エレミヤ33章1~13節「わたしを呼べ」

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ハレルヤ!主を賛美します。前回は、32章全体から、アナトテにある畑を買い取るようにと言われた主のことばから学びました。アナトテはエレミヤの出身地です。でもそこはバビロンによって取り囲まれており陥落寸前の状態でした。そんな畑をどうして買わなければならないのかわからなかったエレミヤは、そのことを主に祈ると主は答えてくださいました。それは、32章43節、44節にあるように、確かにエルサレムはバビロンの手に渡され、荒れ果てた地となり、人も家畜もいなくなるが、再びその地で畑が買われるようになるからです。つまり、神さまはこの荒れ果てたエルサレムを回復し、再び元通りにするからです。だれがそんなことを考えることができるでしょうか。しかし、32章17節にこうありましたね。「あなたにとって不可能なことは一つもありません。」神さまにとって不可能なことは一つもありません。神さまが言われたら、そのとおりになります。バビロンの手に渡されたエルサレムやアナトテの地にある畑は元通りになり、再び買われるようになるのです。すばらしいですね、主の約束は。

きょうの箇所はそのみことばに続く箇所です。主はエレミヤに続いてこう言われました。3節、「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。」これが、きょう主があなたに語っておられるみことばです。

Ⅰ.わたしを呼べ(1-9)

まず1~3節をご覧ください。「1 エレミヤがまだ監視の庭に閉じ込められていたとき、再びエレミヤに次のような【主】のことばがあった。2 「地を造った【主】、それを形造って堅く立てた【主】、その名が【主】である方が言われる。3 『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』」

エレミヤは、南ユダ王国最後の王ゼデキヤによって監視の庭に監禁されていました。それは、ゼデキヤがバビロンの王の手に渡されるということをエレミヤが預言をしたからです。ゼデキヤにとってエレミヤは目の上のたんこぶのような存在で、否定的なことしか言わないので、嫌になって「なぜ、あなたはこのように預言して言うのか」(32:3)と言って、ユダの王の宮殿にある監視の庭に監禁したのです。それは約1年半くらい続きました。そのエレミヤがまだ監禁されていたとき、再びエレミヤに主のことばがありました。それは次のような内容でした。2節と3節をご覧くにある内容です。「2 「地を造った【主】、それを形造って堅く立てた【主】、その名が【主】である方が言われる。3 『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』」

3節は、聖書の中でも非常に有名なみことばで、祈りのトライアングルと呼ばれている箇所です。この中で主はエレミヤに「わたしを呼べ」と言われました。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた多いなることを、あなたに告げよう。と。この「わたしを呼べ」ということばですが、英語では「Call to me」となっています。これは普通じゃありません。普通、英語で「わたしを呼べ」というのは「Call me」です。でもここではCall to meとなっています。なぜCall to me なのでしょうか?それはこの「me」が強調されているからです。ただ「わたしを呼べ」と言っているのではなく、「このわたしを呼びなさい」と言っているのです。

それは2節を見るとわかります。ここで主はこう言っておられます。「地を造った主、それを形造って堅く立てられた主、その名が主である方が言われる。」ここでは、この「わたし」がどのような方であるのかがはっきり書かれてあります。この方は地を造られ、それを堅く立てられた方です。その名は「主」です。これは「わたしは、「わたしはある」という者である。」(出エジプト3:14)という意味です。何にも依存することなく、それ自体で存在することができる方です。人間はそうじゃないでしょう。何かに依存しないと生きていくことができません。外見は強そうでも実際は本当に弱い虫けらみたいな存在です。私は先日尿管結石で入院しましたが、痛かったですよ。もう死ぬかと思いました。でも医師の話ではその石の大きさは6ミリだったそうです。たった6ミリです。そのまま落ちるか落ちないかギリギリの大きさだそうですが、私の石は落ちませんでした。相当居心地が良かったんでしょうね。担当の医師はとってもいい人で、適切に処置をしてくださったので、今ではピンピンになりました。勿論、すべては神の恵みですが、私には彼の顔が神さまのように見えましたよ。でもそんな医師でも診察にあたってはいろいろ悩むこともあると言っていました。100%はないと。人は見かけでは強そうですが実際は弱いんです。だれかに依存しないと生きていくことができません。でも主はそのような方ではありません。主は、地を造られ、それを堅く立てられた方です。この方にとって不可能なことは一つもないのです。この方は全能者なのです。この「わたしを呼べ」。そう言っているのです。そうすれば、この方はあなたに答え、あなたが知らない大いなることを、あなたに告げてくださいます。

「大いなること」とは何でしょうか。具体的には、これはエルサレムの回復のことを言っています。神は、エルサレムの住民たちがカルデア人と戦っても、必ず敗北すると告げられました。なぜなら、5節にあるように、彼らのすべての悪のゆえに、主がエルサレムから御顔を隠されたからです。しかし、神は彼らを懲らしめてそれで終わりではありません。そんな彼らを赦し、彼らを初めのように回復させ、建て直してしてくださるというのです。それが6~9節にある内容です。ご覧ください。「6 見よ。わたしはこの都に回復と癒やしを与え、彼らを癒やす。そして彼らに平安と真実を豊かに示す。7 わたしはユダとイスラエルを回復させ、以前のように彼らを建て直す。8 わたしは、彼らがわたしに犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らがわたしに犯し、わたしに背いたすべての咎を赦す。9 この都は、地のすべての国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり、栄えとなる。彼らは、わたしがこの民に与えるすべての祝福のことを聞き、わたしがこの都に与えるすべての祝福と平安のゆえに恐れ、震えることになる。』」

ユダとイスラエルを回復させ、以前のように彼らを建て直すなんてあり得ないことです。しかし、たとえ人間の目で不可能なことでも、神にとって不可能なことは一つもありません。あなたが主を呼び求めるなら、神はあなたの知らない理解を超えた大いなることを告げてくださいます。荒れ果てたエルサレムを回復させて元通りにし、建て直してくださるのです。もしあなたが神を信じ、神とともに歩み、神との交わりの中にいるなら、神はあなたが考えられないような偉大なことをしてくださるのです。でも私たちはそれを信じられないのでこういうのです。「ウッソ!」無理、無理、無理ですよ、どうやってそんなことができるんですか・・・。

このときのエレミヤもそうでした。神さまはイスラエルがバビロンに連れて行かれてから70年後に再び祖国に戻すとは聞いていましたが、いったいどのようにしてそんなことができるのかがわかりませんでした。前回のアナトテの畑を買うということもそうでしたね。どうしてそんな畑をかわなければならないのか、もう崩壊寸前になっていた畑なんて二束三文ですよ。なぜ買わなければならないのですか。さっぱりわかりませんでした。そんなエレミヤに、神さまはその理由を告げられるんですね。それが32章15節のみことばでした。「なぜなら──イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる──再びこの地で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるからだ。』」つまり、彼らはそのバビロンから解放されて祖国に戻り、再びこの地で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるからです。いったい誰がそんなことを考えることができたでしょうか。70年ですよ、そんなに長い間バビロンで奴隷として生きていた彼らが、どうやって祖国に戻ることなどできるでしょう。しかし、そんなエレミヤに神はこう言われました。「『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』それはあなたにはわからないことです。しかし、あなたが神を呼ぶなら、神はあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げてくださいます。

旧約聖書に登場するヨブもそうでした。彼も自分に降りかかる数々の災難がどうして起こるのかがわからず、そのことを神に問うわけですが、その中で彼が見出した答えがこれでした。神にはどんなことでもできるということです。「あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能でないことを、私は知りました。」(ヨブ42:2)神にはどのような計画も不可能ではありません。そのこと信じなければなりません。神に「どうしてですか」と問う前に、あなたは神を呼び求めなければならないのです。そしてその声を聞かなければなりません。そうすれば、主はあなたに答え、あなたの知らない理解を超えた大いなることを告げてくださいます。

人は目先の現象に一喜一憂しやすいものです。しかし、自分には分からないことが沢山あることを謙虚に認めて主を呼ばなければなりません。そうすれば、主は、私たちの理解を超えた大いなることを告げてくださいます。

たとえば、アブラハムが99歳になったとき、主はアブラハムと契約を結ばれました。それは彼が多くの国民の父となるということでした。でも彼にはまだ子どもがいませんでした。どうやって多くの国民の父になることができるでしょうか。そのとき神さまは具体的に彼に直系の男の子が与えられ、その名は「イサク」と言いますが、彼を通してその契約を成し遂げてくださると明かしてくれました。まさか100歳の者にどうやって子どもが与えられるでしょう。サラだって90歳になっていました。考えられません。なかなか信じられません。そんなアブラハムとサラに主はこのように言われました。「14 【主】にとって不可能なことがあるだろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子が生まれている。」【主】はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑って、『私は本当に子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言うのか。」(創世記18:14)

皆さん、主にとって不可能なことは一つもありません。たとえあなたにとって不可能なことでも、主にとっては何でもないことです。あなたにとって必要なことは、この全能者であられる主を呼ぶことなのです。

6~9節をもう一度ご覧ください。ここで主はどのようにエルサレムを回復させてくださるのかを示しておられます。6節には、主はエルサレムに回復と癒しを与え、彼らに平安と真実を豊かに示すと言われました。7節には、分断されていたユダとイスラエルを回復させるとあります。8節には、彼らが犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らの咎を赦すとあります。そして9節には、彼らはすべての国々の間で、主にとって喜びの名となり、栄となる、と言われています。

いったいどうして主はそこまでイスラエルを祝福してくださるのでしょうか。それは彼らが良い民族だからではありません。それは31章で見たように、新しい契約に基づく神の一方的な恵みによるものです。 それは御子イエスの血によって、信じるすべての者をきよめてくださるという神様の一方的な恵みの契約でした。御子イエスを信じる者は、すべての罪、咎がきよめられ、神がいつまでも共にいてくださいます。あなたがどんなにひどい罪を犯したとしても、その罪を認め、神に立ち返るなら、神はあなたを捨てることは絶対にありません。どんなに自分の汚れを落とそうとアタックを使っても無理なものを、自分の力では決して拭い落とせない罪でも、神さまはキリストの血によってそれを行なってくださったのです。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(1ヨハネ1:7)御子イエスの血は、すべての罪からあなたをきよめてくださるのです。何という恵みでしょうか。神はキリストによって彼らと新しい契約を結んでくださいました。神はキリストによってあなたとこの契約を結んでくださいました。ですから、どんなことがあってもあなたが滅びることはありません。あなたが神を呼ぶとき、神はあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた多いなることをしてくださるのです。

Ⅱ.その恵みはとこしえまで(10-11)

次に、10~11節をご覧ください。「10 【主】はこう言われる。「あなたがたが、人も家畜もいない廃墟と言うこの場所で、人も住民も家畜もいない、荒れすたれたユダの町々とエルサレムの通りで、11 楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、【主】の宮に感謝のいけにえを携えて来る人たちの声が、再び聞かれるようになる。彼らは言う。『万軍の【主】に感謝せよ。【主】はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで』と。わたしがこの地を回復させ、以前のようにするからだ──【主】は言われる。」」

人も家畜もいない廃墟となった場所で、人も住民も家畜もいない荒れすたれたユダの町が、いったいどうして楽しみと喜びの声が聞かれるようになるのでしょうか。それは、主がそうされるからです。主がこの地を回復させ、以前のようにされるのです。それは人の理解をはるかに超えた驚くべき大いなること、大いなる神の恵みでした。あれほど廃墟となった町が再び建て直されるなんて考えられないことです。いったいどうしてそのようなことが起こるのでしょうか。主がしてくださるからです。主は約束を反故にされる方ではありません。主が語られたことは必ず実現してくださるのです。主はそのように約束してくださいました。「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはわたしの民イスラエルとユダを回復させる──【主】は言われる──。わたしは彼らを、その父祖に与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」(エレミヤ30:3) それはここだけではありません。エレミヤはバビロンに連れて行かれたユダの民が祖国に帰り、そこを元通りにすると何度も何度も語られました。主はそのことばのとおりにされたのです。

アメリカに車を欲しがる息子がいました。彼は父親に大学の入学祝いに車を買ってくれとせがみました。父親は「車もいいが、みことばを読み、祈る生活をしなさい。」と言いました。そして、みことばと祈りには、車だけでなく人生に必要なすべてが込められていると言って、車の代わりに聖書をプレゼントしました。息子は大学の寮に入って学校が始まってからも父親からもらった聖書に一度も目を通しませんでした。父親が自動車を買ってくれなかったことに対する不満でいっぱいだったからです。
 休みで家に戻って来た息子は、まだ父親に腹を立てていました。そのことを察した父親は息子に、なぜ聖書を読まないのかと尋ねました。息子は「車を買ってくれないのに、どうしてお父さんの言うことを聞かなければならないんですか」と反発しました。父親は「息子よ、ピリピ4章19節を開いてみなさい。」と言いました。「そこには車があるはずだ」と。そこで息子は大学の寮に帰ると、聖書を手に取り、ピリピ4:19を開きました。驚いたことに、そのページに車が買える小切手がはさまれてあったのです。そして、その箇所には線まで引いてあったのです。「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)

廃墟となった町が、再び喜び踊る人々で満ち溢れるようになる。なんという劇的な変化でしょうか。主はご自身のあわれみと、ご自身のお約束のゆえに、必ずそれを実現してくださいます。私たちの嘆きを賛美に、悲しみを楽しみと喜びに変えてくださるのです。それは人にはできません。でも神にはどんなことでもできるのです。たとえあなたが今深い泥沼に沈んでいても、たとえ先が見えない絶望の中に置かれていても、あなたが主を呼ぶなら、主はあなたの声に答え、あなたが知らない理解を超えた多いなることをあなたに告げてくださるのです。11節に、「楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、【主】の宮に感謝のいけにえを携えて来る人たちの声が、再び聞かれるようになる。彼らは言う。『万軍の【主】に感謝せよ。【主】はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで』と。わたしがこの地を回復させ、以前のようにするからだ──【主】は言われる。」主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」とありますが、私たちもこの万軍の主に感謝し、主の御名を呼び求めようではありませんか。そうすれば、主は必ずあなたに大いなることをしてくだいます。

Ⅲ.満ち満ちた神の恵み(12-13)

最後に、12~13節をご覧ください。「12 万軍の【主】はこう言われる。「人も家畜もいない廃墟であるこの場所と、そのすべての町に、群れを伏させる羊飼いたちの住まいが再びできる。13 山地の町々でも、シェフェラの町々、ネゲブの町々、ベニヤミンの地、エルサレムの近郊、ユダの町々でも、群れが再び、数を数える者の手の下を通り過ぎる──【主】は言われる。」」

人も家畜もいない廃墟であるこの場所と、そのすべての町に、群れを伏させる羊飼いたちの住まいが再びできるようになります。回復の範囲が、約束の地の全行に及ぶようになります。44節にシェフェラの町々でも、ネゲブの町々、ベニヤミンの地、エルサレムの近郊、ユダの町々でも、とあるのは、イスラエルのどこにおいてもという意味です。イスラエルの全土で群れを伏せる羊飼いたちの住まいが再びできるのです。そればかりか、群れが再び、数を数える者の手の下を通りすぎようになります。これは牧者が羊の数を数えようとしても、あまりにも多すぎて数を数える者の下をするっと通り抜けてしまうほどです。それほど羊を飼うことが日常化し、家畜が豊かにあふれることを表しています。それは神がなされる回復は完全であるということです。あなたの人生がどんなに荒廃していても、物質的に不足を感じることがあっても、ダビデが「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが、私を追ってくるでしょう。」(詩篇23:6)と告白したように、神はあなたを豊かに満たしてくださるのです。だから主を呼んでください。そうすれば、主はあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることをあなたに告げてくださいます。

ある姉妹が、イエス様を信じてからもなかなか古い習慣から抜け出せないでいました。その古い習慣とは、何かあるとすぐに人に頼り、聞いてもらい、答えを得る事でした。それで彼女は聖書の学びを通して、まず主に祈る事にしました。それまでは何か問題が起こると、その頃はまだ携帯が無かったので、次々と友人たちに電話をしていましたが、ところがある日、次々と電話しても、何と全員が出かけていて留守録だったのです。 
 その時彼女はハッとして、このみことばを思い出しました。まず人に頼るのでなく、主に頼り、主に祈る事だと。そしてその問題をまず主の下に持って行きました。するとその祈りが次々と答えられるのを体験しました。

しかし、ある時経済的苦境に陥り、突然の出費があり、給料前ということもあり、手元にお金が全く無くなってしまったときがありました。赤ん坊のミルクとオムツが無い。どうしようもなく、未信者の夫が、友人に借りて来ると言いました。給料日にすぐに返せるからと。でも彼女は平安がありませんでした。まず主に祈り、主に頼りたかったのです。そして心の中でその事を祈りました。すると夫が、行く前に、近くに住む一人暮らしの義父をのぞいて来ると言いました。主に感謝して、夫が出た時間、必要を求めて、心を注ぎ出して祈りました。長く祈っていて、ふと背後に人の気配を感じました。すると何と夫が、両手にミルク缶とオムツの袋を持ち、立っているではありませんか。どうしたのと驚いて聞いてみると、行くと丁度、職場の上の人が義父の見舞いに来てくれ、見舞金を置いて行ったというのです。とりあえず必要な物を買って来たと。即、祈りに答えられ心から感謝しました。そして主のご愛に触れて、心は喜びで満ちたのです。

どうしてこういうことが起こってしまったのかと思うとき、あなたは自分で悩み、落ち込み、自分で解決することを止めて主を呼ぶことです。 「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。」主があなたのために立てている計画はわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたに将来と希望を与えるためのものだと信じて、主を呼び求めましょう。主に祈り、主に信頼して歩みましょう。主があなたも知らない、あなたの理解をはるかに超えた大いなることをあなたに告げてくださるからです。