エズラ記9章から学びます。
Ⅰ.イスラエルの民の罪(1-4)
1節の「これらのことが終わった後」とは、エズラ一行が無事にエルサレムに到着し、主への全焼のいけにえを献げ、アルタクセルクセス王から預かった命令書を、王の太守たちとユーフラテス川西方の総督たちに渡した後のことです。これらのことが終わった後、イスラエルの指導者たちがエズラのもとに近づいてきて、イスラエルに蔓延している罪について告げました。彼らはゼルバベルとともに帰還していた人たちです。そこで指導者としての地位を確立していたのでしょう。彼らはエズラがエルサレムにやって来たことを知り、イスラエルの中で行なわれている罪について告げたのです。エズラが律法の専門家であり霊的指導者であったことから、エズラに告げれば何らかの解決が得られるのではないかと期待したのだと思います。
その罪とはどんなことかというと、異教徒との結婚に関することでした。イスラエルの民、祭司、レビ人が、カナン人、ヒッタイト人、ペリジ人、エブス人、アンモン人、モアブ人、エジプト人、アモリ人といった異国の忌み嫌うべき習慣と縁を絶つことなく、かえって、彼らも息子たちも、これらの国々の娘を妻とし、聖なる種族がもろもろの地の民と混じり合っていたのです。モーセの律法には、雑婚が禁じられていました(出エジプト34:11~16、申7:1~4)。なぜなら、異教徒との結婚が、偶像をもたらすことになるからです。その最大の失敗例がソロモンです。1列王記11:3~5にはこうあります。
「11:3 彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。11:4 ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けたので、彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、【主】と全く一つにはなっていなかった。 11:5 ソロモンはシドン人の神アシュタロテと、アモン人のあの忌むべきミルコムに従った。」
ソロモンは多くの妻やそばめを持つことで、ほかの神々に心を向けてしまいました。彼はシドン人の神アシュタロテと、アモン人のあの忌むべきミルコムに従ったのです。イスラエルの民は聖なる民です。そうした異教徒から分離して生きることが求められていましたが、彼らはそれを無視していたのです。
このことを聞いたエズラはどうしたでしょうか。3節をご覧ください。彼はこのことを聞くと、衣と上着を引き裂き、髪の毛とひげを引き抜いて、茫然として座り込んでしまいました。これは深い悲しみと怒りを表しています。それは、イスラエルの民が捕囚として引かれて行く原因となったことでした。あれほど痛い思いをしてもまだわからないのかというあきらめにも近い思いを抱いたのでしょう。エズラは言葉を失い、夕方のささげ物の時刻、これは午後3時ですが、茫然としてそこに座りこんでいたのです。まさに茫然自失の状態だったのです。
隣人に対して寛容であることは大切なことですが、罪に対して寛容であることは危険なことです。信者が未信者と結婚することを禁じているのは人種差別からではなく、信仰的な理由からです。未信者の妻をめとった者は、次第に妻の宗教を受け入れるようになるからです。その結果、偶像礼拝を自分の中に持ち込むことになり、神様との関係が阻害され、神から離れてしまうことになります。そうなれば、自分たちは何のために存在しているのかさえ見失ってしまうことになります。神のみこころは、私たちが聖い者であることです。Ⅰペテロ1:15~16には、「1:15 あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。1:16 それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。」」とあります。私たちはそのために救われたのです。それなのに霊的に妥協するあまり、いつしかこの世の流れにすっぽりと浸り、神からも信仰からも離れていくのです。
悪魔は本当に巧妙ですね。今週の日曜日はどれほど多く方からメールをいただいたでしょうか。「きょうは用事があるので礼拝を休みます。あっ、来週も娘を部活に送っていかなければならないので行けません。ユーチューブで観ます。」「きょうは朝から旦那と喧嘩になり、家族で話し合うことになったのでお休みします。」勿論、どうしても来られない時もあるでしょう。でもそれはそれほど多くはないでしょう。問題は、この「聖でなければならない」という意味を理解してないことです。というのは、日曜礼拝は安息日ではありませんが、少なくても主が6日間で天と地にあるものを造られ7日目に休まれたので、これを聖なる日とするように定められたものです。この世とのいっさいの関わりを断ち、私たちを造り、私たちを罪から救ってくださった主を覚え、主を礼拝する日です。聖なる日です。よほどのことがない限り休むことは考えられません。私は心優しいので、そういう連絡をいただくとき何と返事したら良いか本当に悩みますが、牧師を打ちのめす一番良い方法はこれかもしれませんね。本当に忍耐が強いられます。いずれにせよ、私たちは自分がこの世に住みながら、この世のものではないことを常に思い出し、聖なる方にならって、聖なるものであることを求めていかなければならないのです。
Ⅱ.エズラの祈り(5-9)
茫然自失になり、打ちのめされていたエズラは、夕方のささげ物の時刻になって立ち上がり、主に祈ります。5~9節をご覧ください。「9:5 夕方のささげ物の時刻になって、私は気を取り戻し、着物と上着を裂いたまま、ひざまずき、私の神、【主】に向かって手を差し伸ばし、祈って、 9:6 言った。「私の神よ。私は恥を受け、私の神であるあなたに向かって顔を上げるのも恥ずかしく思います。私たちの咎は私たちの頭より高く増し加わり、私たちの罪過は大きく天にまで達したからです。9:7 私たちの先祖の時代から今日まで、私たちは大きな罪過の中にありました。私たちのその咎のため、私たちや、私たちの王、祭司たちは、よその国々の王たちの手に渡され、剣にかけられ、とりこにされ、かすめ奪われ、恥を見せられて、今日あるとおりです。 9:8 しかし、今、しばらくの間、私たちの神、【主】のあわれみによって、私たちに、のがれた者を残しておき、私たちのためにご自分の聖なる所の中に一つの釘を与えてくださいました。これは、私たちの神が私たちの目を明るくし、奴隷の身の私たちをしばらく生き返らせてくださるためでした。9:9 事実、私たちは奴隷です。しかし、私たちの神は、この奴隷の身の私たちを見捨てることなく、かえって、ペルシヤの王たちによって、私たちに恵みを施し、私たちを生かして、私たちの神の宮を再建させ、その廃墟を建て直させ、ユダとエルサレムに石垣を下さいました。」
エズラは、立ち上がると、衣を引き裂いたまま、ひざまずき、主に向かって手を伸べ広げて祈りました。彼はまず、イスラエルの民の罪を心から恥じています。なぜなら、その咎は増し、頭より高くなり、その罪過は大きく、天にまで達したからです。咎が頭よりも高いとか、罪過が天にまで達するというのは、神の御怒りを招かないでいられるような軽々しい罪ではない、ということです。ここで「罪」を「咎」とか「罪過」と言っていることに注目してください。「罪」とは知らないで犯すものですが、「咎」とか「罪過」は知りながら、もう罪であると十分に知識として与えられていながら、それでも犯す違反行為のことです。だからエズラは7節で、「私たちの先祖の時代から今日まで、私たちは大きな罪過の中にありました。」と言っているのです。「その咎のため、私たちや、私たちの王、祭司たちは、諸国の王たちの手に渡され、剣にかけられ、捕虜にされ、かすめ奪われ、面目を失って、今日あるとおりです。」と言っているのです。これはバビロン捕囚のことを指しています。どうして彼らにそのようなさばきに下ったのかというと、ほかの神々を礼拝し、神の御怒りを招いたからです。彼らはそのことを十分知っていました。それなのに彼らは、それと同じことを行っていたのです。バビロン捕囚はイスラエルの民をきよめるための神の懲らしめでしたが、それが何の効果もなかったのです。
であれば、何の弁解の余地もなく滅ぼし尽くされても致し方ないのに、主はそのあわれみによって、そこに逃れの者を残してくださり、ご自分の聖なるところに一本の杭を与えてくださいました。この「一本の杭」とは、着物や衣をかけておくための突き出た釘のことであるという理解から、聖なる所に自分たちの居場所があるという意味だと解釈する人もいますが、ここではもっと具体的に、神殿と町の再建のことを意味していると思われます。なぜなら、その後のところにそれを可能にさせたのも、神の恵みの業であると告白しているからです。彼らが奴隷の身分であるにもかかわらず、主はそんな彼らを見捨てることなく、かえって、ペルシャの王たちによって恵みを施し、彼らを生かして、彼らの神の宮を建て直させ、その廃墟を元に戻し、ユダとエルサレムに石垣をくださいました。本来なら滅びなければいけないのに、このようにやり直しを与えてくださっているとしたら、それは神の恵みとあわれみにほかありません。エズラはその神の恵みとあわれみを思い起こしているのです。
Ⅲ.こうなった今(10-15)
次に10~15節をご覧ください。「9:10 今、こうなってからは、何と申し上げたらよいのでしょう。私たちの神よ。私たちはあなたの命令を捨てたからです。9:11 あなたは、あなたのしもべ、預言者たちによって、こう命じておられました。『あなたがたが、入って行って所有しようとしている地は、そこの国々の民の、忌みきらうべき行いによって汚された汚らわしい地であり、その隅々まで、彼らの汚れで満たされている。9:12 だから、今、あなたがたの娘を彼らの息子にとつがせてはならない。また、彼らの娘をあなたがたの息子にめとってはならない。永久に彼らの平安も、しあわせも求めてはならない。そうすれば、あなたがたは強くなり、その地の良い物を食べ、これを永久にあなたがたの子孫のために所有することができる』と。9:13 私たちの悪い行いと、大きな罪過のために、これらすべてのことが私たちの上に起こって後、──事実、私たちの神、あなたは、私たちの咎の受けるべき刑罰よりも軽く罰し、このようにのがれた者を私たちに残してくださいました──9:14 私たちは再び、あなたの命令を破って、忌みきらうべき行いをするこれらの民と互いに縁を結んでよいのでしょうか。あなたは私たちを怒り、ついには私たちを絶ち滅ぼし、生き残った者も、のがれた者もいないようにされるのではないでしょうか。9:15 イスラエルの神、【主】。あなたは正しい方です。まことに、今日あるように、私たちは、のがれた者として残されています。ご覧ください。私たちは罪過の中であなたの御前におります。このような状態で、だれもあなたの御前に立つことはできないのに。」
主はそのあわれみによって彼らに一本の杭を与えられ、やり直しを与えてくださったのに、その機会をすべて台無しにしてしまった今、何も言うことができません。エズラは神に対して、自分たちは神の命令を捨てて、罪を犯したことを告白しています。その罪とは何でしょうか。それは雑婚の罪です。主は預言者たちによって、イスラエルが入って行って所有している地は、異国の汚れで汚れた地であり、忌み嫌うべき行いによって隅々まで汚れで満ちてしまった地であるから、彼らの娘をその地の息子に嫁がせてはならない、また、その土地の娘を彼らの息子の妻にしてはならないと命じておられました(レビ記18章、申命記7章)。それなのに彼らはその命令を破ったため、イスラエルの地に汚れと忌むべき習慣が持ち込まれてしまいました。
そのことのゆえに、様々なことが彼の上に起こりました。その最大のことがバビロン捕囚です。彼らはその土地から引き抜かれました。それにも関わらず神は彼らの咎に値するような刑罰を与えず、それよりも軽い罰を与え、逃れの者をこのように備えてくださいました。自分たち残された者がいる、ということです。
それなのに、再び主の命令を破って、忌み嫌うべき行いをするこれらの民と親戚関係に入るようなことがあるとしたら、ついにはその残りの者さえも、逃れの者もいないようにされるのではないでしょうか。エズラは、何か特別な要請をしたわけではありません。ただ自分たちの罪を認めて神の前にひれ伏しているだけです。彼は、神が啓示された御言葉に自分たちを照らし合わせ、その通りに自分たちを評価しているのです。
このように、主の御言葉を自分に都合の良いように一部の言葉だけを受け入れ、他の御言葉を退けたりせずに、書かれてあるとおりに自分を見つめることが大切です。そこに真の悔い改めと、罪への悲しみが生まれるからです。ヤコブが手紙の中でこう言いました。「あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。(4:9-10)」
そして、エズラはこの祈りの中で、神のいくつかの性質を認めて告白しています。8節には「そのあわれみによって」とあります。主はあわれみ深い方です。また9節には「主は・・・恵みを施し」とあります。主は恵みを施してくださる方なのです。さらに14節には「あなたは怒って」とあります。主は怒られる方です。また15節には「あなたは正しい方です」とあります。エズラは、こうした神の属性を告白し、ご自身の契約のゆえに民にあわれみを示してくださいと祈ったのです。それは私たちも同じです。私たちもしばしば罪に陥ったり、様々な問題で苦しむことがありますが、どんなときでもこの神のご性質を思い起こし、神に信頼して祈らなければなりません。神は必ずその祈りを聞かれ、状況を変えてくださるからです。
つい最近、さくらチャーチの姉妹が白内障の手術を受けられたのですが、思うようにいかなかったのか、術後、片目がよく見えなくて落ち込んでおられました。それでもう一度かかりつけの眼科に診てもらったところ、硝子体出血であるということが判明し、もっと大きい病院で手術することになりました。実は、月曜日に入院し、昨日手術だったのですが、まだ報告は届いておりませんが、成功したと信じています。
先週その方からメールをいただいた時はかなり落ち込んでおられました。「牧師先生、こんばんは。右の目が見えないので眼科に行ってきました。硝子体出血との病名、明日自治医大にいくように言われました。結構やっかいな病気らしいですね。もう入院は絶対にしないと思っていましたが、またもや手術になりそうです。これもまた神のお計らい?悲しすぎます。詳しいことは明日お知らせします。いつも暗いことばかりですみません。」
このようなメールを頂いたら、皆さんなら応えますか?私は、硝子体出血で3度手術をしていますので、この姉妹の気持ちがわかります。でも、昨年命にかかわる大手術をされたこの方にとって、また手術をすることに大きな不安を抱えておられたのでしょう。ですから、そのことを重々承知で、そのために涙を流してあわれんでくださる方がおられることを伝え、この主が完全に癒してくださると信じてお祈りしていますと、返信を差し上げました。そして日曜日の礼拝後に、教会の皆さんで心を合わせてお祈りをしたら、どこかふっきれたようなに安心しておられました。主がどのようなお方なのか、主はあわれみ深く、恵み深い方であり、私たちの罪を贖ってくださった方、完全な癒し主であることを信じてお祈りすることで、主にすべてをゆだねることができたのです。
私たちも日々いろいろな問題で不安になりますが、しかし、大切なことは私たちの信じている神様がどのような方であるかを知ることです。その真実な神のご性質にかけて祈ることです。そのとき、主はその祈りに答えてくださり、必ずあなたの状況を変えてくださるのです。