということでした。エレミヤの時代は結婚することは普通のことでした。特に旧約聖書を信じていたユダヤ人にとって、「生めよ、増えよ、地を満たせ」とか、「あなたの子孫を海の砂、空の星のようにする」という約束の実現のためにも、結婚することが祝福だと考えられていました。それなのに、ここで主は「あなたはこの場所で、妻をめとるな、息子や娘も持つな。」と言われたのです。どうしてでしょうか。

その理由が3節と4節にあります。「3 まことに主は、この場所で生まれる息子や娘について、また、この地で彼らを産む母親たちや、彼らをもうける父親たちについて、こう言われる。4 「彼らはひどい病気で死ぬ。彼らは悼み悲しまれることなく、葬られることもなく、地の面の肥やしとなる。また、剣と飢饉で滅ぼされ、屍は空の鳥や地の獣の餌食となる。」」
  子どもをもうけても、その子どもが虐殺されることになるからです。これは、具体的にはバビロン捕囚のことを指していますが、バビロン軍がやって来る時、その子どもたちは病気で死んだり、剣と飢饉で滅ぼされることになるからです。こうした悲惨な目に遭うなら、むしろ子どもを生まないほうがましだというのです。

5節にはもう一つのことが命じられています。それは、弔いの家に入ってはならないということでした。つまり、葬式に参列してはならないということです。「まことに主はこう言われる。「あなたは、弔いの家に入ってはならない。悼みに行ってはならない。彼らのために嘆いてはならない。わたしがこの民から、わたしの平安を、また恵みと、あわれみを取り去ったからだ─主のことば─。」

葬式は、いわゆる人生における大切な儀式です。当時、喪中の家に行かないことは、隣人に対する無関心と考えられていました。その葬式に行ってはならないというのです。どうしてでしょうか。それは5節の後半にあるように、これはただの死ではないからです。ここに「わたしがこの民から、わたしの平安を、また恵みと、あわれみを取り去ったからだと」とあるように、これは神のさばきによる死だからです。神がこの民から恵みとあわれみを取り去られました。だから、彼らのために嘆いてはならないと言われているのです。

そしてもう一つのことが命じられています。それは9節にあるように、結婚式などの祝宴に出るなということです。ここには「まことに、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。「見よ。わたしはこの場所から、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶えさせる。あなたがたの目の前で。あなたがたが生きているうちに。」とあります。それらの喜びが、一瞬にうちに取り去られるようになるからです。

いったい何が問題だったのでしょうか。それは、10節と11節にあるように、彼らの先祖が主を捨て、ほかの神々に従い、これに仕え、これを拝み、主を捨てて、主の律法を守らなかったことです。皆さん、主を捨てることが罪です。彼らの先祖も、彼ら自身も主を捨てて、ほかの神々に仕えました。主を捨てることが罪なのです。

日本のことわざに、「捨てる神あれば拾う神あり」ということわざがあります。自分を捨てて相手にしてくれない人もいれば、親切に助けてくれる人もいる。だから、困ったことがあっても、くよくよするなという意味ですが、これは、八百万の神を信じている日本だからこそ存在することわざであると言えるでしょう。八百万ものいろいろな神がいるのだから、あなたを捨てる神があれば、あなたを拾う神もある。人生いろいろ、神様もいろいろというわけです。でも実際は違います。実際は逆です。神があなたを捨てるのではなく、あなたが神を捨てるのです。人間の側で八百万もある神々の中から都合のいい神を拾って、それでご利益がなければ、じゃこっちの神と簡単に捨ててしまうのです。
  エレミヤの時代もそうでした。イスラエルの神、主と他の神々を天秤にかけ、自分たちにメリットをもたらしてくれる神を選り好みして拝んだり、必要なくなったら捨てたり、必要であればまた拾ったりしていたのです。忙しいですね。神々の方もたまったもんじゃありません。捨てられたり、拾われたりと、人間様の都合によってあしらわれるわけですから。
  でも、主を捨てるということがどんなに恐ろしい罪か。彼らの先祖たちは、約束の地カナンに入ったときに既に教えられていました。ヨシュア記24章20節にこうあります。「あなたがたが主を捨てて異国の神々に仕えるなら、あなたがたを幸せにした後でも、主は翻って、あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす。」
  これは、イスラエルの民が約束の地に入ったばかりの時に語られたことばです。約800年も前にちゃんと警告されていたのです。もし主を捨てて他の神々に仕えるなら、あなたがたを幸せにした後でも、あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼすと。それがアッシリヤ捕囚であり、バビロン捕囚だったのです。
  主を捨てるということは最悪のことです。これ以上の罪はありません。南王国ユダの人たちは、これを身をもって知ることになります。主を捨てるとはどういうことなのかを。信仰から離れてこの世の神に身をゆだねることがどんな弊害をもたらすことになるのか、この世の流れに従って行くことがどんなに悪く、苦々しいことなのかを知るようになるのです。

では、主を捨てるとはどういうことなのでしょうか。それは具体的には神の律法を守られないことです。主のみことばに従わないことです。このように考えると、これは何もエレミヤの時代の当時の南ユダの民だけの問題ではなく、私たちにも問われていることでもあるということがわかります。というのは、私たちは神のことばに従わないことが多いからです。私たちはしょっちゅう主を捨てていることになります。ですから、これは私たちとかけ離れた問題ではないのです。むしろ、私たちも日常茶飯事に犯している罪と言えるでしょう。いったい何が問題だったのでしょうか。

12節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。「さらに、あなたがた自身が、自分たちの先祖以上に悪事を働き、しかも、見よ、それぞれ頑なで悪い心のままに歩み、わたしに聞かないでいる。」
   ここには「自分たちの先祖以上に悪事を働き」とありますが、これは、ヒゼキヤ王の子マナセから始まった偶像礼拝のことを指しています。マナセ王はこのエレミヤの時代から50年ほど前に南ユダを治めた王ですが、南ユダ史上最悪の王でした。彼についてはⅡ歴代誌33章に記録してありますが、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねて、主の目の前に悪を行ないました。しかし、このエレミヤの時代のユダの民は、そのマナセよりももっとひどかったのです。もう手の付けようがありませんでした。しかも、頑なで悪い心のままに歩んでいました。つまり、問題は彼らの心だったのです。頭の問題ではなく心の問題です。これが主のことばに聞き従えなくしていたのです。英語のKJV(King James Version:欽定訳聖書)では、この頑な心を「imagination」(イマジネーション)と訳しています。「思い」ですね。ハート(心)というよりイマジネーション(思い)です。これがいろいろな情報によって歪められて偶像化し、一つのイメージが出来上がり、結果、神から離れていくようになったのです。主のみことばに聞き従いたくなかったのも、彼らの心(思い)が頑なだったからです。ですからパウロはローマのクリスチャンたちに、この思いを一新しなさいと勧めたのです。ローマ12章1~2節です。 「1 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。2 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
  ここでは「心を新たにすることで」とありますが、それはこの「思いを新たにすること」です。思いを一新することによって、神のみこころは何かを知ることができます。神に喜ばれることは何か、何が完全であるのかを見分けることができるようになるのです。その助けになるのが神のことばです。神のことばによって私たちの思いが一新することによって、そこから良いものが生まれてくるからです。

あなたの心はどうでしょうか。石のように頑な、頑固になっていないでしょうか。へりくだって神のことばを聞き、心と思いを一新させていただきましょう。そうすることで主のことばに従うことができるようになります。主を捨てるのではなく、主を愛する者になるのです。

Ⅱ.第二の出エジプト(14-18)

次に、14~18節をご覧ください。16節までをお読みします。「14 それゆえ、見よ、その時代が来る─主のことば─。そのとき、もはや人々は『イスラエルの子らをエジプトの地から連れ上った主は生きておられる』と言うことはなく、15 ただ『イスラエルの子らを、北の地から、彼らが散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」

エレミヤはこれまで、南ユダの真っ暗な将来を預言してきましたが、ここで明るい希望を語ります。14節の「それゆえ、見よ、その時代が来る。」とは、その未来の希望を語る時のことばです。エレミヤ書にはこの表現が15回出てきます。ここでエレミヤはどんな希望を語っているのでしょうか。その後にこうあります。
 「そのとき、もはや人々は「イスラエルの子らをエジプトから連れ上った主は生きておられる」と言うことはなく、」
  どういうことでしょうか。「そのとき」とは、イスラエルの子らがバビロンから解放されるときのことです。そのとき、もはや人々は「イスラエルの子らをエジプトから連れ上った主は生きておられる」と言うことはありません。なぜなら、それは、あの出エジプトの出来事と比べることができないくらい偉大な出来事だからです。皆さん、出エジプトといったらものすごい出来事です。それは出エジプト記に記録されていますが、400年間もエジプトの奴隷して捉えられていたイスラエルがそこから救い出されたんです。400年ですよ。それは完全にエジプトの支配の中にあったということです。そこから解放されるのは不可能だということです。しかし、主はその中から彼らを救い出してくださいました。それが出エジプトです。すばらしい主の救いの御業が成されました。エレミヤの時代から遡ること約900年前のことです。
  しかし、これから主が成そうとしていることは、その出エジプト以上の、それをはるかにしのぐ解放の御業ただというのです。もはや人々は、「イスラエルの子らをエジプトの地から連れ上った主は生きておられる」と言うことはありません。もっとすごいことが起こるからです。

15節には、それがこのように表現されています。「ただ『イスラエルの子らを、北の地から、彼らが散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」
  「北の地から」とは、もちろん北海道のことではありません。バビロンのことです。彼らはバビロンに捕囚の民として連れて行かれることになりますが、その70年の後に、主はそこから彼らを連れ上り、彼らの先祖たちに与えた土地に帰らせるのです。そのとき彼らは、何と言うようになるでしょう。「イスラエルの神、主は生きておられる」と言うようになります。
  ですから、これはバビロンから帰還するという希望の約束が語られているのです。それほど偉大な出来事であると。彼らがバビロンに捕え移されたのは、永遠の悲劇ではありませんでした。この悲劇は、悲劇として終わりません。絶望で終わりません。希望で終わるものだと言っているのです。この希望があまりにもすばらしいので、かつてイスラエルの子らがエジプトから救い出されたあの大いなる救いの出来事、出エジプトでさえも色あせてしまうほど、すばらしい出来事なのです。ですから、これは第二の出エジプトとも呼ばれているのです。

でも新約時代に生きる私たちにとっては、それすら大したことではありません。なぜなら、私たちはイエス・キリストによる罪からの解放の御業を知っているからです。イエス様は十字架で死なれ、三日目によみがえられたことによって、罪の中に捕えられた私たちをその罪から救い出してくださいました。これこそ第二の出エジプトなのです。それと比べたらあのモーセによる出エジプトも、このバビロンからの解放も大したことはありません。それはただのひな型にすぎません。イエス・キリストによる罪からの救いこそ、出エジプトの究極的な出来事なのです。これ以上の救いの御業はありません。

  しかし、エレミヤの時代には、出エジプトの出来事はイスラエルの歴史において偉大な出来事でした。でもバビロンからの解放、バビロンからの救いはもっとすごかった。それは出エジプトの記憶が薄れるほどの出来事であり、民が「イスラエルの子らを北の地から、彼らが散らされてすべての地方から上らせた主は生きておられる」と言うようになるほどの偉大な御業だったのです。つまり、あの時もすごかったけど、このときの方がもっとすごいということです。

このような御業を成されるアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は、あなたの神でもあります。その神は今も生きておられます。その神はあなたのために十字架で死なれ、三日目によみがえられました。あなたをすべての罪から解放してくださいました。その方は今も生きておられます。そして、あなたを今の生き地獄からも救ってくださいます。あなたを罪の束縛から、バビロン捕囚から解放してくださるのです。何というすばらしいことでしょうか。その希望がここで語られているのです。

皆さん、将来への希望があるなら、人はどんな苦難をも乗り越えることができます。あなたはどのような希望を持っていますか。神様はあなたにもこの希望を与えておられます。それは、あの出エジプトよりもはるかにすばらしい救いの希望、イエス・キリストの十字架と復活によってもたらされた永遠のいのちです。この希望は失望に終わることはありません。なぜなら私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。今世界が一番必要としているのはこの希望です。神はその希望をあなたに与えてくださるのです。希望がないのではありません。希望は確かにあります。問題は希望がないことではなく、希望を失っていることです。希望を失っている人々があまりにも多いのです。神様はここでイスラエルに回復の希望を語られました。私たちもイスラエルのように罪のゆえにバビロンに捕えられるかもしれませんが、しかし、覚えておいてください。それはあなたを永遠の罪に定めるためではないということを。永遠の罪に定めるための悲劇ではないのです。この悲劇は悲劇で終わらないのです。この悲劇は希望で終わるものなのです。それを経験するときあなたもこう言うようになるでしょう。「主は生きておられる」と。

しかし、その前に、罪に対するさばきが行われなければなりません。16~18節にそのことが記されてあります。「16 見よ。わたしは多くの漁夫を遣わして─主のことば─彼らを捕まえさせる。それから、わたしは多くの狩人を遣わして、あらゆる山、あらゆる丘、岩の割れ目から彼らを捕らえさせる。17 わたしの目は彼らのすべての行いを見ているからだ。それらはわたしの前で隠れず、彼らの咎もわたしの目の前から隠されはしない。18 わたしはまず、彼らの咎と罪に対し二倍の報復をする。彼らがわたしの地を忌まわしいものの屍で汚し、忌み嫌うべきことで、わたしが与えたゆずりの地を満たしたからである。」」

神様は敵をあらゆる場所に送り込み、彼らを用いてさばきを行います。そのさまが、漁夫が網を打ってさかなを捕るさまと、狩人が獲物を獲るさまにたとえられています。神のさばきを免れる者は一人もいないということです。アッシリヤとかバビロンはその道具として用いられるわけです。人は種を蒔けば、その刈り取りをするようになります。しかし、忘れないでください。そんな者でも神様は救ってくださるということを。それで終わりではありません。そこからの回復があります。神のあわれみは尽きることはないのです。

Ⅲ.異邦人までも主を知るようになる(19-21)

最後に、19~21節をご覧ください。「19 「主よ、私の力、私の砦、苦難の日の私の逃れ場よ。あなたのもとに、諸国の民が地の果てから来て言うでしょう。『私たちの父祖が受け継いだものは、ただ偽りのもの、何の役にも立たない空しいものばかり。20 人間は、自分のために神々を造れるだろうか。そのようなものは神ではない』と。」21 「それゆえ、見よ、わたしは彼らに知らせる。今度こそ彼らに、わたしの手、わたしの力を知らせる。そのとき彼らは、わたしの名が主であることを知る。」」

これは、驚くべき神のあわれみの宣言です。イスラエルの民のバビロンからの解放の御業が、異邦人の回心、異邦人の救いにつながるということが語られています。19節の「諸国の民が」は、異邦人のことを指しています。イスラエルの民がバビロンから解放されるのを見た異邦人が主のもとにやって来てこう言うようになるのです。「私たちの父祖が受け継いだものは、ただの偽りもの、何の役にも立たない空しいものばかり。人間は、自分のために神々を造れるだろうか。そのようなものは神ではないと。」すごいですね。異邦人が自分たちの偶像礼拝の空しさ、愚かしさに気付いて、本物の神、生きている神に立ち返るようになるということです。
  「私たちの父祖が受け継いだもの」とは、偶像のことです。それはただの偽りのもので、何の役にも立たない空しいものだ、そのようなものは神ではない、と言うようになるのです。

日本人であれば、多くの家庭で父祖から受け継いだものとして仏壇がありますが、これは徳川時代に押し付けられたものにすぎません。すべての家は檀家制度が強いられ、そして寺請制度によってどの家にも仏壇が置かれるようになったのです。どの家でも死者が出たら仏式で葬式を行わなければならないようにしてキリシタンを締め出そうとしたのです。ただそれだけの理由で強制的に置かれたのです。信仰なんて全く関係ありません。ただその目的だけのために置かれたのです。実際、仏様はご先祖様ではありません。仏様とは本尊のことですから、仏壇に手を合わせるというのは、先祖に手を合わせることではなく、そこに祀られている仏様、本尊に手を合わせることなのです。しかし、その本尊は息のないただの偶像にすぎません。ですから、仏壇を大切にしないのはご先祖様を大切にしないことだというのは嘘です。お坊さんに聞いてもらうとわかります。そこにはご先祖様なんて祀られていませんから。それはただの偽りもの、何の役にも立たない空しいものであり、そのようなものは神ではありません。

諸国の民は地の果てから来てそういうようになります。「私たちの父祖が受け継いだものは、ただの偽りもの。何の役にも立たない空しいものばかり。そのようなものは神ではないと。そして、そうした周辺諸国の民、異教徒たちが、イスラエルがバビロンから解放されたという驚くべき神の御業を知り、その真の神、主を求めるようになるのです。

  イスラエルの民は自らの悪い心のゆえに主を捨て、偶像礼拝をし、その結果、神にさばかれてすべてを失い、祖国を失い、バビロンに捕えられました。でも、そのバビロンで70年という期間が終わったとき、驚くべきことに、主は彼らを解放し、祖国に帰してくださいました。神様しかできない御業を成されたのです。そしてそれを目の当たりにした周辺諸国の民はただ驚き、本当にイスラエルの神、主は生きておられる、と告白するようになるのです。これが生きた証です。

主はあなたを通してこのような証をなさりたいのです。主はなぜ私にこんな仕打ちをされるのか。なぜこんなにつらい目に遭わせるのか、なぜこんな厳しい扱いをされるのか、そう思うことがあるかもしれません。でも、そのようなことを通してまだイエス様を知らない周囲の人たちが、「主は生きておられる」と言うようになるのです。彼らも、自分たちが信じてきた、すがって来た、先祖たちから受け継いだものが空しいものばかり、何の役にも立たないと言うようになります。神は本当にいらっしゃる。聖書の神は本物だというようになるのです。そのような驚くべき主の御業が、あなたを通してもなされるのです。ハレルヤ!すばらしいですね。それが自分の罪の結果通らざるを得なかった悲惨な生涯であっても、です。また、クリスチャンであるがゆえに理不尽な扱いを受けたものであったとしても、です。どのような形であれ、主はそれを用いてあなたを生きた証人とし、あなたの周りの人たちが神を知るようにしてくださるのです。神様のご計画は何とすばらしいでしょうか。そのために主はあなたをちゃんと守ってくださいます。捕囚から解放に至るまであなたを捉えていてくださるのです。あなたは神に捉えられているのです。そしてその苦しみを乗り越えさせてくださる。だからあきらめないでください。捕囚になったらもうだめだ、もう絶望だと言わないでください。主の前にへりくだって、この捕囚はいつか必ず終わるんだ、こういう辛い時がいつまでも続くことはないと信じていただきたいのです。

有名なⅠコリント10章13節のみことばにこうあります。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」

アーメン!神様はあなたを耐えられない試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。すばらしいですね。それは気休めで言っているのではありません。きょうのみことばにあるように、神様はもう既に先取して回復の希望を御言葉の中でちゃんと約束しておられるからです。ですから、私はこれを信じますと、受け入れるだけでいいのです。それが自分の招いたことであろうと、そうでないものであろうと、どちらにしても、主は最後まであなたが耐えられるように守ってくださいますから。最後まで通り抜けることができるように、最後まで乗り越えることができるように、最後まで打ち勝つことができるように、ちゃんと取り計らってくださるのです。その後で、私たちは変えられて金のように精錬されて出て来て、主の生きた証人とされるのです。あなたを見る者が「主は生きておられる」と言うようになります。偶像礼拝をしていた異教徒が「イエス・キリストはまことの神だ」といつの日かそう信仰告白する日がやってくるのです。

主はあなたにあの出エジプト以上のことをしてくださいます。それは救いの喜びに戻ってくるどころじゃない、さらなる喜びで増し加えてくださいます。あなたを罪から救ってくださった主は生きておられます。そして今もあなたを通してすばらしい御業を成しておられると信じて、このみことばの約束、回復の希望に堅く立ち続けていきたいと思います。

Ⅱ列王記7章

 

 今回は、Ⅱ列王記7章から学びます。

 Ⅰ.ツァラアトに冒された四人の人の決断(1-9)

まず、1~9をご覧ください。まず1~2節をお読みします。「1 エリシャは言った。「主のことばを聞きなさい。主はこう言われる。『明日の今ごろ、サマリアの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる。』」2 しかし、侍従で、王が頼みにしていた者が、神の人に答えて言った。「たとえ主が天に窓を作られたとしても、そんなことがあるだろうか。」そこで、エリシャは言った。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」

1節のエリシャのことばは、6章33節でイスラエルの王ヨラムの使者のことば対して語ったことばです。ヨラムの使者はエリシャに、「見よ、これは主からのわざわいだ。これ以上、私は何を主に期待しなければならないのか」と言いました。それは、サマリアが飢饉でハイパーインフレに陥っていたからです。6章25節には、飢饉のため、ろばの頭一つが銀80シェケル、約7万千円で、鳩の糞一カブの四分の一が銀5シェケル、約4千5百円で売られていたとあります。また、6章29節には、子どもを煮て食べたという話がありますが、それほどの飢えで苦しんでいたのです。これは主からのわざわいであって、これ以上、何を期待することができるというのか。そんな偽りを言う者のことばなど信じられるかとエリシャに詰め寄ったのです。それに対してエリシャが言ったことはこうでした。

「主のことばを聞きなさい。主はこう言われる。『明日の今ごろ、サマリアの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる。』」  

明日の今ごろとは、数時間後にはということです。数時間後には上質の小麦粉1セア(約7.6㍑)が1シェケル(11.4g)で、大麦も2セア(約15㍑)が1シェケルで売られるようになるというのです。1シェケルは、現代の価値に換算すると、仮に銀1gが80円だとすると、 912円となります。今朝の聖書日課の箇所は創世記37章でしたが、ヨセフは銀20枚、つまり、20シェケルイシュマエル人に売られました。ですから、現代の価値に換算すると、1シェケルは1,000~2,000円くらいでしょうか。エリシャは、小麦7.6㍑が1000円くらいで売られるようになると言ったのです。大飢饉でかなりのインフレの中にあったサマリアにおいては考えられないほど安い価格です。

しかし、侍従で、王が頼みにしていた者が、エリシャにこう言いました。「たとい、主が天に窓を作られたとしても、そんなことがあるだろうか。」「王が頼みにしていた者」とは、親衛隊の隊長のことです。彼はエリシャに、絶対にそんなことはあり得ないと言ったのです。神にはそのような奇跡を行う力はないし、もしあったとしても、そうはされないだろう、というのです。そこで、エリシャは言いました。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」

このことばを覚えておいてください。これが後に実現することになります。信仰がない人は、現実的にしか物事を見ることができません。神様なんているわけがないし、いたとしても、そんなことができるはずがないと考えるのです。それゆえ、目に見ていないものを自分のものにすることができません。

しかし、それが現実のものとなります。どのようにそれが実現したかについて、3節以降で展開されていきます。3~9節をご覧ください。「3 さて、ツァラアトに冒された四人の人が、町の門の入り口にいた。彼らは互いに言った。「われわれはどうして死ぬまでここに座っていなければならないのか。4 たとえ町に入ろうと言ったところで、町は食糧難だから、われわれはそこで死ななければならない。ここに座っていても死ぬだけだ。さあ今、アラムの陣営に入り込もう。もし彼らがわれわれを生かしておいてくれるなら、われわれは生き延びられる。もし殺すなら、そのときは死ぬまでのことだ。」5 こうして、彼らはアラムの陣営に行こうと、夕暮れになって立ち上がり、アラムの陣営の端まで来た。すると、なんと、そこにはだれもいなかった。6 これは、主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせたので、彼らが口々に「見よ。イスラエルの王が、ヒッタイト人の王たち、エジプトの王たちを雇って、われわれを襲って来る」と言い、7 夕暮れに立って逃げ、自分たちの天幕や馬やろば、陣営をそのまま置き去りにして、いのちからがら逃げ去ったからであった。8 ツァラアトに冒されたこの人たちは、陣営の端に来て、一つの天幕に入って食べたり飲んだりし、そこから銀や金や衣服を持ち出して隠した。また戻って来てはほかの天幕に入り、そこからも持ち出して隠した。9 彼らは互いに言った。「われわれのしていることは正しくない。今日は良い知らせの日なのに、われわれはためらっている。もし明け方まで待っていたら、罰を受けるだろう。さあ、行こう。行って王の家に知らせよう。」

ここにツァラアトに冒された4人の人が登場します。3節の町の門とは、サマリアの町の門のことです。彼らはサマリアの門の入り口にいました。というのは、ツァラアトに冒された人はイスラエルでは共同体から隔離されて生活していたからです。ですから彼らは町の門の入口にいて、そこで捨てられるゴミから自分の食料となるものを探して生きていたのです。 

彼らは互いに話し合っていました。ここに座っているだけならただ死ぬだけだし、かといって町に入ったところで、町は食糧難だから、そこで死んでしまうことになるだろう。だったら、いっそのことアラムの陣営に入り込んでみたらどうか。もし彼らが自分たちを生かしておいてくれるなら生き延びることができるし、もし殺すなら、そのときは死ぬまでのことだ。

こうして彼らはアラムの陣営に行こうと、夕暮れになって立ち上がり、アラムの陣営の端までやって来ました。すると、そこはどうなっていましたか。そこにはだれもいませんでした。まさにもぬけの殻だったのです。何があったのでしょうか。6~7節をご覧ください。これは主がなさったことです。主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせたので、彼らが口々に「見よ。イスラエルの王が、ヒッタイトの王たち、エジプトの王たちを雇って、われわれを襲ってくる」と言って、自分たちの天幕や馬やろば、陣営をそのまま起き去りにして、いのちからがら逃げ去ったのです。

それでツァラアトに冒されたこの人たちは、歓喜しながら、思う存分飲み食いしました。そしてそこから銀や金や衣服を持ち出して隠しました。また戻って来てはほかの天幕に入り、そこからも持ち出して秘密の場所に隠しました。あとで来て取り出せるようにするためです。

しかし、彼らはだんだん不安になってきました。こんなに良い知らせなのに、これを秘密にしていたら、いつか誰かが発見した時にばれて、なぜ秘密にしていたのかと、自分たちの責任を問われることになるだろう。だったらこの発見を伝えた方がいい。だから今すぐ、この良い知らせを王の家にも知らせようと思ったのです。

福音伝道もこれと同じですね。パウロは、Ⅰコリント9章16節で、「もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。」と言っています。伝道とは、食べ物のありかを見つけた乞食が、他の乞食に、そのありかを教えてあげるようなものです。良き知らせを伝える者の足は、何と美しいでしょうか(ローマ10:15)。

Ⅱ. 疑ったイスラエルの王ヨラム(10-15)

次に、10~15節をご覧ください。「10 彼らは町に入って門衛を呼び、彼らに告げた。「われわれがアラムの陣営に入ってみると、なんとそこにはだれの姿もなく、人の声もありませんでした。ただ、馬やろばがつながれたままで、天幕もそっくりそのままでした。」11 そこで門衛たちは叫んで、門内の王の家に告げた。12 王は夜中に起きて家来たちに言った。「アラム人がわれわれに対して謀ったことをおまえたちに教えよう。彼らはわれわれが飢えているのを知っているので、陣営から出て行って野に隠れ、『イスラエル人が町から出たら生け捕りにし、それから町に押し入ろう』と考えているのだ。」13 すると、家来の一人が答えた。「それでは、だれかにこの町に残っている馬の中から五頭を取らせ、遣わして調べさせてみましょう。どうせ、この町に残っているイスラエルのすべての民衆も、すでに滅んだイスラエルのすべての民衆と同じ目にあうのですから。」14 彼らが二台分の戦車の馬を取ると、王は「行って確かめて来い」と命じて、アラムの軍勢を追わせた。15 彼らはアラム人を追って、ヨルダン川まで行った。ところが、なんと、道はいたるところ、アラム人が慌てて逃げるときに捨てていった衣服や武具でいっぱいであった。使者たちは帰って来て、このことを王に報告した。」

ツァラアトに冒された4人の人たちは、急いで町に入って門衛を呼び、事の次第を告げました。それを聞いた門衛たちは驚き、早速その知らせを王の家にいた人たちに伝えました。それを聞いたヨラム王はどのように反応したでしょうか。12節にあるようよ、彼はそれを聞くと疑い、それはアラム人たちが自分たちをおびき寄せるための罠だと言いました。彼らは自分たちが飢えていることを知っているので、陣営から出て来て野に隠れ、自分たちが喜んでで町を出たとたん、攻撃をしかけてくる考えだと言ったのです。これがヨラムの判断でした。不信仰は、あるものを手に入れなくさせてしまいます。

すると、それを聞いた家来の一人があることを提案します。それは、サマリアに残っている馬の中から5頭を取らせ、遣わして調べさせてみたらどうかということでした。どうせこの町に残っている民衆も、すでに滅んだイスラエルの民衆と同じ目に遭うのだからです。すでに滅んだイスラエルの民衆とは、飢えで死んでいった人たちのことです。創造主訳聖書はこれをわかりやすく訳しています。「それではこういたしましょう。この町に残っている馬の中から五頭を使って、偵察にやらせましょう。そうすれば、事情は判明いたします。ここにいても、どうせ同じ運命をたどるのでございますから。」わかりやすいですね。こういう意味です。

ヨラム王はこの提案を受け入れ、「行って確かめて来い」と命じて、偵察隊を派遣しました。彼らはアラム人を追って、ヨルダン川まで行きました。ところが、なんと、道はいたるところ、アラム人が慌てて逃げるときに捨てて行った衣服や武具でいっぱいでした。サマリアからヨルダン川までの距離は、約40キロあります。その間、アラム人が残していった衣服や武具が散乱していたのです。

ヨラムが敵の策略だと疑ったのは、人間的には合理的なことです。しかし、信仰の視点からは、誤った判断だったと言えます。エリシャはヨラムに主の解放を預言していたのに、それを無視していたからです。サマリアの解放は、主の御手によってたなされたものであって、人間の知恵や力によるものではありませんでした。

イスラエルはエジプトを出た後、バアル・ツェフォンの前にあるピ・ハヒロテで、海辺に宿営していたとき、追って来たエジプト軍を前に大いに恐れて、主に向かって叫びました。その時、モーセが民に言ったことばがこれでした。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」(出エジプト14:13-14)

主が戦ってくださいます。ですから、私たちはそう信じて、主のなさる御業を、ただ黙っていなければなりません。

Ⅲ.主のことばのとおり(16-20)

最後に、16~20節をご覧ください。【16 そこで、民は出て行ってアラムの陣営をかすめ奪ったので、主のことばのとおり、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られた。17 王は例の侍従、頼みにしていた侍従を門の管理に当たらせたが、民が門で彼を踏みつけたので、彼は死んだ。王が神の人のところに下って行ったときに、神の人が告げたことばのとおりであった。18 かつて神の人が王に、「明日の今ごろ、サマリアの門で、大麦二セアが一シェケルで、上等の小麦粉一セアが一シェケルで売られるようになる」と言ったときに、19 侍従は神の人に答えて、「たとえ主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか」と言った。そこで、エリシャは「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない」と言った。20 そのとおりのことが彼に実現した。民が門で彼を踏みつけたので、彼は死んだ。」

この知らせが事実であることを知ったヨラム王は、サマリアの町の門を開きました。すると民は出て行ってアラムの陣営をかすめ奪ったので、主のことばのとおり、上等の小麦粉1セアが1シェケルで、大麦2セアが1シェケルで売られました。

ヨラムは、あの頼みにしていた侍従を門のところで整理に当たらせましたが、熱狂した人々がそこへ殺到したので、侍従は転倒し、踏みつけられ死にました。いったいなぜこのようなことが起こったのでしょうか。それは、エリシャが明日の今ごろ、サマリアの町は解放され、その門のところで、上等の小麦粉1セアが1シェケルで、大麦2セアが1シェケルで売られるようになるという預言を、彼が信じなかったからです。彼は、たとい、主が天に窓を作るにしても、そんなことがあるだろうか」と言って、エリシャの権威をあざけりました。つまり、これは不信仰の代価であったということです。私たちには、信仰の目が与えられています。信仰によって見える世界があります。そして、その世界を実際に、自分のものとして楽しむことができます。その反対に不信仰であれば、あらゆる機会を自分で失ってしまうことになります。

主が語られたことは必ず実現します。これはその預言が実現したということです。エリシャは彼に言いました。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」(19)その預言が成就したのです。私たちは信じない者にならないで、信じる者になりましょう。主が語られたことは必ず実現するからです。