エレミヤ16章1~21節「主は生きておられる」

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きょうは、エレミヤ書16章から学びたいと思います。タイトルは「主は生きておられる」です。14~15節をご覧ください。
  「それゆえ、見よ、その時代が来る─主のことば─。そのとき、もはや人々は『イスラエルの子らをエジプトの地から連れ上った主は生きておられる』と言うことはなく、ただ『イスラエルの子らを、北の地から、彼らが散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」
  「そのとき」とは、イスラエルの子らが、北の地、これはバビロンのことですが、バビロンから彼らの土地に帰るときのことです。そのとき、彼らは「主は生きておられる」というようになります。それはイスラエルの子らだけではありません。19節には諸国の民とありますが、これは異邦人のことです。それを見た異邦人も、自分たちが先祖から受け継いだものは何の役にも立たない空しいものばかりであり、そのような神は神ではない。真の神はイスラエルの神、主であることを知るようになるというのです。

Ⅰ.私たちの罪とは何か(1-13)

 まず、1~9節をご覧ください。「1 次のような主のことばが私にあった。2 「あなたはこの場所で、妻をめとるな。息子や娘も持つな。」3 まことに主は、この場所で生まれる息子や娘について、また、この地で彼らを産む母親たちや、彼らをもうける父親たちについて、こう言われる。4 「彼らはひどい病気で死ぬ。彼らは悼み悲しまれることなく、葬られることもなく、地の面の肥やしとなる。また、剣と飢饉で滅ぼされ、屍は空の鳥や地の獣の餌食となる。」5 まことに主はこう言われる。「あなたは、弔いの家に入ってはならない。悼みに行ってはならない。彼らのために嘆いてはならない。わたしがこの民から、わたしの平安を、また恵みと、あわれみを取り去ったからだ─主のことば─。6 この地の身分の高い者や低い者が死んでも葬られず、だれも彼らを悼み悲しまず、彼らのために身を傷つけず、髪も剃らない。7 死者を悼む人のために、葬儀でパンが裂かれることはなく、父や母の場合でさえ、悼む人に慰めの杯が差し出されることもない。8 あなたは弔いの宴会の家に行き、一緒に座って食べたり飲んだりしてはならない。」9 まことに、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。「見よ。わたしはこの場所から、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶えさせる。あなたがたの目の前で。あなたがたが生きているうちに。」」

前章15章の終わりのところで主はエレミヤに、もしあなたが帰ってくるなら、私はあなたを堅固な青銅の城壁とすると約束してくださいました。どんなに敵があなたと戦っても、彼らはあなたに勝つことはできない。わたしがあなたとともにいて、あなたを助け出すからだ。そのように約束してくださいました。

その後で主はエレミヤに、不思議なことを命じられました。それは妻をめとるなということです。これは13章で学んだあのボロボロの帯のように、エレミヤの行動をもって語るためです。これを行動預言と言います。主はエレミヤに行動を通して語るように命じられたのです。その一つのことが、妻をめとるな、結婚するなということでした。エレミヤの時代は結婚することは普通のことでした。特に旧約聖書を信じていたユダヤ人にとって、「生めよ、増えよ、地を満たせ」とか、「あなたの子孫を海の砂、空の星のようにする」という約束の実現のためにも、結婚することが祝福だと考えられていました。それなのに、ここで主は「あなたはこの場所で、妻をめとるな、息子や娘も持つな。」と言われたのです。どうしてでしょうか。

その理由が3節と4節にあります。「3 まことに主は、この場所で生まれる息子や娘について、また、この地で彼らを産む母親たちや、彼らをもうける父親たちについて、こう言われる。4 「彼らはひどい病気で死ぬ。彼らは悼み悲しまれることなく、葬られることもなく、地の面の肥やしとなる。また、剣と飢饉で滅ぼされ、屍は空の鳥や地の獣の餌食となる。」」
  子どもをもうけても、その子どもが虐殺されることになるからです。これは、具体的にはバビロン捕囚のことを指していますが、バビロン軍がやって来る時、その子どもたちは病気で死んだり、剣と飢饉で滅ぼされることになるからです。こうした悲惨な目に遭うなら、むしろ子どもを生まないほうがましだというのです。

5節にはもう一つのことが命じられています。それは、弔いの家に入ってはならないということでした。つまり、葬式に参列してはならないということです。「まことに主はこう言われる。「あなたは、弔いの家に入ってはならない。悼みに行ってはならない。彼らのために嘆いてはならない。わたしがこの民から、わたしの平安を、また恵みと、あわれみを取り去ったからだ─主のことば─。」

葬式は、いわゆる人生における大切な儀式です。当時、喪中の家に行かないことは、隣人に対する無関心と考えられていました。その葬式に行ってはならないというのです。どうしてでしょうか。それは5節の後半にあるように、これはただの死ではないからです。ここに「わたしがこの民から、わたしの平安を、また恵みと、あわれみを取り去ったからだと」とあるように、これは神のさばきによる死だからです。神がこの民から恵みとあわれみを取り去られました。だから、彼らのために嘆いてはならないと言われているのです。

そしてもう一つのことが命じられています。それは9節にあるように、結婚式などの祝宴に出るなということです。ここには「まことに、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。「見よ。わたしはこの場所から、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶えさせる。あなたがたの目の前で。あなたがたが生きているうちに。」とあります。それらの喜びが、一瞬にうちに取り去られるようになるからです。

いったい何が問題だったのでしょうか。それは、10節と11節にあるように、彼らの先祖が主を捨て、ほかの神々に従い、これに仕え、これを拝み、主を捨てて、主の律法を守らなかったことです。皆さん、主を捨てることが罪です。彼らの先祖も、彼ら自身も主を捨てて、ほかの神々に仕えました。主を捨てることが罪なのです。

日本のことわざに、「捨てる神あれば拾う神あり」ということわざがあります。自分を捨てて相手にしてくれない人もいれば、親切に助けてくれる人もいる。だから、困ったことがあっても、くよくよするなという意味ですが、これは、八百万の神を信じている日本だからこそ存在することわざであると言えるでしょう。八百万ものいろいろな神がいるのだから、あなたを捨てる神があれば、あなたを拾う神もある。人生いろいろ、神様もいろいろというわけです。でも実際は違います。実際は逆です。神があなたを捨てるのではなく、あなたが神を捨てるのです。人間の側で八百万もある神々の中から都合のいい神を拾って、それでご利益がなければ、じゃこっちの神と簡単に捨ててしまうのです。
  エレミヤの時代もそうでした。イスラエルの神、主と他の神々を天秤にかけ、自分たちにメリットをもたらしてくれる神を選り好みして拝んだり、必要なくなったら捨てたり、必要であればまた拾ったりしていたのです。忙しいですね。神々の方もたまったもんじゃありません。捨てられたり、拾われたりと、人間様の都合によってあしらわれるわけですから。
  でも、主を捨てるということがどんなに恐ろしい罪か。彼らの先祖たちは、約束の地カナンに入ったときに既に教えられていました。ヨシュア記24章20節にこうあります。「あなたがたが主を捨てて異国の神々に仕えるなら、あなたがたを幸せにした後でも、主は翻って、あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす。」
  これは、イスラエルの民が約束の地に入ったばかりの時に語られたことばです。約800年も前にちゃんと警告されていたのです。もし主を捨てて他の神々に仕えるなら、あなたがたを幸せにした後でも、あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼすと。それがアッシリヤ捕囚であり、バビロン捕囚だったのです。
  主を捨てるということは最悪のことです。これ以上の罪はありません。南王国ユダの人たちは、これを身をもって知ることになります。主を捨てるとはどういうことなのかを。信仰から離れてこの世の神に身をゆだねることがどんな弊害をもたらすことになるのか、この世の流れに従って行くことがどんなに悪く、苦々しいことなのかを知るようになるのです。

では、主を捨てるとはどういうことなのでしょうか。それは具体的には神の律法を守られないことです。主のみことばに従わないことです。このように考えると、これは何もエレミヤの時代の当時の南ユダの民だけの問題ではなく、私たちにも問われていることでもあるということがわかります。というのは、私たちは神のことばに従わないことが多いからです。私たちはしょっちゅう主を捨てていることになります。ですから、これは私たちとかけ離れた問題ではないのです。むしろ、私たちも日常茶飯事に犯している罪と言えるでしょう。いったい何が問題だったのでしょうか。

12節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。「さらに、あなたがた自身が、自分たちの先祖以上に悪事を働き、しかも、見よ、それぞれ頑なで悪い心のままに歩み、わたしに聞かないでいる。」
   ここには「自分たちの先祖以上に悪事を働き」とありますが、これは、ヒゼキヤ王の子マナセから始まった偶像礼拝のことを指しています。マナセ王はこのエレミヤの時代から50年ほど前に南ユダを治めた王ですが、南ユダ史上最悪の王でした。彼についてはⅡ歴代誌33章に記録してありますが、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねて、主の目の前に悪を行ないました。しかし、このエレミヤの時代のユダの民は、そのマナセよりももっとひどかったのです。もう手の付けようがありませんでした。しかも、頑なで悪い心のままに歩んでいました。つまり、問題は彼らの心だったのです。頭の問題ではなく心の問題です。これが主のことばに聞き従えなくしていたのです。英語のKJV(King James Version:欽定訳聖書)では、この頑な心を「imagination」(イマジネーション)と訳しています。「思い」ですね。ハート(心)というよりイマジネーション(思い)です。これがいろいろな情報によって歪められて偶像化し、一つのイメージが出来上がり、結果、神から離れていくようになったのです。主のみことばに聞き従いたくなかったのも、彼らの心(思い)が頑なだったからです。ですからパウロはローマのクリスチャンたちに、この思いを一新しなさいと勧めたのです。ローマ12章1~2節です。 「1 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。2 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
  ここでは「心を新たにすることで」とありますが、それはこの「思いを新たにすること」です。思いを一新することによって、神のみこころは何かを知ることができます。神に喜ばれることは何か、何が完全であるのかを見分けることができるようになるのです。その助けになるのが神のことばです。神のことばによって私たちの思いが一新することによって、そこから良いものが生まれてくるからです。

あなたの心はどうでしょうか。石のように頑な、頑固になっていないでしょうか。へりくだって神のことばを聞き、心と思いを一新させていただきましょう。そうすることで主のことばに従うことができるようになります。主を捨てるのではなく、主を愛する者になるのです。

Ⅱ.第二の出エジプト(14-18)

次に、14~18節をご覧ください。16節までをお読みします。「14 それゆえ、見よ、その時代が来る─主のことば─。そのとき、もはや人々は『イスラエルの子らをエジプトの地から連れ上った主は生きておられる』と言うことはなく、15 ただ『イスラエルの子らを、北の地から、彼らが散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」

エレミヤはこれまで、南ユダの真っ暗な将来を預言してきましたが、ここで明るい希望を語ります。14節の「それゆえ、見よ、その時代が来る。」とは、その未来の希望を語る時のことばです。エレミヤ書にはこの表現が15回出てきます。ここでエレミヤはどんな希望を語っているのでしょうか。その後にこうあります。
 「そのとき、もはや人々は「イスラエルの子らをエジプトから連れ上った主は生きておられる」と言うことはなく、」
  どういうことでしょうか。「そのとき」とは、イスラエルの子らがバビロンから解放されるときのことです。そのとき、もはや人々は「イスラエルの子らをエジプトから連れ上った主は生きておられる」と言うことはありません。なぜなら、それは、あの出エジプトの出来事と比べることができないくらい偉大な出来事だからです。皆さん、出エジプトといったらものすごい出来事です。それは出エジプト記に記録されていますが、400年間もエジプトの奴隷して捉えられていたイスラエルがそこから救い出されたんです。400年ですよ。それは完全にエジプトの支配の中にあったということです。そこから解放されるのは不可能だということです。しかし、主はその中から彼らを救い出してくださいました。それが出エジプトです。すばらしい主の救いの御業が成されました。エレミヤの時代から遡ること約900年前のことです。
  しかし、これから主が成そうとしていることは、その出エジプト以上の、それをはるかにしのぐ解放の御業ただというのです。もはや人々は、「イスラエルの子らをエジプトの地から連れ上った主は生きておられる」と言うことはありません。もっとすごいことが起こるからです。

15節には、それがこのように表現されています。「ただ『イスラエルの子らを、北の地から、彼らが散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」
  「北の地から」とは、もちろん北海道のことではありません。バビロンのことです。彼らはバビロンに捕囚の民として連れて行かれることになりますが、その70年の後に、主はそこから彼らを連れ上り、彼らの先祖たちに与えた土地に帰らせるのです。そのとき彼らは、何と言うようになるでしょう。「イスラエルの神、主は生きておられる」と言うようになります。
  ですから、これはバビロンから帰還するという希望の約束が語られているのです。それほど偉大な出来事であると。彼らがバビロンに捕え移されたのは、永遠の悲劇ではありませんでした。この悲劇は、悲劇として終わりません。絶望で終わりません。希望で終わるものだと言っているのです。この希望があまりにもすばらしいので、かつてイスラエルの子らがエジプトから救い出されたあの大いなる救いの出来事、出エジプトでさえも色あせてしまうほど、すばらしい出来事なのです。ですから、これは第二の出エジプトとも呼ばれているのです。

でも新約時代に生きる私たちにとっては、それすら大したことではありません。なぜなら、私たちはイエス・キリストによる罪からの解放の御業を知っているからです。イエス様は十字架で死なれ、三日目によみがえられたことによって、罪の中に捕えられた私たちをその罪から救い出してくださいました。これこそ第二の出エジプトなのです。それと比べたらあのモーセによる出エジプトも、このバビロンからの解放も大したことはありません。それはただのひな型にすぎません。イエス・キリストによる罪からの救いこそ、出エジプトの究極的な出来事なのです。これ以上の救いの御業はありません。

  しかし、エレミヤの時代には、出エジプトの出来事はイスラエルの歴史において偉大な出来事でした。でもバビロンからの解放、バビロンからの救いはもっとすごかった。それは出エジプトの記憶が薄れるほどの出来事であり、民が「イスラエルの子らを北の地から、彼らが散らされてすべての地方から上らせた主は生きておられる」と言うようになるほどの偉大な御業だったのです。つまり、あの時もすごかったけど、このときの方がもっとすごいということです。

このような御業を成されるアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は、あなたの神でもあります。その神は今も生きておられます。その神はあなたのために十字架で死なれ、三日目によみがえられました。あなたをすべての罪から解放してくださいました。その方は今も生きておられます。そして、あなたを今の生き地獄からも救ってくださいます。あなたを罪の束縛から、バビロン捕囚から解放してくださるのです。何というすばらしいことでしょうか。その希望がここで語られているのです。

皆さん、将来への希望があるなら、人はどんな苦難をも乗り越えることができます。あなたはどのような希望を持っていますか。神様はあなたにもこの希望を与えておられます。それは、あの出エジプトよりもはるかにすばらしい救いの希望、イエス・キリストの十字架と復活によってもたらされた永遠のいのちです。この希望は失望に終わることはありません。なぜなら私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。今世界が一番必要としているのはこの希望です。神はその希望をあなたに与えてくださるのです。希望がないのではありません。希望は確かにあります。問題は希望がないことではなく、希望を失っていることです。希望を失っている人々があまりにも多いのです。神様はここでイスラエルに回復の希望を語られました。私たちもイスラエルのように罪のゆえにバビロンに捕えられるかもしれませんが、しかし、覚えておいてください。それはあなたを永遠の罪に定めるためではないということを。永遠の罪に定めるための悲劇ではないのです。この悲劇は悲劇で終わらないのです。この悲劇は希望で終わるものなのです。それを経験するときあなたもこう言うようになるでしょう。「主は生きておられる」と。

しかし、その前に、罪に対するさばきが行われなければなりません。16~18節にそのことが記されてあります。「16 見よ。わたしは多くの漁夫を遣わして─主のことば─彼らを捕まえさせる。それから、わたしは多くの狩人を遣わして、あらゆる山、あらゆる丘、岩の割れ目から彼らを捕らえさせる。17 わたしの目は彼らのすべての行いを見ているからだ。それらはわたしの前で隠れず、彼らの咎もわたしの目の前から隠されはしない。18 わたしはまず、彼らの咎と罪に対し二倍の報復をする。彼らがわたしの地を忌まわしいものの屍で汚し、忌み嫌うべきことで、わたしが与えたゆずりの地を満たしたからである。」」

神様は敵をあらゆる場所に送り込み、彼らを用いてさばきを行います。そのさまが、漁夫が網を打ってさかなを捕るさまと、狩人が獲物を獲るさまにたとえられています。神のさばきを免れる者は一人もいないということです。アッシリヤとかバビロンはその道具として用いられるわけです。人は種を蒔けば、その刈り取りをするようになります。しかし、忘れないでください。そんな者でも神様は救ってくださるということを。それで終わりではありません。そこからの回復があります。神のあわれみは尽きることはないのです。

Ⅲ.異邦人までも主を知るようになる(19-21)

最後に、19~21節をご覧ください。「19 「主よ、私の力、私の砦、苦難の日の私の逃れ場よ。あなたのもとに、諸国の民が地の果てから来て言うでしょう。『私たちの父祖が受け継いだものは、ただ偽りのもの、何の役にも立たない空しいものばかり。20 人間は、自分のために神々を造れるだろうか。そのようなものは神ではない』と。」21 「それゆえ、見よ、わたしは彼らに知らせる。今度こそ彼らに、わたしの手、わたしの力を知らせる。そのとき彼らは、わたしの名が主であることを知る。」」

これは、驚くべき神のあわれみの宣言です。イスラエルの民のバビロンからの解放の御業が、異邦人の回心、異邦人の救いにつながるということが語られています。19節の「諸国の民が」は、異邦人のことを指しています。イスラエルの民がバビロンから解放されるのを見た異邦人が主のもとにやって来てこう言うようになるのです。「私たちの父祖が受け継いだものは、ただの偽りもの、何の役にも立たない空しいものばかり。人間は、自分のために神々を造れるだろうか。そのようなものは神ではないと。」すごいですね。異邦人が自分たちの偶像礼拝の空しさ、愚かしさに気付いて、本物の神、生きている神に立ち返るようになるということです。
  「私たちの父祖が受け継いだもの」とは、偶像のことです。それはただの偽りのもので、何の役にも立たない空しいものだ、そのようなものは神ではない、と言うようになるのです。

日本人であれば、多くの家庭で父祖から受け継いだものとして仏壇がありますが、これは徳川時代に押し付けられたものにすぎません。すべての家は檀家制度が強いられ、そして寺請制度によってどの家にも仏壇が置かれるようになったのです。どの家でも死者が出たら仏式で葬式を行わなければならないようにしてキリシタンを締め出そうとしたのです。ただそれだけの理由で強制的に置かれたのです。信仰なんて全く関係ありません。ただその目的だけのために置かれたのです。実際、仏様はご先祖様ではありません。仏様とは本尊のことですから、仏壇に手を合わせるというのは、先祖に手を合わせることではなく、そこに祀られている仏様、本尊に手を合わせることなのです。しかし、その本尊は息のないただの偶像にすぎません。ですから、仏壇を大切にしないのはご先祖様を大切にしないことだというのは嘘です。お坊さんに聞いてもらうとわかります。そこにはご先祖様なんて祀られていませんから。それはただの偽りもの、何の役にも立たない空しいものであり、そのようなものは神ではありません。

諸国の民は地の果てから来てそういうようになります。「私たちの父祖が受け継いだものは、ただの偽りもの。何の役にも立たない空しいものばかり。そのようなものは神ではないと。そして、そうした周辺諸国の民、異教徒たちが、イスラエルがバビロンから解放されたという驚くべき神の御業を知り、その真の神、主を求めるようになるのです。

  イスラエルの民は自らの悪い心のゆえに主を捨て、偶像礼拝をし、その結果、神にさばかれてすべてを失い、祖国を失い、バビロンに捕えられました。でも、そのバビロンで70年という期間が終わったとき、驚くべきことに、主は彼らを解放し、祖国に帰してくださいました。神様しかできない御業を成されたのです。そしてそれを目の当たりにした周辺諸国の民はただ驚き、本当にイスラエルの神、主は生きておられる、と告白するようになるのです。これが生きた証です。

主はあなたを通してこのような証をなさりたいのです。主はなぜ私にこんな仕打ちをされるのか。なぜこんなにつらい目に遭わせるのか、なぜこんな厳しい扱いをされるのか、そう思うことがあるかもしれません。でも、そのようなことを通してまだイエス様を知らない周囲の人たちが、「主は生きておられる」と言うようになるのです。彼らも、自分たちが信じてきた、すがって来た、先祖たちから受け継いだものが空しいものばかり、何の役にも立たないと言うようになります。神は本当にいらっしゃる。聖書の神は本物だというようになるのです。そのような驚くべき主の御業が、あなたを通してもなされるのです。ハレルヤ!すばらしいですね。それが自分の罪の結果通らざるを得なかった悲惨な生涯であっても、です。また、クリスチャンであるがゆえに理不尽な扱いを受けたものであったとしても、です。どのような形であれ、主はそれを用いてあなたを生きた証人とし、あなたの周りの人たちが神を知るようにしてくださるのです。神様のご計画は何とすばらしいでしょうか。そのために主はあなたをちゃんと守ってくださいます。捕囚から解放に至るまであなたを捉えていてくださるのです。あなたは神に捉えられているのです。そしてその苦しみを乗り越えさせてくださる。だからあきらめないでください。捕囚になったらもうだめだ、もう絶望だと言わないでください。主の前にへりくだって、この捕囚はいつか必ず終わるんだ、こういう辛い時がいつまでも続くことはないと信じていただきたいのです。

有名なⅠコリント10章13節のみことばにこうあります。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」

アーメン!神様はあなたを耐えられない試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。すばらしいですね。それは気休めで言っているのではありません。きょうのみことばにあるように、神様はもう既に先取して回復の希望を御言葉の中でちゃんと約束しておられるからです。ですから、私はこれを信じますと、受け入れるだけでいいのです。それが自分の招いたことであろうと、そうでないものであろうと、どちらにしても、主は最後まであなたが耐えられるように守ってくださいますから。最後まで通り抜けることができるように、最後まで乗り越えることができるように、最後まで打ち勝つことができるように、ちゃんと取り計らってくださるのです。その後で、私たちは変えられて金のように精錬されて出て来て、主の生きた証人とされるのです。あなたを見る者が「主は生きておられる」と言うようになります。偶像礼拝をしていた異教徒が「イエス・キリストはまことの神だ」といつの日かそう信仰告白する日がやってくるのです。

主はあなたにあの出エジプト以上のことをしてくださいます。それは救いの喜びに戻ってくるどころじゃない、さらなる喜びで増し加えてくださいます。あなたを罪から救ってくださった主は生きておられます。そして今もあなたを通してすばらしい御業を成しておられると信じて、このみことばの約束、回復の希望に堅く立ち続けていきたいと思います。

Ⅱ列王記7章

 

 今回は、Ⅱ列王記7章から学びます。

 Ⅰ.ツァラアトに冒された四人の人の決断(1-9)

まず、1~9をご覧ください。まず1~2節をお読みします。「1 エリシャは言った。「主のことばを聞きなさい。主はこう言われる。『明日の今ごろ、サマリアの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる。』」2 しかし、侍従で、王が頼みにしていた者が、神の人に答えて言った。「たとえ主が天に窓を作られたとしても、そんなことがあるだろうか。」そこで、エリシャは言った。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」

1節のエリシャのことばは、6章33節でイスラエルの王ヨラムの使者のことば対して語ったことばです。ヨラムの使者はエリシャに、「見よ、これは主からのわざわいだ。これ以上、私は何を主に期待しなければならないのか」と言いました。それは、サマリアが飢饉でハイパーインフレに陥っていたからです。6章25節には、飢饉のため、ろばの頭一つが銀80シェケル、約7万千円で、鳩の糞一カブの四分の一が銀5シェケル、約4千5百円で売られていたとあります。また、6章29節には、子どもを煮て食べたという話がありますが、それほどの飢えで苦しんでいたのです。これは主からのわざわいであって、これ以上、何を期待することができるというのか。そんな偽りを言う者のことばなど信じられるかとエリシャに詰め寄ったのです。それに対してエリシャが言ったことはこうでした。

「主のことばを聞きなさい。主はこう言われる。『明日の今ごろ、サマリアの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる。』」  

明日の今ごろとは、数時間後にはということです。数時間後には上質の小麦粉1セア(約7.6㍑)が1シェケル(11.4g)で、大麦も2セア(約15㍑)が1シェケルで売られるようになるというのです。1シェケルは、現代の価値に換算すると、仮に銀1gが80円だとすると、 912円となります。今朝の聖書日課の箇所は創世記37章でしたが、ヨセフは銀20枚、つまり、20シェケルイシュマエル人に売られました。ですから、現代の価値に換算すると、1シェケルは1,000~2,000円くらいでしょうか。エリシャは、小麦7.6㍑が1000円くらいで売られるようになると言ったのです。大飢饉でかなりのインフレの中にあったサマリアにおいては考えられないほど安い価格です。

しかし、侍従で、王が頼みにしていた者が、エリシャにこう言いました。「たとい、主が天に窓を作られたとしても、そんなことがあるだろうか。」「王が頼みにしていた者」とは、親衛隊の隊長のことです。彼はエリシャに、絶対にそんなことはあり得ないと言ったのです。神にはそのような奇跡を行う力はないし、もしあったとしても、そうはされないだろう、というのです。そこで、エリシャは言いました。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」

このことばを覚えておいてください。これが後に実現することになります。信仰がない人は、現実的にしか物事を見ることができません。神様なんているわけがないし、いたとしても、そんなことができるはずがないと考えるのです。それゆえ、目に見ていないものを自分のものにすることができません。

しかし、それが現実のものとなります。どのようにそれが実現したかについて、3節以降で展開されていきます。3~9節をご覧ください。「3 さて、ツァラアトに冒された四人の人が、町の門の入り口にいた。彼らは互いに言った。「われわれはどうして死ぬまでここに座っていなければならないのか。4 たとえ町に入ろうと言ったところで、町は食糧難だから、われわれはそこで死ななければならない。ここに座っていても死ぬだけだ。さあ今、アラムの陣営に入り込もう。もし彼らがわれわれを生かしておいてくれるなら、われわれは生き延びられる。もし殺すなら、そのときは死ぬまでのことだ。」5 こうして、彼らはアラムの陣営に行こうと、夕暮れになって立ち上がり、アラムの陣営の端まで来た。すると、なんと、そこにはだれもいなかった。6 これは、主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせたので、彼らが口々に「見よ。イスラエルの王が、ヒッタイト人の王たち、エジプトの王たちを雇って、われわれを襲って来る」と言い、7 夕暮れに立って逃げ、自分たちの天幕や馬やろば、陣営をそのまま置き去りにして、いのちからがら逃げ去ったからであった。8 ツァラアトに冒されたこの人たちは、陣営の端に来て、一つの天幕に入って食べたり飲んだりし、そこから銀や金や衣服を持ち出して隠した。また戻って来てはほかの天幕に入り、そこからも持ち出して隠した。9 彼らは互いに言った。「われわれのしていることは正しくない。今日は良い知らせの日なのに、われわれはためらっている。もし明け方まで待っていたら、罰を受けるだろう。さあ、行こう。行って王の家に知らせよう。」

ここにツァラアトに冒された4人の人が登場します。3節の町の門とは、サマリアの町の門のことです。彼らはサマリアの門の入り口にいました。というのは、ツァラアトに冒された人はイスラエルでは共同体から隔離されて生活していたからです。ですから彼らは町の門の入口にいて、そこで捨てられるゴミから自分の食料となるものを探して生きていたのです。 

彼らは互いに話し合っていました。ここに座っているだけならただ死ぬだけだし、かといって町に入ったところで、町は食糧難だから、そこで死んでしまうことになるだろう。だったら、いっそのことアラムの陣営に入り込んでみたらどうか。もし彼らが自分たちを生かしておいてくれるなら生き延びることができるし、もし殺すなら、そのときは死ぬまでのことだ。

こうして彼らはアラムの陣営に行こうと、夕暮れになって立ち上がり、アラムの陣営の端までやって来ました。すると、そこはどうなっていましたか。そこにはだれもいませんでした。まさにもぬけの殻だったのです。何があったのでしょうか。6~7節をご覧ください。これは主がなさったことです。主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせたので、彼らが口々に「見よ。イスラエルの王が、ヒッタイトの王たち、エジプトの王たちを雇って、われわれを襲ってくる」と言って、自分たちの天幕や馬やろば、陣営をそのまま起き去りにして、いのちからがら逃げ去ったのです。

それでツァラアトに冒されたこの人たちは、歓喜しながら、思う存分飲み食いしました。そしてそこから銀や金や衣服を持ち出して隠しました。また戻って来てはほかの天幕に入り、そこからも持ち出して秘密の場所に隠しました。あとで来て取り出せるようにするためです。

しかし、彼らはだんだん不安になってきました。こんなに良い知らせなのに、これを秘密にしていたら、いつか誰かが発見した時にばれて、なぜ秘密にしていたのかと、自分たちの責任を問われることになるだろう。だったらこの発見を伝えた方がいい。だから今すぐ、この良い知らせを王の家にも知らせようと思ったのです。

福音伝道もこれと同じですね。パウロは、Ⅰコリント9章16節で、「もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。」と言っています。伝道とは、食べ物のありかを見つけた乞食が、他の乞食に、そのありかを教えてあげるようなものです。良き知らせを伝える者の足は、何と美しいでしょうか(ローマ10:15)。

Ⅱ. 疑ったイスラエルの王ヨラム(10-15)

次に、10~15節をご覧ください。「10 彼らは町に入って門衛を呼び、彼らに告げた。「われわれがアラムの陣営に入ってみると、なんとそこにはだれの姿もなく、人の声もありませんでした。ただ、馬やろばがつながれたままで、天幕もそっくりそのままでした。」11 そこで門衛たちは叫んで、門内の王の家に告げた。12 王は夜中に起きて家来たちに言った。「アラム人がわれわれに対して謀ったことをおまえたちに教えよう。彼らはわれわれが飢えているのを知っているので、陣営から出て行って野に隠れ、『イスラエル人が町から出たら生け捕りにし、それから町に押し入ろう』と考えているのだ。」13 すると、家来の一人が答えた。「それでは、だれかにこの町に残っている馬の中から五頭を取らせ、遣わして調べさせてみましょう。どうせ、この町に残っているイスラエルのすべての民衆も、すでに滅んだイスラエルのすべての民衆と同じ目にあうのですから。」14 彼らが二台分の戦車の馬を取ると、王は「行って確かめて来い」と命じて、アラムの軍勢を追わせた。15 彼らはアラム人を追って、ヨルダン川まで行った。ところが、なんと、道はいたるところ、アラム人が慌てて逃げるときに捨てていった衣服や武具でいっぱいであった。使者たちは帰って来て、このことを王に報告した。」

ツァラアトに冒された4人の人たちは、急いで町に入って門衛を呼び、事の次第を告げました。それを聞いた門衛たちは驚き、早速その知らせを王の家にいた人たちに伝えました。それを聞いたヨラム王はどのように反応したでしょうか。12節にあるようよ、彼はそれを聞くと疑い、それはアラム人たちが自分たちをおびき寄せるための罠だと言いました。彼らは自分たちが飢えていることを知っているので、陣営から出て来て野に隠れ、自分たちが喜んでで町を出たとたん、攻撃をしかけてくる考えだと言ったのです。これがヨラムの判断でした。不信仰は、あるものを手に入れなくさせてしまいます。

すると、それを聞いた家来の一人があることを提案します。それは、サマリアに残っている馬の中から5頭を取らせ、遣わして調べさせてみたらどうかということでした。どうせこの町に残っている民衆も、すでに滅んだイスラエルの民衆と同じ目に遭うのだからです。すでに滅んだイスラエルの民衆とは、飢えで死んでいった人たちのことです。創造主訳聖書はこれをわかりやすく訳しています。「それではこういたしましょう。この町に残っている馬の中から五頭を使って、偵察にやらせましょう。そうすれば、事情は判明いたします。ここにいても、どうせ同じ運命をたどるのでございますから。」わかりやすいですね。こういう意味です。

ヨラム王はこの提案を受け入れ、「行って確かめて来い」と命じて、偵察隊を派遣しました。彼らはアラム人を追って、ヨルダン川まで行きました。ところが、なんと、道はいたるところ、アラム人が慌てて逃げるときに捨てて行った衣服や武具でいっぱいでした。サマリアからヨルダン川までの距離は、約40キロあります。その間、アラム人が残していった衣服や武具が散乱していたのです。

ヨラムが敵の策略だと疑ったのは、人間的には合理的なことです。しかし、信仰の視点からは、誤った判断だったと言えます。エリシャはヨラムに主の解放を預言していたのに、それを無視していたからです。サマリアの解放は、主の御手によってたなされたものであって、人間の知恵や力によるものではありませんでした。

イスラエルはエジプトを出た後、バアル・ツェフォンの前にあるピ・ハヒロテで、海辺に宿営していたとき、追って来たエジプト軍を前に大いに恐れて、主に向かって叫びました。その時、モーセが民に言ったことばがこれでした。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」(出エジプト14:13-14)

主が戦ってくださいます。ですから、私たちはそう信じて、主のなさる御業を、ただ黙っていなければなりません。

Ⅲ.主のことばのとおり(16-20)

最後に、16~20節をご覧ください。【16 そこで、民は出て行ってアラムの陣営をかすめ奪ったので、主のことばのとおり、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られた。17 王は例の侍従、頼みにしていた侍従を門の管理に当たらせたが、民が門で彼を踏みつけたので、彼は死んだ。王が神の人のところに下って行ったときに、神の人が告げたことばのとおりであった。18 かつて神の人が王に、「明日の今ごろ、サマリアの門で、大麦二セアが一シェケルで、上等の小麦粉一セアが一シェケルで売られるようになる」と言ったときに、19 侍従は神の人に答えて、「たとえ主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか」と言った。そこで、エリシャは「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない」と言った。20 そのとおりのことが彼に実現した。民が門で彼を踏みつけたので、彼は死んだ。」

この知らせが事実であることを知ったヨラム王は、サマリアの町の門を開きました。すると民は出て行ってアラムの陣営をかすめ奪ったので、主のことばのとおり、上等の小麦粉1セアが1シェケルで、大麦2セアが1シェケルで売られました。

ヨラムは、あの頼みにしていた侍従を門のところで整理に当たらせましたが、熱狂した人々がそこへ殺到したので、侍従は転倒し、踏みつけられ死にました。いったいなぜこのようなことが起こったのでしょうか。それは、エリシャが明日の今ごろ、サマリアの町は解放され、その門のところで、上等の小麦粉1セアが1シェケルで、大麦2セアが1シェケルで売られるようになるという預言を、彼が信じなかったからです。彼は、たとい、主が天に窓を作るにしても、そんなことがあるだろうか」と言って、エリシャの権威をあざけりました。つまり、これは不信仰の代価であったということです。私たちには、信仰の目が与えられています。信仰によって見える世界があります。そして、その世界を実際に、自分のものとして楽しむことができます。その反対に不信仰であれば、あらゆる機会を自分で失ってしまうことになります。

主が語られたことは必ず実現します。これはその預言が実現したということです。エリシャは彼に言いました。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」(19)その預言が成就したのです。私たちは信じない者にならないで、信じる者になりましょう。主が語られたことは必ず実現するからです。