Ⅱ列王記7章

 

 今回は、Ⅱ列王記7章から学びます。

 Ⅰ.ツァラアトに冒された四人の人の決断(1-9)

まず、1~9をご覧ください。まず1~2節をお読みします。「1 エリシャは言った。「主のことばを聞きなさい。主はこう言われる。『明日の今ごろ、サマリアの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる。』」2 しかし、侍従で、王が頼みにしていた者が、神の人に答えて言った。「たとえ主が天に窓を作られたとしても、そんなことがあるだろうか。」そこで、エリシャは言った。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」

1節のエリシャのことばは、6章33節でイスラエルの王ヨラムの使者のことば対して語ったことばです。ヨラムの使者はエリシャに、「見よ、これは主からのわざわいだ。これ以上、私は何を主に期待しなければならないのか」と言いました。それは、サマリアが飢饉でハイパーインフレに陥っていたからです。6章25節には、飢饉のため、ろばの頭一つが銀80シェケル、約7万千円で、鳩の糞一カブの四分の一が銀5シェケル、約4千5百円で売られていたとあります。また、6章29節には、子どもを煮て食べたという話がありますが、それほどの飢えで苦しんでいたのです。これは主からのわざわいであって、これ以上、何を期待することができるというのか。そんな偽りを言う者のことばなど信じられるかとエリシャに詰め寄ったのです。それに対してエリシャが言ったことはこうでした。

「主のことばを聞きなさい。主はこう言われる。『明日の今ごろ、サマリアの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる。』」  

明日の今ごろとは、数時間後にはということです。数時間後には上質の小麦粉1セア(約7.6㍑)が1シェケル(11.4g)で、大麦も2セア(約15㍑)が1シェケルで売られるようになるというのです。1シェケルは、現代の価値に換算すると、仮に銀1gが80円だとすると、 912円となります。今朝の聖書日課の箇所は創世記37章でしたが、ヨセフは銀20枚、つまり、20シェケルイシュマエル人に売られました。ですから、現代の価値に換算すると、1シェケルは1,000~2,000円くらいでしょうか。エリシャは、小麦7.6㍑が1000円くらいで売られるようになると言ったのです。大飢饉でかなりのインフレの中にあったサマリアにおいては考えられないほど安い価格です。

しかし、侍従で、王が頼みにしていた者が、エリシャにこう言いました。「たとい、主が天に窓を作られたとしても、そんなことがあるだろうか。」「王が頼みにしていた者」とは、親衛隊の隊長のことです。彼はエリシャに、絶対にそんなことはあり得ないと言ったのです。神にはそのような奇跡を行う力はないし、もしあったとしても、そうはされないだろう、というのです。そこで、エリシャは言いました。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」

このことばを覚えておいてください。これが後に実現することになります。信仰がない人は、現実的にしか物事を見ることができません。神様なんているわけがないし、いたとしても、そんなことができるはずがないと考えるのです。それゆえ、目に見ていないものを自分のものにすることができません。

しかし、それが現実のものとなります。どのようにそれが実現したかについて、3節以降で展開されていきます。3~9節をご覧ください。「3 さて、ツァラアトに冒された四人の人が、町の門の入り口にいた。彼らは互いに言った。「われわれはどうして死ぬまでここに座っていなければならないのか。4 たとえ町に入ろうと言ったところで、町は食糧難だから、われわれはそこで死ななければならない。ここに座っていても死ぬだけだ。さあ今、アラムの陣営に入り込もう。もし彼らがわれわれを生かしておいてくれるなら、われわれは生き延びられる。もし殺すなら、そのときは死ぬまでのことだ。」5 こうして、彼らはアラムの陣営に行こうと、夕暮れになって立ち上がり、アラムの陣営の端まで来た。すると、なんと、そこにはだれもいなかった。6 これは、主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせたので、彼らが口々に「見よ。イスラエルの王が、ヒッタイト人の王たち、エジプトの王たちを雇って、われわれを襲って来る」と言い、7 夕暮れに立って逃げ、自分たちの天幕や馬やろば、陣営をそのまま置き去りにして、いのちからがら逃げ去ったからであった。8 ツァラアトに冒されたこの人たちは、陣営の端に来て、一つの天幕に入って食べたり飲んだりし、そこから銀や金や衣服を持ち出して隠した。また戻って来てはほかの天幕に入り、そこからも持ち出して隠した。9 彼らは互いに言った。「われわれのしていることは正しくない。今日は良い知らせの日なのに、われわれはためらっている。もし明け方まで待っていたら、罰を受けるだろう。さあ、行こう。行って王の家に知らせよう。」

ここにツァラアトに冒された4人の人が登場します。3節の町の門とは、サマリアの町の門のことです。彼らはサマリアの門の入り口にいました。というのは、ツァラアトに冒された人はイスラエルでは共同体から隔離されて生活していたからです。ですから彼らは町の門の入口にいて、そこで捨てられるゴミから自分の食料となるものを探して生きていたのです。 

彼らは互いに話し合っていました。ここに座っているだけならただ死ぬだけだし、かといって町に入ったところで、町は食糧難だから、そこで死んでしまうことになるだろう。だったら、いっそのことアラムの陣営に入り込んでみたらどうか。もし彼らが自分たちを生かしておいてくれるなら生き延びることができるし、もし殺すなら、そのときは死ぬまでのことだ。

こうして彼らはアラムの陣営に行こうと、夕暮れになって立ち上がり、アラムの陣営の端までやって来ました。すると、そこはどうなっていましたか。そこにはだれもいませんでした。まさにもぬけの殻だったのです。何があったのでしょうか。6~7節をご覧ください。これは主がなさったことです。主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせたので、彼らが口々に「見よ。イスラエルの王が、ヒッタイトの王たち、エジプトの王たちを雇って、われわれを襲ってくる」と言って、自分たちの天幕や馬やろば、陣営をそのまま起き去りにして、いのちからがら逃げ去ったのです。

それでツァラアトに冒されたこの人たちは、歓喜しながら、思う存分飲み食いしました。そしてそこから銀や金や衣服を持ち出して隠しました。また戻って来てはほかの天幕に入り、そこからも持ち出して秘密の場所に隠しました。あとで来て取り出せるようにするためです。

しかし、彼らはだんだん不安になってきました。こんなに良い知らせなのに、これを秘密にしていたら、いつか誰かが発見した時にばれて、なぜ秘密にしていたのかと、自分たちの責任を問われることになるだろう。だったらこの発見を伝えた方がいい。だから今すぐ、この良い知らせを王の家にも知らせようと思ったのです。

福音伝道もこれと同じですね。パウロは、Ⅰコリント9章16節で、「もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。」と言っています。伝道とは、食べ物のありかを見つけた乞食が、他の乞食に、そのありかを教えてあげるようなものです。良き知らせを伝える者の足は、何と美しいでしょうか(ローマ10:15)。

Ⅱ. 疑ったイスラエルの王ヨラム(10-15)

次に、10~15節をご覧ください。「10 彼らは町に入って門衛を呼び、彼らに告げた。「われわれがアラムの陣営に入ってみると、なんとそこにはだれの姿もなく、人の声もありませんでした。ただ、馬やろばがつながれたままで、天幕もそっくりそのままでした。」11 そこで門衛たちは叫んで、門内の王の家に告げた。12 王は夜中に起きて家来たちに言った。「アラム人がわれわれに対して謀ったことをおまえたちに教えよう。彼らはわれわれが飢えているのを知っているので、陣営から出て行って野に隠れ、『イスラエル人が町から出たら生け捕りにし、それから町に押し入ろう』と考えているのだ。」13 すると、家来の一人が答えた。「それでは、だれかにこの町に残っている馬の中から五頭を取らせ、遣わして調べさせてみましょう。どうせ、この町に残っているイスラエルのすべての民衆も、すでに滅んだイスラエルのすべての民衆と同じ目にあうのですから。」14 彼らが二台分の戦車の馬を取ると、王は「行って確かめて来い」と命じて、アラムの軍勢を追わせた。15 彼らはアラム人を追って、ヨルダン川まで行った。ところが、なんと、道はいたるところ、アラム人が慌てて逃げるときに捨てていった衣服や武具でいっぱいであった。使者たちは帰って来て、このことを王に報告した。」

ツァラアトに冒された4人の人たちは、急いで町に入って門衛を呼び、事の次第を告げました。それを聞いた門衛たちは驚き、早速その知らせを王の家にいた人たちに伝えました。それを聞いたヨラム王はどのように反応したでしょうか。12節にあるようよ、彼はそれを聞くと疑い、それはアラム人たちが自分たちをおびき寄せるための罠だと言いました。彼らは自分たちが飢えていることを知っているので、陣営から出て来て野に隠れ、自分たちが喜んでで町を出たとたん、攻撃をしかけてくる考えだと言ったのです。これがヨラムの判断でした。不信仰は、あるものを手に入れなくさせてしまいます。

すると、それを聞いた家来の一人があることを提案します。それは、サマリアに残っている馬の中から5頭を取らせ、遣わして調べさせてみたらどうかということでした。どうせこの町に残っている民衆も、すでに滅んだイスラエルの民衆と同じ目に遭うのだからです。すでに滅んだイスラエルの民衆とは、飢えで死んでいった人たちのことです。創造主訳聖書はこれをわかりやすく訳しています。「それではこういたしましょう。この町に残っている馬の中から五頭を使って、偵察にやらせましょう。そうすれば、事情は判明いたします。ここにいても、どうせ同じ運命をたどるのでございますから。」わかりやすいですね。こういう意味です。

ヨラム王はこの提案を受け入れ、「行って確かめて来い」と命じて、偵察隊を派遣しました。彼らはアラム人を追って、ヨルダン川まで行きました。ところが、なんと、道はいたるところ、アラム人が慌てて逃げるときに捨てて行った衣服や武具でいっぱいでした。サマリアからヨルダン川までの距離は、約40キロあります。その間、アラム人が残していった衣服や武具が散乱していたのです。

ヨラムが敵の策略だと疑ったのは、人間的には合理的なことです。しかし、信仰の視点からは、誤った判断だったと言えます。エリシャはヨラムに主の解放を預言していたのに、それを無視していたからです。サマリアの解放は、主の御手によってたなされたものであって、人間の知恵や力によるものではありませんでした。

イスラエルはエジプトを出た後、バアル・ツェフォンの前にあるピ・ハヒロテで、海辺に宿営していたとき、追って来たエジプト軍を前に大いに恐れて、主に向かって叫びました。その時、モーセが民に言ったことばがこれでした。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」(出エジプト14:13-14)

主が戦ってくださいます。ですから、私たちはそう信じて、主のなさる御業を、ただ黙っていなければなりません。

Ⅲ.主のことばのとおり(16-20)

最後に、16~20節をご覧ください。【16 そこで、民は出て行ってアラムの陣営をかすめ奪ったので、主のことばのとおり、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られた。17 王は例の侍従、頼みにしていた侍従を門の管理に当たらせたが、民が門で彼を踏みつけたので、彼は死んだ。王が神の人のところに下って行ったときに、神の人が告げたことばのとおりであった。18 かつて神の人が王に、「明日の今ごろ、サマリアの門で、大麦二セアが一シェケルで、上等の小麦粉一セアが一シェケルで売られるようになる」と言ったときに、19 侍従は神の人に答えて、「たとえ主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか」と言った。そこで、エリシャは「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない」と言った。20 そのとおりのことが彼に実現した。民が門で彼を踏みつけたので、彼は死んだ。」

この知らせが事実であることを知ったヨラム王は、サマリアの町の門を開きました。すると民は出て行ってアラムの陣営をかすめ奪ったので、主のことばのとおり、上等の小麦粉1セアが1シェケルで、大麦2セアが1シェケルで売られました。

ヨラムは、あの頼みにしていた侍従を門のところで整理に当たらせましたが、熱狂した人々がそこへ殺到したので、侍従は転倒し、踏みつけられ死にました。いったいなぜこのようなことが起こったのでしょうか。それは、エリシャが明日の今ごろ、サマリアの町は解放され、その門のところで、上等の小麦粉1セアが1シェケルで、大麦2セアが1シェケルで売られるようになるという預言を、彼が信じなかったからです。彼は、たとい、主が天に窓を作るにしても、そんなことがあるだろうか」と言って、エリシャの権威をあざけりました。つまり、これは不信仰の代価であったということです。私たちには、信仰の目が与えられています。信仰によって見える世界があります。そして、その世界を実際に、自分のものとして楽しむことができます。その反対に不信仰であれば、あらゆる機会を自分で失ってしまうことになります。

主が語られたことは必ず実現します。これはその預言が実現したということです。エリシャは彼に言いました。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」(19)その預言が成就したのです。私たちは信じない者にならないで、信じる者になりましょう。主が語られたことは必ず実現するからです。