エレミヤ33章14~26節「主は私たちの救い」

きょうは、エレミヤ33章後半からお話したいと思います。タイトルは、「主は私たちの救い」です。16節には「主は私たちの義」とありますが、これと同じ意味です。創造主訳聖書では「義」を「救い」と訳していて、こちらの訳の方がわかりやすいと思ったので、そのようなタイトルにしました。

前回の箇所には、「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。」とありました。すばらしい約束ですね。この「大いなること」とは、エルサレムの回復のことです。エルサレム(イスラエル)は神に背き、神の戒めを守らなかったので主は彼らから御顔を隠されましたが、もし彼らが主を呼ぶなら、主は彼らが知らない理解を超えた大いなることを告げてくださるというのです。今回はその続きです。33章までが、このエルサレムの回復がテーマになっています。主がどのようにエルサレムを回復なさるのかをご一緒に見ていきましょう。

Ⅰ.主は私たちの義(14-16)

まず14~16節をご覧ください。「14 「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみの約束を果たす。15 その日、その時、わたしはダビデのために義の若枝を芽生えさせる。彼はこの地に公正と義を行う。16 その日、ユダは救われ、エルサレムは安らかに住み、こうしてこの都は『【主】は私たちの義』と名づけられる。」」

「見よ、その時代が来る」ということばは、世の終わりを示す特徴的な語です。そのとき、どんなことが起こるのでしょうか。ここには、「そのとき、わたしはイスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみの約束を果たす」とあります。ここでは、この「いつくしみの約束」ということばがキーワードになっています。そのことを念頭にお聞きください。この「イスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみの約束」とは、サムエル記第二7章12、13節で主がダビデに語られた約束のことです。主はダビデに次のように言われました。「12 あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」

これは主がダビデと結ばれた契約なのでダビデ契約と言われているものですが、主はこの契約に基づいて、その日、ダビデのためにいつくしみの約束を果たすというのです。具体的にはダビデのために義の若枝を芽生えさせるということです。これはイエス・キリストによって成就するメシヤ預言です。すでにエレミヤ書23章5節にもこのことばが出てきました。主は、イスラエルとユダに語られたいつくしみの約束のゆえに、ダビデの子孫からメシヤを起こし、公義と正義によってエルサレムを治めてくださると言われました。その結果、エルサレムは安らかな町、「主は私たちの義」と呼ばれるようになるのです。すばらしいですね、主はご自分がダビデと交わした約束のゆえに、エルサレムを救い、そこで公義と正義を行い、そこが(エルサレム)が安らかに住めるようにしてくださるのです。たとえバビロンによって一時は滅ぼされたとしても。そしてそこは「主は私たちの義」と呼ばれるようにしてくださるのです。これはイエス・キリストが最初に来臨した時に成就しましたが、実はそれだけのことではありません。来るべき千年王国において、エルサレムに完全な平和をもたらしてくださるのです。

ここではエルサレムは擬人化されています。これは私たちのことでもあるのです。「エルサレム」ということばに自分の名前を入れてよんでみるとわかりやすいと思います。その日、大橋富男は安らかに住み、こうして大橋富男は「主は私たちの救い」と名付けられる。その日がやってきます。私たちはかつてエルサレムのように神に背き、自分勝手な道を歩んだことでバビロンに滅ぼされたような者ですが、主はそんな私たちを救うためにご自分の永遠の契約に基づいて神の救い、神の御子イエス・キリストを与えてくださり、すべての罪からきよめてくださいました。それで私たちも「主は私たちの救い」と呼ばれるようになったのです。

パウロはこのことをエペソ2章1~8節でこう述べています。「1 さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。3 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、5 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。6 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。7 それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」

私たちは、かつて自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、生まれながら神の御怒りを受けるべき子でした。しかし、あわれみ豊かな神はその大きなあわれみのゆえに、罪過の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。私たちが救われたのは恵みによるのです。これは神の賜物です。自分の罪過と罪との中に死んでいたということは、もはや自分では何もできないということです。そんな死人同然の者を、神はキリスト・イエスにあって私たちとともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださったのです。私たちが救われたのはただ神の恵みによるのです。

そのことをここでは「いつくしみの約束」ということばで語られています。エルサレム(イスラエル)は、バビロンによって滅ぼされもはや死んだも同然、自分たちの力ではどうしようもない状態でしたが、神はそんな彼らを救い、安らかに住むことができるようにしてくださったのです。どうしてこのようなことが起こるのでしょうか?それは神が彼らといつくしみの契約を結んでくださったからです。主はその約束を果たしてくださるのです。それは私たちにできることではありません。それは一方的な神の恵みによるのです。

詩人の谷川俊太郎さんが、「ぼくのゆめ」という題の詩を書きました。
「おおきくなったら なにになりたい?/と おとながきく/いいひとになりたい/と ぼくがこたえる/おこったような かおをして おとなはいう/もっと でっかいゆめがあるだろ?/えらくならなくていい/かねもちにならなくていい/いいひとになるのが ぼくのゆめ/と くちにださずに ぼくはおもう/どうして そうおもうのかわからない/だけど ほんとにそうおもうんだ/ぼんやり あおぞらをみていると/そんぐ(ぼくがかっているうさぎ)のあたまを なでていると」。

皆さんは、自分の子どもが大きくなったら何になりたいと聞かれ、「いい人になりたい」と言ったら、どう反応するでしょう。ある生命保険会社の調査によると、昨今の子どもがなりたいと思っている第一位はユーチューバーだったそうです2位はマンガ家、イラストレーター、プログラマー、アニメーター、3位は芸能人、4位、ゲームクリエーター、5位はパティシエ、だそうです。牧師になりたいという人はだれもいませんでした。この時代をよく反映しているなあと思いますが、他方、親たちはどう考えているかというと、親たちが「子どもについてほしくない職業」としてあげたのは、1位ユーチューバー、2位芸能人、3位自衛隊、4位政治家、5位は介護士でした。まあ、ユーチューバーや芸能人とあげたのは、これらは不安定な仕事ですから、もっと安定した職業に就いてほしいと思うのはわかるような気がします。世界で戦争や紛争が絶え間なく起こっている現代では、命を大切にしてほしいという気持ちもわかるような気がします。政治家も国のビジョンを描いていくのはカッコいいなぁと思いますが、やはりあまりに利権にまみれ、金まみれの世界に不快感を持つのでしょう。意外なのは、「介護士」ですね。おそらく親たち自身もお世話になるであろうエッセンシャルワーカーであるにもかかわらず、大切な仕事には間違いありませんが、あまりにも過酷すぎるという思いがあるからでしょう。

いろいろな職業がある中でも、どの人にも共通していることは、みんな「いい人になりたい」と思っていることです。でも、そもそもいい人とはどんな人なのでしょうか。エレミヤ17章9節に「人の心は何よりねじ曲がっている。それは癒しがたい。」とあります。そんな心がねじ曲がった人間が、いったいどうやっていい人になることができるのでしょうか。できません。私たちがどんなに頑張っても、自分ではいい人だと自負している人でも、神の目にかなったいい人になることはできないのです。それがイスラエル、エルサレムの結果でした。そしてバビロン捕囚という悲劇を生んだのです。

そんな中でもし私たちがいい人になりたいと思うなら、それはひとえに神の恵みでしかあり得ません。たとえば、ここに「公正」と「義」ということばがありますが、これはあらゆる政治家に求められる性質ですが、いったいどうしたら持つことができるのでしょうか。それは私たち人間から出るものではなく、神の恵みによるのです。

ですから、14節で主は「そのとき、わたしはイスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみ約束を果たす。」と言われたのです。これは「いつくしみの約束」なのです。私たち人間には到底できないことですが、神が一方的に与えてくださいました。その日、神はイスラエルとユダにいつくしみの約束を果たしてくださいます。良いことを成し得ない悲しいこの世に、神はご自身の「よいこと」をしてくださるのです。それがきたるべきメシヤ、イエス・キリストです。主は私たちを悪から救ってくださいます。私たちが救いなのではありません。救いは主です。主が私たちの救いなのです。その主が私たちを救い、安らかに住まわせてくださるのです。

この「主は私たちの義」という語は、エレミヤ23章6節にも出てきましたが、ヤハウェなる神は、救いという面だけでなく、すべての点でご自分の民の必要となってくださいます。戦いで勝利が必要なときには「ヤハウェ・ニシ」となってくださいます。意味は「主は旗」です。心の平安が必要な時には「ヤハウェ・シャローム」(主は平安)となってくださいます。今のエルサレムに最も必要なのは、公義と正義です。ですから主が「私たちの正義」になってくださるのです。

 そしてすばらしいのは、主ご自身が正義であられるというだけでなく、エルサレムの町も同じ名前で呼ばれるようになることです。それは私たちがキリストを信じたことによってキリストと一つにされたからです。こういうのを何というかというと「同化」と言います。私たちはキリストと同化したのです。「同化」したといってもあなたがおかしいということではないので安心してください。キリストと一つにされたのです。その結果、あなたのただ中にキリストの義がとどまるようになりました。これはすごいことです。私たちはクリスチャンと呼ばれていますが、どうしてそのように呼ばれるのでしょうか。それはキリストの義が転嫁されたからです。罪深い私たちはとても義なる者とはかけ離れた者ですが、キリストを信じたことで、キリストの義が転嫁されたのです。パウロはこのことをこう言っています。Ⅱコリント5章21節です。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(2コリント5:21)キリストの義が転嫁されたからです。

私たちはエルサレムのように救いも希望も何一つない荒れ果てた人生でしかありませんでしたが、神は、罪を知らないこの方を、私たちの代わりに罪としてくださったので、罪から救われ、神の都に安らかに住むことができるようになりました。それは神の豊かな恵みによるものです。このことを忘れないようにしましょう。そして、キリストと一つにされていることを喜び、キリストに感謝したいと思います。

Ⅱ.いつまでも絶えることがない神の契約(17-22)

次に、17~22をご覧ください。「17 まことに【主】はこう言われる。「ダビデには、イスラエルの家の王座に就く者が断たれることはない。18 また、レビ人の祭司たちには、わたしの前で全焼のささげ物を献げ、穀物のささげ物を焼いて煙にし、いけにえを献げる者が、いつまでも絶えることはない。」19 エレミヤに次のような【主】のことばがあった。20 【主】はこう言われる。「もしもあなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約を破ることができ、昼と夜が、定まった時に来ないようにすることができるのであれば、21 わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、ダビデにはその王座に就く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちと結んだわたしの契約も破られる。22 天の万象は数えきれず、海の砂は量れない。そのようにわたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人を増やす。」」

「まことに【主】はこう言われる。「ダビデには、イスラエルの家の王座に就く者が断たれることはない。」これはエレミヤ書22章30節で、主がエホヤキムの子エコンヤに語られたことばです。エコンヤはゼデキヤ王の前の王様でしたが、神の指輪の印のように尊く権威ある存在でした。しかし彼は、エレミヤが語る主のことばに「わたしは聞かない」と反抗したため、神はご自分の指輪の印であるエコンヤを抜き取り、バビロンの王ネブカデネザルの手に渡すと言われたのです。彼はそこで死ぬことになります。ということはどういうことかというと、ダビデ王家が絶たれてしまうということです。そうなったら大変なことになります。神が約束されたメシヤが出てこないことになるからです。しかし、神はダビデの子エコンヤの子孫であるヨセフの子を通してではなく、ダビデの別の息子ナタンからこの王家を起こされるのです。つまり、ダビデの息子ナタンの子孫マリヤを通してこれを実現なさるのです。すごいですね。詳しくは22章のメッセージを読み返していただきたいと思いますが、そこでは「神の大どんでん返し」というタイトルでメッセージしました。このようにして主は再び来られて、ダビデの座に着いてくださるのです。何を言いたいのかというと、神の契約はどんなことがあっても変わることはないということです。ダビデの王家は断絶したが、主はその切り株から新しいダビデ王家につながる王(正義の若枝)を通してご自身が約束されたことを果たされるのです。

それは、その次に出てくるレビ人の祭司たちについても言えることです。18節には、「また、レビ人の祭司たちには、わたしの前で全焼のささげ物を献げ、穀物のささげ物を焼いて煙にし、いけにえを献げる者が、いつまでも絶えることはない。」とあります。エルサレムが崩壊すれば、当然神殿も崩壊します。そうなると、レビ人の祭司たちは無用の人となってしまいます。必要なくなるわけです。しかし主はそんな祭司たちを励ますために、レビ人の祭司たちの制度は永遠であると再確認しているのです。そのことは民数記25章10~13節で約束されていたことでした。つまり、神の契約はいつまでも絶えることはないのです。もちろん、祭司たちの活動が再開されるのは、神殿が再建されてからのことですから、これは千年王国でのことを表しているのでしょう。

それゆえ主は、こう言われるのです。20~22節です。「「もしもあなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約を破ることができ、昼と夜が、定まった時に来ないようにすることができるのであれば、21 わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、ダビデにはその王座に就く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちと結んだわたしの契約も破られる。22 天の万象は数えきれず、海の砂は量れない。そのようにわたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人を増やす。」」
 このように神は、ご自分の契約を絶対に破棄することはなさいません。このことを思うとき、私たちはどんな状況の中にあっても勇気と希望をいただくことができます。目に見えることでがっかりしないでください。目に見えることで自分には無理だとあきらめないでください。主の偉大さを祈りの中で認め、果敢に前進していこうではありませんか。

Ⅲ.神の契約はまだ続いている(23-26)

最後に、23~26節をご覧ください。「23 エレミヤに次のような【主】のことばがあった。24 「あなたはこの民が、『【主】は自分で選んだ二つの部族を退けた』と話しているのを知らないのか。彼らはわたしの民を侮っている。『自分たちの目には、もはや一つの国民ではないのだ』と。」25 【主】はこう言われる。「もしも、わたしが昼と夜と契約を結ばず、天と地の諸法則をわたしが定めなかったのであれば、26 わたしは、ヤコブの子孫とわたしのしもべダビデの子孫を退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ぶということはない。しかし、わたしは彼らを回復させ、彼らをあわれむ。」」

ここに、主が選んだ二つの部族とありますが、これはユダとイスラエルのことです。彼らは、自分たちは見捨てられたと思っていました。それで彼らは絶望していたのです。しかしそんな彼らに神は、いや契約の民はまだ残っている、続いていると慰めるのです。夜と昼の法則、天地運行の法則が変わらない限り、彼らと結んだ契約が破棄されることはないと、力強く宣言するのです。「アブラハム、イサク、ヤコブの子孫」とは、神の民イスラエルのことですが、神は契約に基づいて、そのイスラエルの民を祖国へと帰還させてくださるのです。

このことは、異邦人クリスチャンである私たちにとってどのような意味があるのでしょうか。それは、イスラエルが神によって選ばれたのと同じように、私たちもまた選ばれた者であるということです。このことをパウロはエペソ1章4~5節でこう言っています。「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」
 私たちは生まれる前から、この世界の基の置かれる前から救われるようにと選ばれていたのです。それで私たちはそれぞれ救われる道は違えども、イエス様を信じるようになったわけです。じゃ、信じていない人たちはそのように選ばれていないのか、と言ってはなりません。聖書は、そのようには教えていないからです。聖書は、すべての人が救われて真理を知るようになることを神は望んでおられると言っています。すべての人が、イエス・キリストによって救いに招かれています。この選びは、永遠に変わることはありません。あなたは神によって救われるように選ばれているのです。私たちはここに慰めを求めたいと思います。目に見える現実がそうでなくても、たとえ明日が見えない夜でも、あなたに対する神の約束はどんなことがあっても絶対に変わることはありません。このみことばの約束をしっかり握って、その偉大な主とともに歩んでいこうではありませんか。主は私たちの救い。そして主はあなたの救いなのです。

エレミヤ33章1~13節「わたしを呼べ」

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ハレルヤ!主を賛美します。前回は、32章全体から、アナトテにある畑を買い取るようにと言われた主のことばから学びました。アナトテはエレミヤの出身地です。でもそこはバビロンによって取り囲まれており陥落寸前の状態でした。そんな畑をどうして買わなければならないのかわからなかったエレミヤは、そのことを主に祈ると主は答えてくださいました。それは、32章43節、44節にあるように、確かにエルサレムはバビロンの手に渡され、荒れ果てた地となり、人も家畜もいなくなるが、再びその地で畑が買われるようになるからです。つまり、神さまはこの荒れ果てたエルサレムを回復し、再び元通りにするからです。だれがそんなことを考えることができるでしょうか。しかし、32章17節にこうありましたね。「あなたにとって不可能なことは一つもありません。」神さまにとって不可能なことは一つもありません。神さまが言われたら、そのとおりになります。バビロンの手に渡されたエルサレムやアナトテの地にある畑は元通りになり、再び買われるようになるのです。すばらしいですね、主の約束は。

きょうの箇所はそのみことばに続く箇所です。主はエレミヤに続いてこう言われました。3節、「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。」これが、きょう主があなたに語っておられるみことばです。

Ⅰ.わたしを呼べ(1-9)

まず1~3節をご覧ください。「1 エレミヤがまだ監視の庭に閉じ込められていたとき、再びエレミヤに次のような【主】のことばがあった。2 「地を造った【主】、それを形造って堅く立てた【主】、その名が【主】である方が言われる。3 『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』」

エレミヤは、南ユダ王国最後の王ゼデキヤによって監視の庭に監禁されていました。それは、ゼデキヤがバビロンの王の手に渡されるということをエレミヤが預言をしたからです。ゼデキヤにとってエレミヤは目の上のたんこぶのような存在で、否定的なことしか言わないので、嫌になって「なぜ、あなたはこのように預言して言うのか」(32:3)と言って、ユダの王の宮殿にある監視の庭に監禁したのです。それは約1年半くらい続きました。そのエレミヤがまだ監禁されていたとき、再びエレミヤに主のことばがありました。それは次のような内容でした。2節と3節をご覧くにある内容です。「2 「地を造った【主】、それを形造って堅く立てた【主】、その名が【主】である方が言われる。3 『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』」

3節は、聖書の中でも非常に有名なみことばで、祈りのトライアングルと呼ばれている箇所です。この中で主はエレミヤに「わたしを呼べ」と言われました。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた多いなることを、あなたに告げよう。と。この「わたしを呼べ」ということばですが、英語では「Call to me」となっています。これは普通じゃありません。普通、英語で「わたしを呼べ」というのは「Call me」です。でもここではCall to meとなっています。なぜCall to me なのでしょうか?それはこの「me」が強調されているからです。ただ「わたしを呼べ」と言っているのではなく、「このわたしを呼びなさい」と言っているのです。

それは2節を見るとわかります。ここで主はこう言っておられます。「地を造った主、それを形造って堅く立てられた主、その名が主である方が言われる。」ここでは、この「わたし」がどのような方であるのかがはっきり書かれてあります。この方は地を造られ、それを堅く立てられた方です。その名は「主」です。これは「わたしは、「わたしはある」という者である。」(出エジプト3:14)という意味です。何にも依存することなく、それ自体で存在することができる方です。人間はそうじゃないでしょう。何かに依存しないと生きていくことができません。外見は強そうでも実際は本当に弱い虫けらみたいな存在です。私は先日尿管結石で入院しましたが、痛かったですよ。もう死ぬかと思いました。でも医師の話ではその石の大きさは6ミリだったそうです。たった6ミリです。そのまま落ちるか落ちないかギリギリの大きさだそうですが、私の石は落ちませんでした。相当居心地が良かったんでしょうね。担当の医師はとってもいい人で、適切に処置をしてくださったので、今ではピンピンになりました。勿論、すべては神の恵みですが、私には彼の顔が神さまのように見えましたよ。でもそんな医師でも診察にあたってはいろいろ悩むこともあると言っていました。100%はないと。人は見かけでは強そうですが実際は弱いんです。だれかに依存しないと生きていくことができません。でも主はそのような方ではありません。主は、地を造られ、それを堅く立てられた方です。この方にとって不可能なことは一つもないのです。この方は全能者なのです。この「わたしを呼べ」。そう言っているのです。そうすれば、この方はあなたに答え、あなたが知らない大いなることを、あなたに告げてくださいます。

「大いなること」とは何でしょうか。具体的には、これはエルサレムの回復のことを言っています。神は、エルサレムの住民たちがカルデア人と戦っても、必ず敗北すると告げられました。なぜなら、5節にあるように、彼らのすべての悪のゆえに、主がエルサレムから御顔を隠されたからです。しかし、神は彼らを懲らしめてそれで終わりではありません。そんな彼らを赦し、彼らを初めのように回復させ、建て直してしてくださるというのです。それが6~9節にある内容です。ご覧ください。「6 見よ。わたしはこの都に回復と癒やしを与え、彼らを癒やす。そして彼らに平安と真実を豊かに示す。7 わたしはユダとイスラエルを回復させ、以前のように彼らを建て直す。8 わたしは、彼らがわたしに犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らがわたしに犯し、わたしに背いたすべての咎を赦す。9 この都は、地のすべての国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり、栄えとなる。彼らは、わたしがこの民に与えるすべての祝福のことを聞き、わたしがこの都に与えるすべての祝福と平安のゆえに恐れ、震えることになる。』」

ユダとイスラエルを回復させ、以前のように彼らを建て直すなんてあり得ないことです。しかし、たとえ人間の目で不可能なことでも、神にとって不可能なことは一つもありません。あなたが主を呼び求めるなら、神はあなたの知らない理解を超えた大いなることを告げてくださいます。荒れ果てたエルサレムを回復させて元通りにし、建て直してくださるのです。もしあなたが神を信じ、神とともに歩み、神との交わりの中にいるなら、神はあなたが考えられないような偉大なことをしてくださるのです。でも私たちはそれを信じられないのでこういうのです。「ウッソ!」無理、無理、無理ですよ、どうやってそんなことができるんですか・・・。

このときのエレミヤもそうでした。神さまはイスラエルがバビロンに連れて行かれてから70年後に再び祖国に戻すとは聞いていましたが、いったいどのようにしてそんなことができるのかがわかりませんでした。前回のアナトテの畑を買うということもそうでしたね。どうしてそんな畑をかわなければならないのか、もう崩壊寸前になっていた畑なんて二束三文ですよ。なぜ買わなければならないのですか。さっぱりわかりませんでした。そんなエレミヤに、神さまはその理由を告げられるんですね。それが32章15節のみことばでした。「なぜなら──イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる──再びこの地で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるからだ。』」つまり、彼らはそのバビロンから解放されて祖国に戻り、再びこの地で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるからです。いったい誰がそんなことを考えることができたでしょうか。70年ですよ、そんなに長い間バビロンで奴隷として生きていた彼らが、どうやって祖国に戻ることなどできるでしょう。しかし、そんなエレミヤに神はこう言われました。「『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』それはあなたにはわからないことです。しかし、あなたが神を呼ぶなら、神はあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げてくださいます。

旧約聖書に登場するヨブもそうでした。彼も自分に降りかかる数々の災難がどうして起こるのかがわからず、そのことを神に問うわけですが、その中で彼が見出した答えがこれでした。神にはどんなことでもできるということです。「あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能でないことを、私は知りました。」(ヨブ42:2)神にはどのような計画も不可能ではありません。そのこと信じなければなりません。神に「どうしてですか」と問う前に、あなたは神を呼び求めなければならないのです。そしてその声を聞かなければなりません。そうすれば、主はあなたに答え、あなたの知らない理解を超えた大いなることを告げてくださいます。

人は目先の現象に一喜一憂しやすいものです。しかし、自分には分からないことが沢山あることを謙虚に認めて主を呼ばなければなりません。そうすれば、主は、私たちの理解を超えた大いなることを告げてくださいます。

たとえば、アブラハムが99歳になったとき、主はアブラハムと契約を結ばれました。それは彼が多くの国民の父となるということでした。でも彼にはまだ子どもがいませんでした。どうやって多くの国民の父になることができるでしょうか。そのとき神さまは具体的に彼に直系の男の子が与えられ、その名は「イサク」と言いますが、彼を通してその契約を成し遂げてくださると明かしてくれました。まさか100歳の者にどうやって子どもが与えられるでしょう。サラだって90歳になっていました。考えられません。なかなか信じられません。そんなアブラハムとサラに主はこのように言われました。「14 【主】にとって不可能なことがあるだろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子が生まれている。」【主】はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑って、『私は本当に子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言うのか。」(創世記18:14)

皆さん、主にとって不可能なことは一つもありません。たとえあなたにとって不可能なことでも、主にとっては何でもないことです。あなたにとって必要なことは、この全能者であられる主を呼ぶことなのです。

6~9節をもう一度ご覧ください。ここで主はどのようにエルサレムを回復させてくださるのかを示しておられます。6節には、主はエルサレムに回復と癒しを与え、彼らに平安と真実を豊かに示すと言われました。7節には、分断されていたユダとイスラエルを回復させるとあります。8節には、彼らが犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らの咎を赦すとあります。そして9節には、彼らはすべての国々の間で、主にとって喜びの名となり、栄となる、と言われています。

いったいどうして主はそこまでイスラエルを祝福してくださるのでしょうか。それは彼らが良い民族だからではありません。それは31章で見たように、新しい契約に基づく神の一方的な恵みによるものです。 それは御子イエスの血によって、信じるすべての者をきよめてくださるという神様の一方的な恵みの契約でした。御子イエスを信じる者は、すべての罪、咎がきよめられ、神がいつまでも共にいてくださいます。あなたがどんなにひどい罪を犯したとしても、その罪を認め、神に立ち返るなら、神はあなたを捨てることは絶対にありません。どんなに自分の汚れを落とそうとアタックを使っても無理なものを、自分の力では決して拭い落とせない罪でも、神さまはキリストの血によってそれを行なってくださったのです。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(1ヨハネ1:7)御子イエスの血は、すべての罪からあなたをきよめてくださるのです。何という恵みでしょうか。神はキリストによって彼らと新しい契約を結んでくださいました。神はキリストによってあなたとこの契約を結んでくださいました。ですから、どんなことがあってもあなたが滅びることはありません。あなたが神を呼ぶとき、神はあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた多いなることをしてくださるのです。

Ⅱ.その恵みはとこしえまで(10-11)

次に、10~11節をご覧ください。「10 【主】はこう言われる。「あなたがたが、人も家畜もいない廃墟と言うこの場所で、人も住民も家畜もいない、荒れすたれたユダの町々とエルサレムの通りで、11 楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、【主】の宮に感謝のいけにえを携えて来る人たちの声が、再び聞かれるようになる。彼らは言う。『万軍の【主】に感謝せよ。【主】はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで』と。わたしがこの地を回復させ、以前のようにするからだ──【主】は言われる。」」

人も家畜もいない廃墟となった場所で、人も住民も家畜もいない荒れすたれたユダの町が、いったいどうして楽しみと喜びの声が聞かれるようになるのでしょうか。それは、主がそうされるからです。主がこの地を回復させ、以前のようにされるのです。それは人の理解をはるかに超えた驚くべき大いなること、大いなる神の恵みでした。あれほど廃墟となった町が再び建て直されるなんて考えられないことです。いったいどうしてそのようなことが起こるのでしょうか。主がしてくださるからです。主は約束を反故にされる方ではありません。主が語られたことは必ず実現してくださるのです。主はそのように約束してくださいました。「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはわたしの民イスラエルとユダを回復させる──【主】は言われる──。わたしは彼らを、その父祖に与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」(エレミヤ30:3) それはここだけではありません。エレミヤはバビロンに連れて行かれたユダの民が祖国に帰り、そこを元通りにすると何度も何度も語られました。主はそのことばのとおりにされたのです。

アメリカに車を欲しがる息子がいました。彼は父親に大学の入学祝いに車を買ってくれとせがみました。父親は「車もいいが、みことばを読み、祈る生活をしなさい。」と言いました。そして、みことばと祈りには、車だけでなく人生に必要なすべてが込められていると言って、車の代わりに聖書をプレゼントしました。息子は大学の寮に入って学校が始まってからも父親からもらった聖書に一度も目を通しませんでした。父親が自動車を買ってくれなかったことに対する不満でいっぱいだったからです。
 休みで家に戻って来た息子は、まだ父親に腹を立てていました。そのことを察した父親は息子に、なぜ聖書を読まないのかと尋ねました。息子は「車を買ってくれないのに、どうしてお父さんの言うことを聞かなければならないんですか」と反発しました。父親は「息子よ、ピリピ4章19節を開いてみなさい。」と言いました。「そこには車があるはずだ」と。そこで息子は大学の寮に帰ると、聖書を手に取り、ピリピ4:19を開きました。驚いたことに、そのページに車が買える小切手がはさまれてあったのです。そして、その箇所には線まで引いてあったのです。「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)

廃墟となった町が、再び喜び踊る人々で満ち溢れるようになる。なんという劇的な変化でしょうか。主はご自身のあわれみと、ご自身のお約束のゆえに、必ずそれを実現してくださいます。私たちの嘆きを賛美に、悲しみを楽しみと喜びに変えてくださるのです。それは人にはできません。でも神にはどんなことでもできるのです。たとえあなたが今深い泥沼に沈んでいても、たとえ先が見えない絶望の中に置かれていても、あなたが主を呼ぶなら、主はあなたの声に答え、あなたが知らない理解を超えた多いなることをあなたに告げてくださるのです。11節に、「楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、【主】の宮に感謝のいけにえを携えて来る人たちの声が、再び聞かれるようになる。彼らは言う。『万軍の【主】に感謝せよ。【主】はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで』と。わたしがこの地を回復させ、以前のようにするからだ──【主】は言われる。」主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」とありますが、私たちもこの万軍の主に感謝し、主の御名を呼び求めようではありませんか。そうすれば、主は必ずあなたに大いなることをしてくだいます。

Ⅲ.満ち満ちた神の恵み(12-13)

最後に、12~13節をご覧ください。「12 万軍の【主】はこう言われる。「人も家畜もいない廃墟であるこの場所と、そのすべての町に、群れを伏させる羊飼いたちの住まいが再びできる。13 山地の町々でも、シェフェラの町々、ネゲブの町々、ベニヤミンの地、エルサレムの近郊、ユダの町々でも、群れが再び、数を数える者の手の下を通り過ぎる──【主】は言われる。」」

人も家畜もいない廃墟であるこの場所と、そのすべての町に、群れを伏させる羊飼いたちの住まいが再びできるようになります。回復の範囲が、約束の地の全行に及ぶようになります。44節にシェフェラの町々でも、ネゲブの町々、ベニヤミンの地、エルサレムの近郊、ユダの町々でも、とあるのは、イスラエルのどこにおいてもという意味です。イスラエルの全土で群れを伏せる羊飼いたちの住まいが再びできるのです。そればかりか、群れが再び、数を数える者の手の下を通りすぎようになります。これは牧者が羊の数を数えようとしても、あまりにも多すぎて数を数える者の下をするっと通り抜けてしまうほどです。それほど羊を飼うことが日常化し、家畜が豊かにあふれることを表しています。それは神がなされる回復は完全であるということです。あなたの人生がどんなに荒廃していても、物質的に不足を感じることがあっても、ダビデが「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが、私を追ってくるでしょう。」(詩篇23:6)と告白したように、神はあなたを豊かに満たしてくださるのです。だから主を呼んでください。そうすれば、主はあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることをあなたに告げてくださいます。

ある姉妹が、イエス様を信じてからもなかなか古い習慣から抜け出せないでいました。その古い習慣とは、何かあるとすぐに人に頼り、聞いてもらい、答えを得る事でした。それで彼女は聖書の学びを通して、まず主に祈る事にしました。それまでは何か問題が起こると、その頃はまだ携帯が無かったので、次々と友人たちに電話をしていましたが、ところがある日、次々と電話しても、何と全員が出かけていて留守録だったのです。 
 その時彼女はハッとして、このみことばを思い出しました。まず人に頼るのでなく、主に頼り、主に祈る事だと。そしてその問題をまず主の下に持って行きました。するとその祈りが次々と答えられるのを体験しました。

しかし、ある時経済的苦境に陥り、突然の出費があり、給料前ということもあり、手元にお金が全く無くなってしまったときがありました。赤ん坊のミルクとオムツが無い。どうしようもなく、未信者の夫が、友人に借りて来ると言いました。給料日にすぐに返せるからと。でも彼女は平安がありませんでした。まず主に祈り、主に頼りたかったのです。そして心の中でその事を祈りました。すると夫が、行く前に、近くに住む一人暮らしの義父をのぞいて来ると言いました。主に感謝して、夫が出た時間、必要を求めて、心を注ぎ出して祈りました。長く祈っていて、ふと背後に人の気配を感じました。すると何と夫が、両手にミルク缶とオムツの袋を持ち、立っているではありませんか。どうしたのと驚いて聞いてみると、行くと丁度、職場の上の人が義父の見舞いに来てくれ、見舞金を置いて行ったというのです。とりあえず必要な物を買って来たと。即、祈りに答えられ心から感謝しました。そして主のご愛に触れて、心は喜びで満ちたのです。

どうしてこういうことが起こってしまったのかと思うとき、あなたは自分で悩み、落ち込み、自分で解決することを止めて主を呼ぶことです。 「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。」主があなたのために立てている計画はわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたに将来と希望を与えるためのものだと信じて、主を呼び求めましょう。主に祈り、主に信頼して歩みましょう。主があなたも知らない、あなたの理解をはるかに超えた大いなることをあなたに告げてくださるからです。

エズラ記4章

 エズラ記4章から学びます。

 Ⅰ.神殿再建工事(1-5)

まず、1~5節をご覧ください。「1 ユダとベニヤミンの敵たちは、捕囚から帰って来た人々がイスラエルの神、【主】のために宮を建てていると聞いて、2 ゼルバベルと一族のかしらたちのところに近づいて来て言った。「私たちも、あなたがたと一緒に建てたい。私たちは、あなたがたと同様、あなたがたの神を求めたいのです。私たちをここに連れて来たアッシリアの王エサル・ハドンの時以来、私たちはあなたがたの神に、いけにえを献げてきました。」3 しかし、ゼルバベルとヨシュアと、そのほかのイスラエルの一族のかしらたちは彼らに言った。「私たちの神のために宮を建てることは、あなたがたにではなく、私たちに属する事柄です。ペルシアの王キュロス王が私たちに命じたとおり、私たちだけで、イスラエルの神、【主】のために宮を建てるつもりです。」4 すると、その地の民はユダの民の気力を失わせようとし、脅して建てさせないようにした。5 さらに、顧問を買収して彼らに反対させ、この計画をつぶそうとした。このことはペルシアの王キュロスの時代から、ペルシアの王ダレイオスの治世の時まで続いた。」

エルサレムに帰還したユダヤ人は、第七の月に自分たちの住んでいた町々から一斉にエルサレムに集まり、神殿の再建に取りかかりました。建設する者たち主の神殿の礎を据えたとき、イスラエルの王ダビデの規定によって主を賛美するために、祭司たちは祭服を来て、ラッパを持ち、アサフの子らのレビ人たちはシンバルを持って出てきました。そして彼らは主を賛美し、感謝しながら、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに。」と賛美したのです。

一方そうでない人たちもいました。それは以前の宮を見たことのある多くの老人たちで、彼らは大声を上げて泣きました。それがあまりにもみすぼらしかったからです。このようにして、神殿の礎が据えられたとき、そうした喜びの賛美と嘆きの賛美が区別できないような声で遠くまで響き渡ったのです。

そうした中で神殿再建工事が進められていきますが、早速、それを妨害する人たちが現れます。1節と2節を見るとここに、「1 ユダとベニヤミンの敵たちは、捕囚から帰って来た人々がイスラエルの神、【主】のために宮を建てていると聞いて、2 ゼルバベルと一族のかしらたちのところに近づいて来て言った。「私たちも、あなたがたと一緒に建てたい。私たちは、あなたがたと同様、あなたがたの神を求めたいのです。私たちをここに連れて来たアッシリアの王エサル・ハドンの時以来、私たちはあなたがたの神に、いけにえを献げてきました。」」とあります。

ユダとベニヤミンの敵たちとは、北王国イスラエルがアッシリアによって滅ぼされた(B.C.722)後、パレスチナに住み着いた人たちのことです。アッシリア帝国は、征服した民族の一部を連れ去り、そこに異民族を連れて来て雑婚を図りました(Ⅱ列王記17:23~24)。これは、その地での反乱を防ぐための政治的な戦略でしたが、それゆえ、ユダヤ人とサマリヤ人の間にはものすごい軋轢が生じて、民族的嫌悪感を互いに抱いていたのです。新約聖書に出てくるサマリアの女の話は、こうした実情が背景にあります。その混血民の子孫たちは、帰還民たちがイスラエルの神、主のために神殿を建てていると聞くと、ゼルバベルと一族のかしらたちのところに近づいて来て、自分たちも彼らと一緒に建てたいと願い出ました。なぜなら、彼らはユダの民同様、イスラエルの民を礼拝してきたからです。事実16節には、アッシリアの王エサル・ハドンの時以来、彼らはずっとイスラエルの神、主に、いけにえをささげてきた、とあります。

しかし、総督ゼルバベルをはじめ、大祭司ヨシュア、そしてその他のイスラエルの指導者たちは、彼らの要請をきっぱりと断りました。なぜでしょうか。それは神殿再建は彼らに属することではなく、イスラエルに属することだったからです。3節にこうあります。「しかし、ゼルバベルとヨシュアと、そのほかのイスラエルの一族のかしらたちは彼らに言った。「私たちの神のために宮を建てることは、あなたがたにではなく、私たちに属する事柄です。ペルシアの王キュロス王が私たちに命じたとおり、私たちだけで、イスラエルの神、【主】のために宮を建てるつもりです。」

しかも、彼らはイスラエルの神、主にいけにえをささげて来たと言っていますが、彼らの信仰は混合信仰であり、主以外の神々も礼拝の対象になっていました。しかし、神殿の再建は単に箱モノを作るという話ではなく、天地創造のまことの神を信じる者の信仰共同体を再建する働きですから、どれほど宗教的な寛容さを示したにしても、その同じ信仰に立つのでなければ一緒に仕事ができないのは当然です。信仰は価値観を共有し、共に生きることを求めるからです。それでゼルバベルはじめ、大祭司ヨシュアとイスラエルの指導者たちは、彼らの要請を断ったのです。

すると、彼らはどのような行動に出たでしょうか。4~5節をご覧ください。「4 すると、その地の民はユダの民の気力を失わせようとし、脅して建てさせないようにした。4:5 さらに、顧問を買収して彼らに反対させ、この計画をつぶそうとした。このことはペルシアの王キュロスの時代から、ペルシアの王ダレイオスの治世の時まで続いた。」

すると彼らは工事を妨害し始めました。脅し、暴力、買収など、あらゆる手を尽くして再建工事を中断させようとしたのです。そしてそれは成功し、キュロス王からダレイオス王の時代まで実に16年もの間、工事は中断してしまうことになるのです。実に長い歳月です。彼らは帰還民を志願して帰って来たものの、不毛な16年間が過ぎすわけですから。

4章には、キュロス王からダレイオス王の時代(4:1-5,24)の出来事、クセルクセス王の時代の出来事(4:6)、こと、さらにアルタクセルクセス王の時代の出来事(4:7~23)と、年代的に幅のある出来事を記録しています。

ともあれ、神のみこころであったエルサレム神殿再建は、さまざまな妨害に直面し簡単には進みませんでした。つまり、神のみこころとされることあっても、このように潰されることがあるということです。しかし、神のみこころは、時が熟すれば必ず実現することになります。むしろ、神のみこころは、こうした大なり小なりの困難を乗り越えて果たされていくのです。

私が福島で会堂建設に携わっていた時もそうでした。1992年に、神はレホボテ(広々とした地)を与えてくださると約束してくださったのに、実際に会堂が完成したのはそれから6年後の1998年でした。そこには市街化調整区域の許可や宗教法人、資金などさまざまな問題がありましたが、神はこうした問題の一つ一つを乗り越えて、実に6年の歳月をかけて完成に至らせてくださったのです。神の働きが始まると、そこに必ずと言ってよいくらい逆風が吹き始めますが、そのことを恐れてはなりません。神が私たちとともにおよられるなら、最後には神の御心だけがなるからです。

Ⅱ.クセルクセス王への告訴状(6-23)

次に、6~23節をご覧ください。「6 またクセルクセスの治世には、その治世の初めに、彼らはユダとエルサレムの住民を非難する告訴状を書いた。7 また、アルタクセルクセスの時代に、ビシュラム、ミテレダテ、タベエルとほかの同僚たちは、ペルシアの王アルタクセルクセスに書き送った。その手紙の文字はアラム語で書かれ、アラム語で述べられていた。8 参事官レフム、書記官シムシャイはエルサレムに関して、次のような書状をアルタクセルクセス王に書き送った。9 これは、参事官レフム、書記官シムシャイ、ほかの同僚たち、裁判官、使節、役人、ペルシア人、ウルク人、バビロン人、スサの人々すなわちエラム人、10 その他、偉大にして高貴なアッシュルバニパルが、サマリアの町々とユーフラテス川西方のほかの地に引いて行って住まわせた諸民族からであった。11 彼らが送ったその書状の写しは次のとおりである。「ユーフラテス川西方の者、あなた様のしもべどもから、アルタクセルクセス王へ。さて、12 王にお知らせいたします。あなた様のところから、私どものところに上って来たユダヤ人たちはエルサレムに着き、あの反抗的で悪しき町を再建しております。その城壁を修復し、その礎もすでに据えられています。13 今、王にお知らせいたします。もしこの町が再建され、城壁が修復されたら、彼らは貢ぎ物、関税、税金を納めなくなり、王家に間違いなく損害を与えることになるでしょう。14 さて、私どもは王宮の塩を賜る者ですから、王に対する侮辱を見るわけにはいきません。それゆえ、私どもは人を遣わして、王にお知らせするのです。15 あなた様の先祖の記録文書を調べていただきたいのです。そうすれば、この町が反抗的な町で、王たちと諸州に損害を与えてきたこと、また昔からこの町で反乱が繰り返されたことを、その記録文書の中に見て、理解していただけるでしょう。この町が滅ぼされたのも、そのためです。16 私たちは王にお知らせします。もしこの町が再建され、城壁が修復されたら、あなたはこのためにユーフラテス川西方の権益を失ってしまわれるでしょう。」17 王は参事官レフム、書記官シムシャイ、およびサマリアとユーフラテス川西方のほかの地に住んでいる彼らの同僚たちに返事を送った。「平安があるように。さて、18 あなたがたが私たちのところに送ってよこしたあの手紙は、私の前で説明されて読まれた。19 私は命令を下し、調べさせたところ、その町は昔から王たちに対して謀反を企て、その町で反逆と反乱が行われたことが分かった。20 またエルサレムにはかつて勢力のある王たちがいて、ユーフラテス川西方の地を全部支配し、貢ぎ物、関税、税金が彼らに納められていたことも分かった。21 今あなたがたは命令を下して、その者たちの工事をやめさせ、私から再び命令が下るまで、この町が再建されないようにせよ。22 あなたがたはよく気をつけ、このことを怠ってはならない。損害が増して王の不利益となるといけないから。」23 さて、アルタクセルクセス王の手紙の写しがレフムと、書記官シムシャイと、その同僚たちの前で読まれると、彼らは急いでエルサレムのユダヤ人のところに行き、実力をもって彼らの工事をやめさせた。」

こうした彼らの反対運動はさらに続きます。6節には、ペルシャの王クセルクセス王の治世の初めに、彼らはユダとエルサレムの住民を避難する告訴状を送ったとあります。このクセルクセス王とはエステル記に登場するアハシュエロス王のことです。彼らはわざわざクセルクセス王に告訴状を書いてまで工事を中止させようとしたのです。ものすごい執念ですね。

彼らは12~16節にあるように、もしエルサレムの町が再建され、城壁が修復されたら、ユダとエルサレムの住民は貢ぎ物、関税、税金を納めなくなり、王家に間違いなく損害を与えることになるだろう(4:13)というものでした。つまり、ユダヤ人たちは町の再建と城壁の修復に力を注いでいるが、それは反逆行為だと訴えたのです。アルタクセルクセス王はその手紙を読むと、その手紙の内容を受け入れ、工事の中止を命令しました。その手紙を受け取ったサマリヤ人は、大急ぎでエルサレムに行き、武力をもって工事を中止させました。

神の働きに真剣に取り組もうとすると、時としてこうした事態に陥ることがあります。しかし、神のみこころは時が熟すれば、必ず実現することになります。そればかりではありません。試練の中を通過する聖徒たちには、神からの助けが与えられるということを覚えなければなりません。5章に登場する預言者ハガイとゼカリヤがそれです。預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの、ふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に、彼らとともにおられるイスラエルの神の名によって預言しました。そのような妨害にあっても忘れてはならないことは、妨害を見て恐れおののくのではなく、どんな妨げがあっても神を信頼して前進することです。もうにっちもさっちもいかない状況の中で神は、こうした二人の預言者を用いて神のことばを与え、励ましていったのです。

Ⅲ.神の時(4:23-24)

いったい神殿再建という主の御業はどうなってしまったでしょうか。23~24節をご覧ください。「23 さて、アルタクセルクセス王の手紙の写しがレフムと、書記官シムシャイと、その同僚たちの前で読まれると、彼らは急いでエルサレムのユダヤ人のところに行き、実力をもって彼らの工事をやめさせた。24 こうして、エルサレムにある神の宮の工事は中止され、ペルシアの王ダレイオスの治世の第二年まで中止されたままになった。」

アルタクセルクセス王の手紙が読まれると、工事は中止に追い込まれました。工事の中止はダリヨスの治世第二年までとありますから、クロスが神殿再建の布告を出してから実に16年後のことです。折角、偉大な神のご計画によってユダの民がバビロンから解放されエルサレムに帰還したというだけでなく、預言にあるとおりエルサレムが回復するというみことばが成就しようとしていたのに、それが頓挫しようとしていたのです。

私たちにはユダヤの指導者たちのように、自分ではどうすることもできないような困難に直面することがありますが、神の約束に立って、神の時が来るのを待ち望まなければなりません。神は私たちが置かれている状況をよくご存じの上で、ご自身の御業を成そうとしておられるのです。時代も役者も変わっていきます。しかし、神がご計画されたことは、復活の主のように息を吹き返し社会を動かしていくのです。

エレミヤ32章1~44節「アナトテの畑を買え」

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きょうは、少し長い箇所となりますが、エレミヤ書32章全体から学びたいと思います。タイトルは「アナトテの畑を買え」というタイトルでお話します。「アナトテ」とはエレミヤの出身地で、ベニヤミン領内にあった村です。主はあるときエレミヤに、このアナトテにある畑を買うようにと告げられました。当時アナトテはバビロンによって包囲され陥落寸前になっていました。そんなところを買っても二束三文です。それなのに主はどうしてアナトテにある畑を買うようにと告げられたのでしょうか。

Ⅰ.アナトテにある畑を買え(1-9)

まず1~9節をご覧ください。5節までをお読みします。「1 ユダの王ゼデキヤの第十年、ネブカドネツァルの第十八年に、【主】からエレミヤにあったことば。2 そのとき、バビロンの王の軍勢がエルサレムを包囲中であって、預言者エレミヤは、ユダの王の宮殿にある監視の庭に監禁されていた。3 ユダの王ゼデキヤは、エレミヤを監禁するとき、次のように尋ねたのだった。「なぜ、あなたはこのように預言して言うのか。『【主】はこう言われる。見よ。わたしはこの都をバビロンの王の手に渡す。そして彼はこれを攻め取る。4 ユダの王ゼデキヤは、カルデア人の手から逃れることはできない。ゼデキヤは必ずバビロンの王の手に渡され、口と口で彼と語り、目と目で彼を見る。5 彼はゼデキヤをバビロンへ連れて行く。そしてゼデキヤは、わたしが彼を顧みるときまでそこにいる──【主】のことば──。あなたがたはカルデア人と戦っても、勝つことはできない。』」」

ユダの王ゼデキヤの第十年とは、B.C.587年のことです。ゼデキヤとは、南ユダ王国最後の王です。そのゼデキヤの第十年に、主からエレミヤに次のようなことばがありました。それは具体的には3~5節にありますが、主はエルサレムをバビロンの王ネブカドネツァルの手に渡すということ、そしてこれを攻め取るようになるということです。ゼデキヤはカルデア人の手から逃れることはできません。その結果、主はこの都エルサレムをバビロンの王の手に渡すことになるのです。これはゼデキヤにとって受け入れ難いことばでした。というのも、この出来事のちょうど1年くらい前に、ゼデキヤはエジプトの援助を受けて一時的にバビロン軍に反撃していたからです。もしかするとバビロンに勝つかもしれないという気運が高まる中、彼らに勝つことはできないとか、エルサレムはバビロンの王の手に渡されることになるとか言うのを聞いて受け入れられなかったのでしょう。それでゼデキヤはカンカンになって怒り、エレミヤを宮殿の監視の庭に監禁してしまいました。どんなに辛かったことでしょう。その期間約1年半です。何も悪いことなどしていないのに、むしろユダの将来を考えを思って語ったことなのに、監禁されるなんてあんまりです。しかしそれは南ユダにとっては希望につながるメッセージでした。

6~15節をご覧ください。「6 エレミヤは言った。「私に、このような【主】のことばがあった。7 『見よ。あなたのおじシャルムの子ハナムエルが、あなたのところに来て、「アナトテにある畑を買ってくれ。あなたには買い戻す権利があるのだから」と言う。』8 すると、【主】のことばのとおり、おじの子ハナムエルが私のところ、監視の庭に来て、私に言った。『どうか、ベニヤミンの地のアナトテにある私の畑を買ってください。あなたには所有権もあり、買い戻す権利もありますから、あなたが買い取ってください。』私は、これが【主】のことばであると知った。9 そこで私は、おじの子ハナムエルから、アナトテにある畑を買い取り、彼に銀十七シェケルを払った。10 私は証書に署名して封印し、証人を立てて、秤で銀を量った。11 そして、命令と規則にしたがって、封印された購入証書と封印のない証書を取り、12 おじの子ハナムエルと、購入証書に署名した証人たちと、監視の庭に座しているすべてのユダの人々の前で、購入証書をマフセヤの子ネリヤの子バルクに渡し、13 彼らの前でバルクに命じた。14 『イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。これらの証書、すなわち封印されたこの購入証書と、封印のない証書を取って土の器の中に入れ、これを長い間、保存せよ。15 なぜなら──イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる──再びこの地で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるからだ。』

ちょうどその時、主からエレミヤに主のことばがありました。それは、おじのシャルムの子のハナムエルが

彼のところにやって来て、「アナトテにある畑を買ってほしい」と願い出て来るので、それを受け入れてほしいということでした。すると主のことばのとおり、ハナムエルがやって来て、アナトテの畑を買ってほしいと言いました。でもそれはナンセンスなこと、全く考えられないことでした。アナトテはエルサレムの郊外にあるベニヤミン領内にあるエレミヤの出身地でしたが、バビロンからの攻撃を受け崩壊寸前になっていたからです。そんな二束三文の土地を買う人などどこにいるでしょう。いないでしょう。全く無意味なことですから。しかし、エレミヤは主のことばに従って、その畑を買うことにしました。

9節を見ると、その値は銀17シェケルであったことがわかります。高かったのか、安かったのかはわかりません。ただバビロンに囲まれていたので、土地は暴落していたものと思います。でもエレミヤがアナトテの畑を買ったのは土地の値段が安かったからではありません。このことを通してユダの民に神からの希望のメッセージを告げようと思ったからです。確かにイスラエルはバビロンによって滅ぼされてしまうことになります。でもそれで終わりではありません。バビロンによって滅ぼされますが、主はそこから彼らを解放し、再びイスラエルの地に戻って来るようになります。エルサレムはバビロンによって滅ぼされますが、必ず回復する時がやってくるのです。それは目に見える現実とは正反対のように見えるかもしれませんが、たとえそれが非現実的なようなことでも、神にとって不可能なことは一つもありません。神は約束されことを必ず実現してくださいます。主は必ずイスラエルをご自身の土地に戻してくださいます。エレミヤがアナトテの畑を買うようにと言われたのは、それが必ず実現することを彼らに示すための一つのデモンストレーションだったのです。

今、この時代に求められているのはこういう目を持った人たちではないでしょうか。現実を見ればそこには何の希望もないかのようにしか見えるかもしれません。しかし、信仰の目をもって見るなら、そこには希望が溢れています。イエス様が死んだラザロをよみがえらせたとき、信じるなら神の栄光を見るようになると言われましたが、まさに信じるなら神の栄光を見るようになるのです。

そこで彼は、主のことばのとおり、おじのハナムエルが彼のところにやって来たとき、助手であり書記であったバルクに命じて証拠の書類を2つ作らせました。一つには封印をしたもので、もう一つには封印をしていませんでした。これは当時の習慣で、封印をした方は正式な証書で、封印をしていない方は契約の内容を確認したり、書き写したりできるようにするためでした。エレミヤがこの時購入したアナトテの畑の価格は、銀17シェケルでした。イエス様は銀30シェケルで売られているので、土地はかなり大暴落していたと思われます。しかしたとえそれがいくらであったとしても、重要なのは皆にとって価値がないと思われたそのアナトテの畑のために、皆の前で正式に代価を払って土地を買い取ったということです。どうしてそんなことをしたのでしょうか。14~15節をご覧ください。『イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。これらの証書、すなわち封印されたこの購入証書と、封印のない証書を取って土の器の中に入れ、これを長い間、保存せよ。』15 なぜなら──イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる──再びこの地で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるからだ。』

主はこれを土の器の中に入れ、長い間、保存せよと言われました。なぜでしょうか。なぜなら、今、ここで取り交わした契約は、いつか必ずそのようになるからです。つまり、再びこの地で、家や、畑やぶどう畑が買われるようになるということです。彼らはその証人であったわけです。つまり、これは敵に奪われたこのアナトテの地が、再びイスラエルに戻ってくるという神からの回復のメッセージだったのです。

時として人はこんなことをしていったいどんな意味があると、全く無意味なことではないかと思うことがあります。エレミヤが取った行動は、まさにそのようなことでした。しかし、実際には、エレミヤが取った行動こそ実際的で現実的なものであり、将来と希望を与えるものでした。というのは、彼がとった行動こそ、神が願っておられたことだからです。人は皆誰かの役に立ちたいと願っています。だからこそ一生懸命に努力して資格試験を取ったり、親であれば子供にいろいろな習い事をさせたりするわけですが、それは全く本当に人の役に立つかというと、そうではありません。というのは、というのは、それは助けを必要としていている人のためにというよりも、自分がやりたいこと、自分が単にそう思っているだけのことにすぎないからです。でも本当に人の役に立ちたいと願うなら、自分の思いや考えを超えた神の考えを聞かなければなりません。

このエレミヤの生き方を見ると、それは確かに価値がないかのように見えたかもしれませんが、実はそれこそが神がエレミヤに、いや私たちに求めている生き方だったのではないでしょうか。つまり、この世の現実に流されないいで、神のみこころは何なのか、何が良いことで神に喜ばれ、完全であるのかをわきまえ知るために心を一新するということです。

これが「信仰」ということだと思うんです。15節には、「なぜなら、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。再びこの地で、家や畑や、ぶどう畑が買われるようになるからだ。」とあります。」よく信仰というと心の問題だと考えがちですが、実はそうじゃないんですね。信仰とは家が建つことであったり、実りが与えられることであったり、社会が安定すること、そういうことと深くつながっているのです。そうしたことはひとりひとりの考え方から生まれて来るからです。ですから、私たちがどのような考え方や価値観を持っているのかということは、非常に重要なことなのです。それが家とか、畑とか、ぶどう畑といったことに現れてくるからです。エレミヤが行ったことは、まさにこうした神の祝福が、神の回復が、再びもたらされることになるという神の現実を伝えることだったのです。

それにしても、今エルサレムの町はバビロンに包囲されていて、まさに滅ぼされようとしていました。そういう時に彼は神に示されてアナトテの畑を買ったのです。なかなかできることではありません。現実的にはもうエルサレムは滅びかけていたからです。そういう現実の中でも彼は土地を買い戻し、回復を語りました。神の現実に生きるとはこういうことなのではないでしょうか。ただ頭だけで考えるということではなく、神の約束のことばを信じてそれにかけるというか、そこに生きることなのです。

Ⅱ.エレミヤの祈り(16-25)

次に、16~25節をご覧ください。「16 私は、購入証書をネリヤの子バルクに渡した後、【主】に祈った。17 『ああ、【神】、主よ、ご覧ください。あなたは大いなる力と、伸ばされた御腕をもって天と地を造られました。あなたにとって不可能なことは一つもありません。18 あなたは、恵みを千代にまで施し、父たちの咎をその後の子らの懐に報いる方、大いなる力強い神、その名は万軍の【主】。19 そのご計画は大きく、みわざには力があります。御目は人の子らのすべての行いに開いていて、それぞれにその生き方にしたがい、行いの結ぶ実にしたがって報いをされます。20 あなたはエジプトの地で、また今日までイスラエルと人々の間で、しるしと不思議を行い、ご自分の名を今日のようにされました。21 あなたはまた、しるしと不思議と、力強い御手と伸ばされた御腕と、大いなる恐れをもって、御民イスラエルをエジプトの地から導き出し、22 あなたが彼らの父祖たちに与えると誓ったこの地、乳と蜜の流れる地を彼らに与えられました。23 彼らはそこに行って、それを所有しましたが、あなたの声に聞き従わず、あなたの律法に歩まず、あなたが彼らにせよと命じたことを何一つ行わなかったので、あなたは彼らを、このすべてのわざわいにあわせられました。24 ご覧ください。この都を攻め取ろうとして、塁が築かれました。この都は、剣と飢饉と疫病のために、攻めているカルデア人の手に渡されようとしています。あなたのお告げになったことは成就しました。ご覧のとおりです。25 【神】、主よ。この都がカルデア人の手に渡されようとしているのに、あなたは私に、金を払ってあの畑を買い、証人を立てよ、と言われます。』」

さて、土地の契約を済ませたエレミヤは何をしましたか。16節と17節をご覧ください。彼は祈りました。まず神の偉大さをほめたたえました。彼はここで、「『ああ、【神】、主よ、ご覧ください。あなたは大いなる力と、伸ばされた御腕をもって天と地を造られました。あなたにとって不可能なことは一つもありません。」と祈っています。エレミヤは主はどのようなお方なのかを確認しています。すなわち、主は大いなる力と延ばされた御腕をもって天地を造られた創造主であられる方であるということです。この方にとって不可能なことは一つもありません。たとえ人間的に見て、イスラエルがバビロンから帰って来るということが全く不可能なことのようでも、神にとってできないことは一つもありません。

第二に、彼は神の偉大さを象徴するものとして、出エジプトを取り上げています。20節をご覧ください。「あなたはエジプトの地で、また今日までイスラエルと人々の間で、しるしと不思議を行い、ご自分の名を今日のようにされました。」主はどのようにイスラエルをエジプトから導き出されたのでしょうか。主はエジプトの地で、しるしと不思議と、力強い御手と伸ばされた御腕と、大いなる恐れをもって、御民イスラエルをエジプトの地から導き出されました。

だから何なんですか。だから、主にとって不可能なことは一つもありません、ということです。17節にあるとおりです。つまり、エレミヤはこの祈りの冒頭で、神様の二つの大いなる奇跡、すなわち、天地創造と出エジプトの奇跡を賛美することによって、神にとって不可能なことは一つもないと告白したのです。

皆さん、神にとって不可能なことは一つもありません。神はこの天地を創造された方、イスラエルをエジプトから救い出された方です。この方にとっておできにならないことは一つもないのです。新共同訳では、「あなたの御力が及ばないことは一つもありません」(17)と訳しています。この天地を創造され、あのエジプトからイスラエルを救い出された主の力が及ばないことは一つもないのです。すばらしいですね。私たちも心を合わせて主を賛美しましょう。「あなたの御力が及ばないことは一つもありません。」神によって不可能なこと、神にとってできないことは何もないと。そのことを、神様が創造された全世界と、エジプトから救われたイスラエルの救いの御業を通して、エレミヤは賛美したのです。

しかし彼は、そうした一方的な神の救いの御業を賛美しながら、エレミヤはもう一つの現実に直面するのです。それは、そうした神の救いと恵みとは裏腹に、神に背き続けるイスラエルの姿です。25節をご覧ください。「【神】、主よ。この都がカルデア人の手に渡されようとしているのに、あなたは私に、金を払ってあの畑を買い、証人を立てよ、と言われます。』」」

エレミヤは、神には不可能なことは一つもないということを信じていました。でも、神に背き続けるイスラエルのために、証人を立ててまでアナトテの畑を買わなければならないのかとい疑問です。当然と言えば当然でしょう。元はと言えばイスラエルの問題なんですから。彼らは滅ぼされて当然なのに、なぜ金を払ってあの畑を買い、証人を立てよと言われるのか、彼にはわかりませんでした。

その答えは次の26節からのところで説明されますが、エレミヤのすばらしかったのは、これを最初ではなく最後に申し上げた点です。私たちはとかく何か疑問があると最初にぶつけたがるものです。そして相手がどのような方かを無視して一方的に語りかけて終わってしまいますが、エレミヤはそうではありませんでした。主がどれほど偉大なお方であるのかを認めることから始まりました。つまり、礼拝することから始まりました。これは非常に大切なポイントです。何か問題が起こったらその問題について話す前に、神がどのようなお方なのかを確認して祈ることから始めなければなりません。そうすれば、問題が小さくなるでしょう。主がどのようなお方なのかを知ることが、すべての問題解決の鍵だからです。

Ⅲ.神のあわれみ(26-43)

最後に、このエレミヤの疑問に対する主の答えを見て終わりたいと思います。26~28節をご覧ください。「26 すると次のような【主】のことばがエレミヤにあった。27 「見よ。わたしはすべての肉なる者の神、【主】である。わたしにとって不可能なことが一つでもあろうか。28 それゆえ──【主】はこう言われる──見よ。わたしはこの都を、カルデア人の手と、バビロンの王ネブカドネツァルの手に渡す。彼はこれを攻め取る。」

エルサレムがカルデア人の手に渡されようとしているのに、どうして主は自分に、あのアナトテの畑を買うようにと言われるのか。なかなか納得できないでいたエレミヤに主はその理由を語られました。それが26節から終わりまでのことばです。

27節で主は、「見よ。わたしはすべての肉なる者の神、主である。私にとって不可能なことが一つでもあろうか。」と言われました。どういうことでしょうか。この時エレミヤは二つの現実と戦っていました。一つは、主の御声に聞き従わないイスラエルという現実であり、もう一つは、それにもかかわらず、神はそんなイスラエルをあわれんでおられるという現実です。ここでは、「神にとって不可能なことが一つでもあろうか」とあります。この神の現実を見てエレミヤは、神には何でもできるんだという圧倒的な救いの恵みに触れるのです。これが神の心です。神に従わないイスラエル、そのためには滅ぼされても致し方がないというさばきのはざまにありながらも、そういう現実の破れを前にして彼は祈ったのです。これが神の心なんです。神はこの町がバビロンに渡されようとしているのに、「銀を払ってあの畑を買い、証人を立てよ。」と言われました。なぜそこまでしなければならなかったのでしょうか。それは、神はイスラエルを愛しておられるからです。主は遠くからエレミヤに言われました。「永遠の愛をもってわたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くしつつけた。」(31:3)主はイスラエルを愛したのです。それはどんなことがあっても切れるものではありません。主は永遠の愛をもって彼らを愛されたのです。同じように主は、永遠の愛をもってあなたを愛されました。ご自身のひとり子イエス・キリストを通してあなたを愛されたのです。神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われることを願っておられます。すべての人がこの神の恵みとあわれみによって神に立ち返ることを願っておられるのです。つまり、神はあなたをどこまでもあきらめていないということです。主はどんなことがあってもイスラエルを救われるのです。

であれば、私たちもあきらめるべきではありません。どんなに神のさばきが近づいても、神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われることを願っておられるのですから、やがて神がイスラエルを回復してくださると信じてアナトテの畑を買って用意しておかなければないのです。それはこの世から見たら非現実であるかのように見えるかもしれません。けれども、神の現実と私たちの現実は違います。たとえこの世にあって現実的ではないようでも、神のみこころに焦点を合わせて生きる。これが私たち信仰者に求められていることなのです。

それは36~40節を見てもわかります。神様からの最後のことばはさばきのことばではありませんでした。これは希望と回復のことば、慰めと約束のことばです。でした。「36 それゆえ今、イスラエルの神、【主】は、あなたがたが、「剣と飢饉と疫病により、バビロンの王の手に渡される」と言っているこの都について、こう言われる。37 「見よ。わたしは、かつてわたしが怒りと憤りと激怒をもって彼らを散らしたすべての国々から、彼らを集めてこの場所に帰らせ、安らかに住まわせる。38 彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。39 わたしは、彼らと彼らの後の子孫の幸せのために、わたしをいつも恐れるよう、彼らに一つの心と一つの道を与え、40 わたしが彼らから離れず、彼らを幸せにするために、彼らと永遠の契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないように、わたしへの恐れを彼らの心に与える。」

ここに、エレミヤの疑問に対する主の答えが示されます。カルデヤ人が滅ぼそうとしているこの地で、再び畑が買われるようになるのは、人々が祖国に帰還し、そこが祝福された地、高価な地となるからです。回復されるのはエルサレムだけでなく、約束の地の全度です。ベニヤミンの地が真っ先にあげられていますが、エレミヤが買ったアナトテがそこにあったからです。

アナトテの畑を買うという行為は、将来起こる祝福の先駆けとなる象徴的な行為だったのです。それは他の人からみれば非現実的なことのようでしたが、神様はそんな彼らに大切な約束を示してくださいました。私たちも、私たちのことばや行いが、将来与えられようとしている祝福の先駆けとなるような人生を歩ませていただきたいと思うのです。