エレミヤ31章1~34節「新しい契約」

きょうは、エレミヤ書全体の中心部である31章の中の、さらに中心テーマの一つである「新しい契約」についてお話します。31節をご覧ください。ここには、「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。」とあります。「その時代」という語は、未来のこと、特に世の終わりのことを預言している時に用いられている語です。エレミヤ書の中では、この語が用いられるのはこれで8回目ですが、ここでも終末の預言が語られているわけです。それはどんなことでしょうか。それは、そのとき、主はイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶということです。どういうことでしょうか。きょうは、この新しい契約についてお話したいと思います。

Ⅰ.古い契約(31-32)

まず第一に、それは古い契約とは違うということです。32節をご覧ください。「32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──【主】のことば──。」

ここには、主がイスラエルの民と結ばれる新しい契約がどのようなものなのかが説明されています。それは、主が彼らの先祖たちの手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようなものではありません。それは古い契約のことです。古い契約とは、広い意味では旧約聖書全体を指しますが、狭い意味では、主がイスラエルをエジプトの地から導いた日に、モーセを通して、モーセを仲介者として、主が彼ら結ばれた契約のことです。これはシナイ山で結ばれたので「シナイ契約」とも呼ばれています。それはこのようなものでした。出エジプト19章5節を開いてください。「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。」
  これがシナイ契約の中心です。つまり、もしイスラエルが神の声に聞き従い、神との契約を守り行うなら、彼らはあらゆる民族の中にあって、主の宝の民とされるということ、つまり、彼らは祝福されるということです。しかし、そうでなければ、その反対に呪いがもたらされるというものです。実際どうなったでしょうか。ご存知の通り、彼らは神様との契約を破ってしまいました。もしかしたら最初は守れたのかもしれませんが、いつの間にか守れなくなってしまい、ついには守っていないにもかかわらず、自分たちは守っていると錯覚するようになってしまいました。なぜそのようなことになってしまったのでしょうか。それは彼らの心に原因がありました。心がついていかなかったからです。頭ではわかっていても、心では守りたくなかったのです。つまり、彼らにはそれを実行する力が備えられていなかったのです。これが古い契約の弱点だったのです。でも、それでは困るわけです。なぜなら、もし彼らが契約を破り彼らに呪いがもたらされたら、神様の計画が頓挫してしまうことになるからです。神様の計画とは、イスラエルを通して全世界を救うことでした。それなのにイスラエルが滅びてしったら、その計画が成し遂げられなくなってしまいます。

ここに神のジレンマがありました。契約は守らなければなりません。もし守られなければ、神様ご自身が不真実な者となってしまうからです。でも神は真実であられます。イスラエルが不真実であっても、神は常に真実であられるからです。神はご自身を偽ることはできません。ではどうしたら彼らを救うことができるのでしょうか。それが新しい契約です。神様はご自身との契約を破ったイスラエルに対して、古い契約ではなく新しい契約を結ぶという仰天プランを立てられたのです。

.新しい契約(33)

それはどのようなものでしょうか。33節をご覧ください。「これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──【主】のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」

新しい契約の最も大きな特徴は、主はご自身の律法を彼らのただ中に置き、彼らの心に書き記すということです。モーセによって結ばれた古い契約はそうではありませんでした。それは2枚の石の板に書き記されたわけですが、新しい契約は彼らの心に書き記されるのです。どういうことでしょうか。それは強制的に神との契約を守らなければならないというのではなく、自ら進んで守りたいという思いを授けてくださるということです。神様に従わなければならないというのではなく、従わずにはいられなくなるのです。それが新しい契約の中身です。これが新約聖書の内容です。

ちなみに、私たちが持っている聖書は旧約聖書と新約聖書の両方を含んでいますが、この違いは何かというと、これなんです。「旧約聖書」ということばを聞くと、中にはどうしてこんな面倒くさいことが書いてあるんだろうと思われる方もいらっしゃると思いますが、旧約聖書が破棄されたわけではないのです。取り払われたわけではありません。神の律法がどこに書かれたのか、それが石の板なのか、心の中なのかの違いです。石の板に書かれたものは強制的に守らなければなりませんが、心に書き記されると守らずにはいられなくなるのです。いやむしろ、古い契約、旧約聖書があるからこそ自分の弱さ、自分の罪深さ、自分の愚かさに気付かされ、そこからの救いをより求めるようになるのです。そういう意味では、パウロも言っているように、「律法は私たちをキリストへ導くための養育係」であると言えます。パウロはガラテヤ3章24節でこう言っています。「律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係になりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」(ガラテヤ3:24)神様はこの古い契約を生かしつつ、その教えを行うことができるように、神のみこころにかなった行動ができるようにしてくださったのです。それが救い主イエス・キリストです。ですから、旧約聖書と新約聖書は切り離すことはできないのです。神はモーセを通してイスラエルとの古い契約を石の板に書き記されましたが、新しい契約はその古い契約(旧約聖書)が預言しているメシア(救い主)、キリストを通して、彼らの心に書き記されるのです。

これは具体的にどういうことかというと、救い主イエスを通して私たちの心の中に聖霊を与えてくださるということです。聖霊についてはヨハネ14章16節に「もうひとりの助け主」とあるように、イエスのように私たちを助けてくださるお方です。全く自分勝手な者がもっと神様を愛したい、もっと神のために生きる者でありたい、もっと聖書を読みたい、もっと祈りたい、そう思うのは、この聖霊のお働きによるのです。イエスは、敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい、と言われましたが、普通なら無理な話です。でも聖霊が与えられるとそのようにしたいと思うようになるのです。なぜなら、この方が来ると、すべての真理に導いてくださるからです。神様のみことばに従うことができるように、神様のみこころに歩めるように導いてくださるのです。それが心に書き記されるということです。であれば、問題は、どうすればこの神の聖霊を受けることができるのかということです。どうしたら聖霊が私たちの心の中に住んでくださるのかということです。

残念ながら、聖霊はその名のごとく全くきよいお方なので、人間のように汚れた心に住むことはできません。聖霊は汚れと同居することができないからです。聖霊が私たちの心の中に住まわれるためには、私たちの心が完全にきよくなければならないのです。とは言っても、私たちが人間である以上完全にきよくなることなどできません。エレミヤ書17章9節には「人の心は何よりもねじ曲がっている。」とあるように、人の心は何よりも陰険なのです。また、ローマ書には、「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」(ローマ3:10-12)とあります。であれば、私たちはみんなアウトです。こんな汚れた者の心に聖霊が住んでくださることなどできないのです。

しかし、私たちにできないことを神はしてくださいました。神はそのひとり子(イエス)をこの世に与え、私たちが負わなければならない罪の代価を彼に負わせ、私たちの罪を贖ってくださいました。それが十字架での死です。死がなければ命を贖うことができないからです。レビ記17章11節にこうあります。「いのちとして宥めを行うのは血である。」。いのちとして宥めを行うのは血です。血が流されることがなければ罪の赦しはありません。ですから、神はひとり子をこの世に送り、古い契約違反の責めを私たちにではなくキリストに負わせることによって、私たちを律法の呪いから解放してくださったのです。ですから、だれでもキリストを自分の罪からの救い主として信じるならその人の心は完全にきよめられ、聖霊が住んでくださるのです。この聖霊の助けによって、私たちは喜んで神のみこころに歩みたい、神に喜ばれる人生を歩みたいと思うようになるのです。つまり、この新しい契約はイエス・キリストの十字架と復活という一方的な神の恵みによってもたらされる契約なのです。

そのためにあなたがしなければならないことは何一つありません。あなたが罪から救われ、聖霊があなたの心に住んでくださるための唯一の条件は、あなたのために十字架で死なれ、三日目によみがえられたイエスを、あなたの罪からの救い主と信じるだけなのです。もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。(ローマ10:10)

その時、あなたはもはや自分でこうしなければならないとか、ああしなければならないという律法に捉われることから解放され、聖霊が導いてくださる通りに、聖霊が教えてくださる通りに、聖霊の助けによって喜んで神に従うことができるようになります。これがクリスチャンです。これが新訳聖書の中身なのです。クリスチャンとは、もはやああしなければならないとか、こうしなければならないという律法から解放されて、聖霊によって喜んで神の律法に従いたいと思う人たちなのです。聖書の原則から言えばそうです。それが本当に救われている人たちです。もしそうでないという人がいるとしたら、その人は新しい契約とはどのようなものなのかをまだよく理解していないか、それとも古い契約に縛られて神の恵みの豊かさを享受していないかのいずれかです。

それはまたエレミヤ31章3節のみことばに対する応答でもあります。ご一緒に読んでみましょう。「【主】は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」」
 神は永遠の愛をもってあなたを愛してくださいました。これだけの愛で愛されているのであれば、ひとり子を与えるほどの愛で愛されているのであれば、もう感動で、ただただ感謝しかないはずです。そして喜んでその愛に応答したいと思うようになるでしょう。教会に行かなければならないとか、聖書を読まなければならない、祈らなければならない、献金しなければならない、奉仕もしなければ、ディボーションもしなければといった律法的、義務的なことはもうどうでもよくなるはずです。喜んでその愛に応答したいと思うようになるからです。教会に行きたくて、行きたくて、しょうがない。もっと聖書を読みたい、もっと祈りたい、もっと自分にできることがあれば喜んで奉仕したい。十分の一とは言わず、自分のすべてを献げたいと思うようになるからです。

かつて私が福島で牧会していた時、同じ福島県の浜通りで牧会しておられ佐藤彰先生からお聞きした話ですが、その教会に70歳を過ぎた信仰に熱心な婦人の方がおられました。確か半谷さんというお名前だったかと思いますが、半谷さんはある日娘さんを仙台の病院に連れて行くため電車に乗ったとき、たまたま向かい側に一人の宣教師が座っていて、その会話の中で「あなたは神を信じますか」と尋ねられたそうです。神を信じていますかって、信じていないわけじゃないし、信じているとも言えないし、何と答えたらいいか返答に迷いました。そんな悶々とした思いを抱えていた時、その町にある教会で3日間の伝道集会があるという看板を見ました。思い切って教会に行ってみると、そこでお話をされていたのがあの宣教師、ホレチョク先生でした。驚いた半谷さんは最初の夜だけでなく二日目、三日目も集会に行く中でイエス様を自分の罪からの救い主と信じることができました。
  ところが、当時は耶蘇教と揶揄されていた時代です。しかも自分が嫁いだ先はお寺の総代を務めているような由緒ある家で、お姑さんから教会に行ってはいけないと言われ、仕方なく聖書は厠(トイレ)にはいって読んでいたそうです。でもそんな半谷さんの献身的な姿に心を打たれたご主人がやがてイエス様を信じて天国へ召されると、彼女は自分の生涯を主にささげ、ありとあらゆることをされました。礼拝では奏楽のご奉仕をし、週報を作成したり牧師の説教をまとめたりと、自分にできるだけのことをしました。そのために70歳を過ぎてからワープロを習い始めたそうです。その半谷さんに癌があることが判明し、牧師からあまり無理しないでくださいと言われたとき、牧師にこう言いました。「先生、私から奉仕を取り上げないでください。私は自分にできるだけのことをしたいのです」。これは、神の恵みを経験した人でないと言えないことばです。奉仕をしなければならないのでなく、させていただきたいのですと心から言えるとしたら、それは本物でしょう。彼女の心に働いておられる神の霊、聖霊の御業なのです。

その半谷さんがまだお元気なうち、彼女は教会から少し離れた小高町という町に広い土地を持っていたのですが、それを教会に献げたいと言われたそうです。息子さんたちはどう思われるか、家族で話し合いをもったところ、「母がそういうのなら、それが一番いいことだと思います」と息子さんたちも同意し、その土地を献げられました。そればかりか、そこに会堂を建てるために必要な資金のほとんどを献げたのです。そこには今ノアの箱舟の形をした会堂が立てられ、福音宣教の働きが続けられています。それは永遠の神の愛に感動し心を動かされた人が心からした奉仕だったのです。

実に神の働きは、こうした神の愛と恵みに触れた人たちがその愛に感動し、聖霊の働きに促されて勧められていくのです。神にすべてを献げたい。いくらでも献げられるだけ献げたい。それで自分の生活の質が落ちたとしても構わない。あなたの愛を受けているので、私は献げたいのです。人が何と言おうと関係ありません。私はそうしたいからするのです。それが教会というところです。聖霊が私たちの心に住むことをイエス様が実現してくださいました。私たちはただただこの新しい契約の仲介者であられるイエス様に目を向けて、イエス様の愛に心から応答する者でありたいと思うのです。

Ⅲ.神を知るようになる(34)

第三に、このように主がイスラエルと新しい契約を結んでくださることによって、どういうことが起こるのでしょうか。34節をご覧ください。「彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『【主】を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──【主】のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」。」

ここには、主がイスラエルと新しい契約を結ぶことによって二つのことが起こるとあります。第一のことは、彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、「主を知れ」と言って教えることはありません。なぜなら、彼らはみな聖霊によって、身分の低い者から高い者まで、主を知るようになるからです。どういうことですか。老若男女、すべて神を個人的に人格的に知るようになるということです。それまではそうではありませんでした。石の板に書かれたものであれば、絶えず「主を知れ」と言って互いに教えなければなりません。私たちの外側にある規則によって半強制的に押し付けられなければ行動に移すことができなかったのです。たとえ行動に移したとしても、それはあくまでも表面的なものにすぎませんでした。でも聖霊が与えられ、聖霊が心に住まわれるようになるとそうではありません。喜んで主のことばに従いたいと思うようになるのです。旧約では人々は律法を守ることに集中しましたが、新約ではそうではありません。新約ではその律法を与えてくださった方、またそれを完全に成し遂げることができるお方、すなわち神を知ること、神と交わることに集中するのです。皆さん、これがクリスチャンにとってもっとも大切なことです。神を知るなら、それが自然と行動に表れるようになるからです。

第二のことは、主は彼らの不義を赦し、もはや罪を思い起こすことはなさいません。完全な赦しを与えるということです。完全な赦しを与えるということは、不完全な赦しもあるということです。不完全な赦しとは忘れない赦しです。赦すけど忘れません。私たちにはそういうことがあるのではないでしょうか。私はあなたを赦すけど忘れないからね!でも神の赦しは違います。神は彼らの罪を赦し、もはや彼らの罪を二度と思い起こすことはありません。あなたが過去においてどんな罪を犯したとしても、その罪を思い起こすことはないのです。すべて忘れてくださいます。認知症だからではありません。イエス・キリストの血潮によって流されて、父の記憶からすべて完全に消し去ってくださるのです。イザヤ43章25節にある通りです。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」

ですから、もしあなたがイエスの血にすがって罪を認めて悔い改めるなら、神はあなたの不義を赦し、すべての悪からきよめてくださいます。もはやあなたの罪を思い起こすことはありません。その記憶から完全に消し去ってくださってくださるのです。もし悔い改めた翌日に同じ罪を犯してしまったらどうでしょう。その時にあなたが「ごめんなさい。またやってしまいました。赦してください。」と祈ったら、神は赦してくださいます。「またやったのか、とんでもないヤツだ。人生そんなに甘いもんじゃないよ。昨日は赦してやったけど、今日はだめだ。二度あることは三度あるからな」などとは言いません。もはやあなたの罪を思い起こすことはないからです。

カール・ヒルティーは、こう言っています。「赦すとは忘れることである。赦しはするが忘れないというのは、赦していないということなのである。」は赦すとは忘れることなのです。これが神の赦しです。神はこのような赦しを与えてくださるのです。

日本の有名な牧師の一人で、「ちいろば」の著者でもある榎本保朗先生はこう言っておられます。「自分が赦された存在であるということを忘れるところから、人を赦さないという行為が出てくるのである。」これを忘れてはいけません。忘れてもいいことは、人があなたに何をしたか、何を言ったかということです。でも忘れてはならないことは、自分が赦された存在であるということです。これだけは忘れてはいけません。これを忘れると私たちの中に赦さないとか、赦せないという気持ちが出てくるからです。でも、自分も赦された存在であるということがわかったら、人を赦すことができるようになります。

こうした赦しはキリストの十字架によってもたらされます。つまり、この新しい契約は、イエスが十字架で死なれ三日目によみがえられたという御業に基づく一方的な神の恵みの契約であるということです。私たちの罪が赦されるのは私たちのうちに神に認められる何かがあるからではありません。私たちが何かささげものをしたからとか、一生懸命に奉仕したからではなく、一方的な神の恵み、神のあわれみによるのです。すべては十字架のイエスに対して神様が約束されたことを実行してくださるのです。これが、神がイスラエルと約束された新しい契約です。これが、神があなたと約束してくださったことです。私たちもイエスの十字架において与えられたこの新しい契約に生きる者とさせていただきましょう。そして聖霊によって神がどれほど恵み深くあわれみ深い方なのかを知り、その恵みに生きる者でありたいと思います。

エレミヤ31章23~30節「あなたのたましいを満たす神」

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エレミヤ書31章から学んでいますが、きょうは、この31章23~30節から、「あなたのたましいを満たす神」というテーマでお話します。25節に「わたしが疲れたたましいを潤し、すべてしぼんだたましいを満ち足らせるからだ。」とあります。前回の箇所で、主はご自身のもとに立ち返るイスラエルの民に一つの新しいことを創造されると約束されました。それは何ですか。それは22節にあるように、「女の優しさが一人の勇士を包む」ようになるということです。これは女であるイスラエルが、一人の勇士である主を求めるようになるということでした。それまではまったく自分のことしか考えられなかった者が、神を求めるようになるのですから。そんなイスラエルを神は祝福してくださいます。主が疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満ち足らせてくださるからです。あなたのたましいはいかがですか。疲れていませんか。しぼんでいませんか。主はそんなあなたのたましいを満ち足らせてくださるのです。

Ⅰ.わたしが彼らを元どおりにする(23-26)

まず、23~26節をご覧ください。「23 イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。「わたしが彼らを元どおりにするとき、彼らは再び次のことばを、ユダの地とその町々で語る。『義の住まい、聖なる山よ、【主】があなたを祝福されるように。』24 ユダとそのすべての町の者はそこに住み、農夫たちも、群れを連れて回る者たちも一緒に住む。25 わたしが疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満ち足らせるからだ。」26 ここで、私は目覚めて、見回した。私の眠りは心地よかった。」

ここからユダ、イスラエルに対する回復のメッセージが語られます。「わたしが彼らを元どおりにするとき」とは、バビロンによって破壊されたユダの町々を元通りにする、ということです。そのとき、ユダの町々は主によって回復し、復興し、再び繁栄を取り戻すことになります。そのとき彼らはユダの地とその町々で、次のように語ることになります。「義の住まい、聖なる山よ、主があなたを祝福されるように。」。
  「義の住まい」とは、具体的にはエルサレムの神殿のことです。また、「聖なる山」とは、シオンの山のこと、つまり、エルサレムのことです。ですから、この「義の住まい」と「聖なる山」という語は同義語で使われているわけです。かつてエルサレムには神殿が建っていましたが、バビロンの王ネブカドネツァルによって前586年に完全に破壊されてしまいました。それが元どおりになるというのです。具体的には、70年の捕囚の期間を経て南ユダは祖国を取り戻し、復興するということです。神殿も再建されます。それは預言者エレミヤによって預言されていたことでした。つまり、神の預言は必ず成就するということです。

24節をご覧ください。「ユダとそのすべての町の者はそこに住み、農夫たちも、群れを連れて回る者たちも一緒に住む」。エルサレムに帰還し元通りの生活を営むようになるということです。いったいどうしてそのようなことになるのでしょうか。

25節にこうあります。「わたしが疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満ち足らせるからだ。」それは帰還民が頑張ったからではありません。ここにはひらがなで「わたしが」とありますが、聖書にひらがなで「わたし」とある時は、主なる神のことを指して言われています。つまり、主が彼らの疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満ち足らせてくださるからです。あくまでも、主語は「わたし」なのです。この主語が大切です。誰が回復を与えてくださるのかというと、「わたし」であるということ、「主」であるということです。これは23節でも言われていることです。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。「わたしが彼らを元どおりにするとき・・」。イスラエルの神、万軍の主が彼らを元通りにしてくださいます。勿論、ユダの民も頑張ったでしょう。あの3.11の後で「ガンバレ!東北」を合言葉に震災復興に取り組んだように、「ガンバレ!イスラエル」を合言葉に、必死に復興に取り組んだことでしょう。でも、彼らの頑張りだけではどうすることもできませんでした。「わたしが彼らを元どおりにするとき」とあるように、そこに主が働いてくださったから、主がそれを成し遂げてくださったので出来たのです。私たちの働きではなく、徹頭徹尾、主の働きによるのです。自分の罪の結果、自分の人生、自分の家庭、自分の持ち物、自分の何もかもすべて失ってしまった、台無しにしてしまったという人がいるなら、ここから慰めを受けてほしいと思います。自分でその失ったものを取り戻そうものなら、自分でその壊れたものを修復しようものならとても無理だと諦めるしかないでしょう。でも、神があなたを元どおりにしてくださいます。神があなたの繁栄を取り戻してくださるのです。ここに希望があります。彼らの回復は神主導であったということです。そのことを忘れないでください。あなた主導ではありません。わたし主導でもない。神主導なのです。神主導ならば、神が成し遂げてくださいます。私たちはただ神に任せればいいのです。神にはおできにならないことは一つもありません。無から有を創造された方は、あなたが失ったものを元どおりにすることができるのです。

ヨブはまさにそうでした。彼はすべてのものを失いました。自分の家族、財産、健康、何もかも。それは彼の罪によってではなく、神から与えられた試練によってでしたが、後に彼はその目で神を見たとき、ちりと灰の中で悔い改めました。すると主はヨブを元どおりにされました。主はヨブの財産をすべて、二倍にされたのです。その時、ヨブはこのように祈りました。「あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。」(ヨブ42:2)
  そうです、神にはどんなことでもおできになります。どのような計画も不可能ではありません。だから神は、あなたが失ったものを元どおりにすることができるのです。

特に25節には、「わたしが疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満ち足らせる」とあります。神だけが、あなたのたましいを潤すことができます。神だけが、あなたのしぼんだたましいを満たすことができるのです。この世の何であろうと、また誰であろうと、あなたのたましいを完全に潤すことができるものはありません。ただ神だけが満たすことができるのです。

ヨハネ4章13~14節にこうあります。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」これはイエスのことばです。イエスはある日サマリヤのスカルという所で、たましいに飢え渇いた、一人の女の人に出会いました。その女の人はかつて人生の幸せを求め5回も結婚しましたが、その心は満足を得ることはできませんでした。しかし、泉のほとりでイエスに出会い、イエスと話し合い、イエスを信じたとき、飢え渇いたたましいを、いのちの水で満たしていただくことができました。イエス・キリストはたましいを満たすことができるお方なのです。イエス・キリストだけが、あなたの疲れたたましいを潤し、疲弊しきったしぼんだたましいを満ち足らせることができるのです。だからイエスは、このように言われたのです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

皆さん、遠慮する必要はありません。あなたのたましいを完全に満たすことができるイエスが、あなたを招いておられるのです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。」と。「わたしがあなたを休ませてあげます」と。いや、私のような者はとても無理です。あなたの前には出られるような者ではありません。だって私はこんな者ですから・・・。過去にこんなことをやったんですよ。そんな者が赦されるはずがないじゃないですか・・。でも、あなたが疲れていると自覚しているなら、あなたが病んでいると自覚しているなら、イエスのもとに行ってください。イエスがあなたを休ませてくださいますから。なぜなら、イエスはまさにそのような人のために来られたのですから。イエスはこう言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(マルコ2:17)
 丈夫な者に医者はいりません。医者を必要とするのは丈夫な者ではなく罪人です。イエスは、その罪人のために来られたのです。もしあなたが罪人であると自覚しているなら、もしあなたが自分は病んでいると自覚しているなら、もしあなたが疲れていると自覚しているなら、イエスのもとに来てください。イエスがあなたを休ませてあげます。イエスがあなたのたましいを潤し、あなたのしぼんだたましいを満ち足らせてくださいます。あなたのたましいを潤すことができるのは、あなたのたましいの救い主、イエス・キリストだけなのです。

ユダの民は、バビロン捕囚によってすべてを失ってしまいました。親も、子も、孫も、財産も、国も、すべてです。でも一つだけ失わないものがありました。何ですか?そうです、神です。彼らは神だけは失いませんでした。神を失うと希望はありません。でも、すべてを失っても神を失わなければ希望があります。そしてあなたが神を信じるなら、あなたは神を失うことは決してありません。どんなことがあっても、神はあなたを見捨てることはないからです。いつまでもあなたと共にいてくださいます。それが、聖書が約束していることです。だからあなたには希望があるのです。あなたが本当に神を信じているなら、あなたがイエス・キリストを信じて救われているなら、あなたがクリスチャンなら、神はいつまでもあなたとともにいてくださいます。これが私たちの希望です。

26節をご覧ください。「ここで、私は目覚めて、見回した。私の眠りは心地よかった。」「私」とはエレミヤのことです。ここでエレミヤは目を覚ましました。彼は夢の中で神から啓示を受けていたのです。それは心地よかったとあります。なぜそんなに心地よかったのでしょうか?ぐっすり眠ることができたということもあるでしょうが、それよりも、今回の啓示は祝福のメッセージだったからです。これまではずっとイスラエルに対してさばきのメッセージばかりだったのに、今回は祝福のメッセージでした。さばきのメッセージを語ることはタフなことですが、祝福のメッセージを語ることは心地よいことです。エレミヤはユダの民イスラエルに対して、主が彼らを元どおりにするという祝福のメッセージを語ったのです。

Ⅱ.今度は、彼らを立て直し、また植える(27-28)

次に、27~28節をご覧ください。「27 「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家とユダの家に、人の種と家畜の種を蒔く。28 かつてわたしが、引き抜き、打ち倒し、打ち壊し、滅ぼし、わざわいを下そうと彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見張る──【主】のことば──。」

  ここからは、エレミヤが目を覚ましてから語った預言です。「見よ、その時代が来る」。これは世の終わりに起こることを示す特徴的なことばです。それは、イエス・キリストが王の王、主の主、さばき主として再びこの世に来られる時のことです。そのとき、主はイスラエルの家とユダの家に何をなさいますか。そのとき、主はイスラエルの家とユダの家に、人の種と家畜の種を蒔かれます。どういうことでしょうか?

28節には、「かつてわたしが、引き抜き、打ち倒し、打ち壊し、滅ぼし、わざわいを下そうと彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見張る」とあります。「かつて」とは、以前にとか、過去においてという意味です。かつて主はイスラエルの民を引き抜き、打ち倒し、打ち壊し、滅ぼし、わざわいをくだそうと見張っておられましたが、今度は違います。今度は彼らを立て直し、また植えるために見張られます。それはアッシリアとバビロン捕囚によって成就しましたが、今度は、そんな彼らを立て直し、また植えるために見張られるのです。覚えていますか、エレミヤが召命を受けた時、主は、「引き抜き、引き倒し、滅ぼし、建て、また植えるために」(1:10)と言われましたが、主がイスラエルに計画しておられたことは引き抜き、引き倒し、滅ぼすことだけでなく、立て直し、再び植えることであったのです。つまり、彼らが引き抜かれたのは、これは具体的にはバビロンに捕囚のことですが、バビロンによって彼らを滅ぼすためではなく、そこから彼らを解放してエルサレムに帰還させるため、すなわち、新たに植えるためであったのです。それと同じようなことが世の終わりにも起こります。キリストが再び来られる時、彼らは建て直されることになるのです。

それは遠い未来のことではありません。というのは、もう既に1948年5月14日にイスラエルが国家として認められたからです。1900年もの間流浪の民として世界中に散らされていたユダヤ人が祖国に帰還し、建国を果たしたのです。それは全く考えられない出来事でしたが、その考えられないことが実際に起こったのです。どうしてそのようなことが起こるのでしょうか。それはここにそうなると預言されていたからです。イスラエルの家とユダの家は、建て直され、また植えられると。

でも、この預言はイスラエルが国として建て直されるということだけでなく、さらにその後に起こることも示しています。すなわち、キリストが再臨する時、彼らの先祖がやりで突き刺したキリストを自分たちがメシヤとして認め、悔い改めて信じるようになるということです。こうしてイスラエルはみな救われるという聖書の預言が実現することになります。それがローマ人への手紙11章で言われていることです(11:26)。近い将来、その日が必ずやって来ます。

であれば、私たちはそれに備えていなければなりません。それに備えるとはどういうことかというと、ここに「今度は、彼らを立て直し、また植えるために見張る」とあるように、たとえ今あなたの人生が引き抜かれ、打ち倒され、打ち壊されているようであっても、神は再び建て直し、また植えてくださると信じて、ただ神のみこころを求めて歩まなければならないということです。

Ⅲ.だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮く(29)

最後に29~30節をご覧ください。その日には、イスラエルの家が建て直され、植えられるだけではありません。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮く、と言うようになります。「29 その日には、彼らはもはや、『父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』とは言わない。30 人はそれぞれ自分の咎のゆえに死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。」

ここにも「その日には」とあります。これも未来的預言です。その日にはどんなことが起こるのでしょうか。「その日には、彼らはもはや、『父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』とは言わない。」どういうことでしょうか?これは当時よく使われていた格言、ことわざです。エゼキエル書18章2~4節にもありますが、父が(親が)犯した罪のために、子どもが苦しむ、という意味のことわざです。日本のことわざにも「親の因果が子に報い」ということばがありますが、これと同じです。たとえば、自分が何らかのわざわいを受けるとき、自分は何も悪いことをしていないのにどうしてこういうことになるのかと原因を究明して、それを親のせいにするのです。親が悪いからこんなことになったんだと。これは実際、捕囚の民として連れて行かれたユダの民が使っていました。彼らは自分たちが捕囚になったのは先祖たちのせいだと嘆いていまたのです。自分たちが悪いんじゃない。悪いのは親たちで、親のせいでこんな目に遭っているんだと。確かにそういう面もありますが、でも子どもたち自身も罪を犯しているというのも事実でした。

でもその日には、「父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く」とは言わないで、こう言うようになります。「人はそれぞれ自分の咎のゆえに死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。」と。これは申命記24章16節で言われていることです。「父が子のために殺されてはならない。子が父のために殺されてはならない。人が殺されるのは自分の罪過のゆえでなければならない。」父が子のために殺されたり、子が父のために殺されたりということがあってはなりません。人が殺されるのは自分の罪のためであって、父親や子供の犯した罪のためではないからです。
  これは世代間における罪の報いは存在しないということを示しています。日本人ではこのような考えが根強くあります。先祖代々いろいろな汚れを背負って来ているからたたりがあるんだからと、何かお清めをしないといけない。御祈祷もしてもらわないと。お祓いをしなければならない。そう考えるのです。これが人間の作った宗教です。そのような人間のことわざや考えに付け込んで、人間がそれをビジネスにするのです。それが宗教です。それがほとんどの日本の古来の宗教や新興宗教に見られるものです。ここでは親と子の連帯責任が問われていますが、親子間において連帯責任はありません。ですから、クリスチャンはこのことをちゃんと理解しておく必要があります。確かに親の悪い影響を子どもが受けることはありますが、でも必ずしもそれによって子どもの歯が浮くわけではありません。子どもが不幸になるということはないのです。子どもには子どもの人格なり意志というものがあるので、悪い影響を受け入れるかどうかは、子ども自身が決めなければならないことなのです。ですから、父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮くことはありません。人はそれぞれ自分の咎のゆえに死ぬのです。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのです。

それはイエス様が言われたことでもあります。イエス様が通りすがりに生まれたときから目の見えない人をご覧になったとき、弟子たちはイエス様に尋ねました。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。それともこの人の両親ですか。するとイエス様はこう言われました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」(ヨハネ9:3)そして地面に唾をして、その唾で泥を作られその泥を彼の目に塗って、「シロアムの池で洗いなさい。」と言われました。すると彼見えるようになりました。

であれば、問題は、その自分の咎をどのように清めるのかということです。というのは、だれも完全な人などいないわけで、人はみな自分の咎を負って生きているからです。だれでも、酸いぶどうを食べるので、歯が浮くことになります。歯が浮くというのは入れ歯だからじゃないのです。罪を犯すからなのです。人はそれぞれその咎のため死ななければなりません。どんなに自分で清めようとしてもできません。どうしたらいいのでしょうか。

ここに救いがあります。神はそんな私たちの咎を負うために、御子をこの世に送ってくださいました。それがイエス・キリストです。キリストはあなたが担い切れない罪、払いきれない贖いの代価として、十字架で死んでくださいました。それは御子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。ヨハネ3章16~18節にこうあります。「16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。」(ヨハネ3:16~18)

ですから、あなたが御子イエスを信じるなら、あなたのすべての罪は赦されるのです。イザヤ書43章25節に「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」とありますが、あなたの罪はもう二度と思い出されることはありません。これが良い知らせ、これが福音です。その日には、彼らはもはや、父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯は浮くとは言いません。人はそれぞれ自分の咎のために死にます。でも、イエス・キリストを信じるなら、あなたの罪を贖うために十字架で死なれたキリストを見上げるなら、あなたは死ぬことはありません。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためだからです。

イギリスに、チャールズ・H・スポルジョンという牧師、伝道者がいました。彼は1834年生まれですから、今から190年も前の人です。200年近く昔の人なのに今も生きて語りかける偉大なキリスト教の伝道者です。
 彼は15歳の時に信仰に入り、20歳の時にはロンドンでも有数な教会、ニューパーク・ストリート教会の牧師になり、40年近く牧会して1万3千人の大教会となりました。毎年平均438人が新しくクリスチャンとなったと言われています。そして今でも彼の著した著書によって数千、数万、何百万という人々が救われているという人です。彼が救われたということは世界的に大きなことでした。
 彼は吹雪きの日、家の近くの10人か15人ぐらいが集まっている小さな教会に行きました。痩せ型の牧師が立ち上がって説教しました。スポルジョン一人に呼び掛けるように、「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」(イザヤ45:22)「Look! Look! Look! 」と叫びました。スポルジョンは彼に向かってストレートに呼び掛けるこの声を活ける神の声として受け止め、パチッと目を開けて十字架上のイエス・キリストに心の目を開けたのです。その日彼は救われました。そして彼を通して数限りのない人々が救いに導かれるようになったのです。

あなたも十字架のキリストに心の目を開いてください。イエス・キリストは、あなたを罪から救うことができるお方です。この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名は与えられていないからです。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。」イエス・キリストを仰ぎ見てください。イエス・キリストは、あなたをすべての罪から救ってくださいます。「その日には」とありますが、今がその時なのです。

エズラ記2章

 

 エズラ記2章から学びます。

 Ⅰ.エルサレムに帰還した人々(1-58)

まず、1~58節をご覧ください。「1 バビロンの王ネブカドネツァルがバビロンに引いて行った捕囚の民で、その捕囚の身から解かれてエルサレムとユダに上り、それぞれ自分の町に帰ったこの州の人々は次のとおりである。2 彼らは、ゼルバベル、ヨシュア、ネヘミヤ、セラヤ、レエラヤ、モルデカイ、ビルシャン、ミスパル、ビグワイ、レフム、バアナと一緒に帰って来た。イスラエルの民の人数は次のとおりである。3 パルオシュ族、二千百七十二人。4 シェファテヤ族、三百七十二人。5 アラフ族、七百七十五人。6 ヨシュアとヨアブの二族からなるパハテ・モアブ族、二千八百十二人。7 エラム族、一千二百五十四人。8 ザト族、九百四十五人。9 ザカイ族、七百六十人。10 バニ族、六百四十二人。11 ベバイ族、六百二十三人。12 アズガデ族、一千二百二十二人。13 アドニカム族、六百六十六人。14 ビグワイ族、二千五十六人。15 アディン族、四百五十四人。16 ヒゼキヤ族、すなわちアテル族、九十八人。17 ベツァイ族、三百二十三人。18 ヨラ族、百十二人。19 ハシュム族、二百二十三人。20 ギバル族、九十五人。21 ベツレヘム人、百二十三人。22 ネトファの人々、五十六人。23 アナトテの人々、百二十八人。24 アズマウェテ人、四十二人。25 キルヤテ・アリム人とケフィラ人とベエロテ人、七百四十三人。26 ラマ人とゲバ人、六百二十一人。27 ミクマスの人々、百二十二人。28 ベテルとアイの人々、二百二十三人。29 ネボ人、五十二人。30 マグビシュ族、百五十六人。31 別のエラム族、一千二百五十四人。32 ハリム族、三百二十人。33 ロデ人とハディデ人とオノ人、七百二十五人。34 エリコ人、三百四十五人。35 セナア人、三千六百三十人。36 祭司は、ヨシュアの家系のエダヤ族、九百七十三人。37 イメル族、一千五十二人。38 パシュフル族、一千二百四十七人。39 ハリム族、一千十七人。40 レビ人は、ホダウヤ族のヨシュアとカデミエルの二族、七十四人。41 歌い手は、アサフ族、百二十八人。42 門衛の人々は、シャルム族、アテル族、タルモン族、アクブ族、ハティタ族、ショバイ族、合計百三十九人。43 宮のしもべたちは、ツィハ族、ハスファ族、タバオテ族、44 ケロス族、シアハ族、パドン族、45 レバナ族、ハガバ族、アクブ族、46 ハガブ族、シャルマイ族、ハナン族、47 ギデル族、ガハル族、レアヤ族、48 レツィン族、ネコダ族、ガザム族、49 ウザ族、パセアハ族、ベサイ族、50 アスナ族、メウニム族、ネフシム族、51 バクブク族、ハクファ族、ハルフル族、52 バツルテ族、メヒダ族、ハルシャ族、53 バルコス族、シセラ族、テマフ族、54 ネツィアハ族、ハティファ族。55 ソロモンのしもべたちの子孫は、ソタイ族、ソフェレテ族、ペルダ族、56 ヤアラ族、ダルコン族、ギデル族、57 シェファテヤ族、ハティル族、ポケレテ・ハ・ツェバイム族、アミ族。58 宮のしもべたちと、ソロモンのしもべたちの子孫は、合計三百九十二人。」

ここには、バビロンからエルサレムに帰還した人々の名簿が記されてあります。1章1節には、「ペルシャの王キュロスの第一年に、エレミヤによって告げられた主のことばが成就するために、主はペルシャの王キュロスの霊を奮い立たせた。」とありますが、そのように主の働きかけによってエルサレムへの帰還が実現しました。神はまさにみこころを成し遂げられる方なのです。1節に「この州の人々」とありますが、これはこの捕らえられていたユダの人々のことです。ユダはペルシャの行政区である州のひとつでした。エズラは、この帰還民たちをいくつかのグループに分けて書き記しています。

まず、11名の宗教的・政治的リーダーたちです。「彼らは、ゼルバベル、ヨシュア、ネヘミヤ、セラヤ、レエラヤ、モルデカイ、ビルシャン、ミスパル、ビグワイ、レフム、バアナと一緒に帰って来た。」(2節)

ネヘミヤ記7章7節には、12名の名前が上げられていますが、エズラ記には、そのうち「ナハマニ」の名前が抜けています。おそらく、写本の段階で抜けてしまったのでしょう。極めて珍しいケースです。ですから、本来は12名であったと思われます。

「ゼルバベル」は、政治的指導者で、行政の長として働きました。この総督ゼルバベルについては、ゼカリヤも、6章11節にも記されてあります。「ヨシュア」は、当時の大祭司です。総督ゼルバベルとともに神殿再建の指導者として立てられました。「ネヘミヤ」は、ネヘミヤ記を書いたネヘミヤとは別の人物です。というのは、ネヘミヤがエルサレムに帰還するのは、この時から90年後のことだからです。「モルデカイ」も、エステル記のモルデカイとは別の人物です。エステル記の物語は、エズラ記から60年後の出来事ですから。

3~20節には、氏族ごとの人数が記されてあります。それは18の氏族、合計15,604名です。21~35節には、町や村ごとの人数が記されてあります。ユダとベニヤミン族の中にある町です。その合計は、8,540名です。36~39節は、祭司の人数です。合計で、4,289名。40~42節には、レビ人の人数、その数は、341名です。43~58節には、宮に仕える歌うたいや門衛などの氏族の人数が記されており、その数は、392名です。

Ⅱ.系図のない人々(59-63)

しかし、次の人々は、自分たちの先祖の家系と血統がイスラエル人であったかどうかを証明できませんでした。59~63節をご覧ください。「59 次の人々はテル・メラフ、テル・ハルシャ、ケルブ、アダン、イメルから引き揚げて来たが、自分たちの先祖の家系と血統がイスラエル人であったかどうかを証明できなかった。60 デラヤ族、トビヤ族、ネコダ族、六百五十二人。61 祭司の子孫の中では、ホバヤ族、ハ・コツ族、バルジライ族。このバルジライは、ギルアデ人バルジライの娘の一人を妻にしたので、その名で呼ばれていた。62 これらの人々は自分たちの系図書きを捜してみたが、見つからなかったので、彼らは祭司職を果たす資格がない者とされた。63 そのため総督は彼らに、ウリムとトンミムを使える祭司が起こるまでは、最も聖なるものを食べてはならないと命じた。」

ここには、自分たちの先祖の家系と血統がイスラエル人であるかどうか証明できなかった者たちについて記されてあります。すなわち、デラヤ族、トビヤ族、ネコダ族の合計652人です。

祭司の子孫のうちにも、系図がなかったため祭司職を証明できない者たちがいました。すなわち、ホバヤ族、ハ・コツ族、バルジライ族です。このバルジライは、ギルアデ人バルジライの娘の一人を妻にしたので、その名で呼ばれていました。彼らは、自分たちの系図書きを捜してみましたが見つからなかったので、祭司職を果たす資格がない者とみされたのです。それで総督は、ウリムとトンミムを使える祭司が起こるまでは最も聖なるものを食べてはならないと命じました。「最も聖なるもの」とは、ささげものの中から祭司が受け取る分」のことです。また、ウリムとトンミムとは大祭司の胸に付ける二つの石のことで、神のみこころを判断するために用いられました。それによって彼らが本当の祭司であるかどうかを神に伺いを立て判別したのです。

Ⅲ.自発的なささげ物(64-70)

「64 全会衆の合計は四万二千三百六十人であった。65 このほかに、彼らの男女の奴隷が七千三百三十七人いた。また、彼らには男女の歌い手が二百人いた。66 彼らの馬は七百三十六頭。らばは二百四十五頭。67 らくだは四百三十五頭。ろばは六千七百二十頭であった。
  68 一族のかしらの中のある者たちは、エルサレムにある【主】の宮に着いたとき、神の宮を元の場所に建てるために、自分から進んでささげ物をした。69 彼らは自分たちの財力に応じて、工事資金として金六万一千ダリク、銀五千ミナ、祭司の長服百着を献げた。70 こうして、祭司、レビ人、民のある者たち、歌い手、門衛、宮のしもべたち、すなわち、全イスラエルは自分の元の町々に住んだ。」

全集団の合計は、42,360名でした。でも、このエズラ記2章に記されている人数を合計すると、29818名になります。この違いから、このエズラ記の記述は虚構だと主張する学者もいますが、そういうことではありません。この違いは、統計の取り方の違いです。おそらく全集団の合計には、婦人や子供たちが含まれていたのでしょう。また、北の10部族の中から帰還した人たちもいたものと思われます。あるいは、系図のない祭司たちの数もここに含まれていたのかもしれません。こういう人たちを全部含めると、42,360名であったということです。

ここで大切なのは、これらの人たちはエルサレムで神殿を再建するためにバビロンで慣れ親しんだ地を捨てた人々であったということです。それは、当時バビロンに住んでいたユダヤ人の総数からすれば少数派でした。多くのイスラエルの人々は捕虜であったとはいえ、50年以上も定住し、ある意味で自分たちの生活が出来上がったバビロンにとどまりました。彼らは、安全と富を保障してくれる現状の生活に満足し、神が与えてくださった約束の地を捨てたのです。そのような人たちの中にあって、神が約束してくださったことを信じ、それに応答した人たちがいたのです。新しい環境に飛び込むことは勇気を要したことでしょう。でもこの人たちはその思い越しを上げて、あえてはるか数千キロも離れた地に出て行ったのです。そういう冒険的な旅をした人たちの記録なのです。

確かに、そのような人たちがいなければ、物事が進まないことがあります。誰かが道を拓かなければなりません。私はこれまで何回か開拓伝道に取り組んだことがありますが、まさに開拓伝道はその一つでしょう。だれかが始めなければ道が開かないことがあります。一歩先を進んで行かなければならないことがあるのです。彼らはその一歩先を進んで行ったのです。

そればかりではありません。68節には「一族のかしらの中のある者たちは、エルサレムにある【主】の宮に着いたとき、神の宮を元の場所に建てるために、自分から進んでささげ物をした。」とあります。一族のかしらの中のある者たちは、進んでささげものをしました。その金額は、工事資金として金六万一千ダリク、銀五千ミナ、祭司の長服百着でした。これは金256キロ、銀3トンです。それに祭司の長服100着ですから、莫大な金額でした。これでけのものをささげたのです。ある意味手弁当で工夫し、自分たちにできることから始めていったのです。そんな人たちが物事のきっかけを作っていったのです。そして神はそうした一歩を祝福されたのです。

それにしても、ここに自分の出身地、名前が記されているのを見た読者たちは、どれほど感動したことでしょうか。私たちの名はどこに記されてあるでしょうか。主イエスは「ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:20)と言われました。私たちの名は天に書き記されています。神の恵みに応答し、天に名が記されてあることを喜びましょう。