イザヤ1:21-31 レジュメ

「初めのようにされる神」                   N03

はじめに

イスラエルは、神に背を向けて離れ去ってしまった。その結果、彼らは、頭から足の先まですっかり弱り果てた。そんなイスラエルに神は、和解の道を示される。それは、彼らが悔い改めて、神に立ち返るなら、彼らの罪は赦され、雪のように白くなるという約束である。きょうの箇所には、神の回復のシナリオ(計画)が描かれている。

Ⅰ.遊女になった忠信の都(21-23) 

ここで神はイスラエル(エルサレム)を「忠信の都」と呼んでいる。「忠信」とは、まごころを尽くし、うそ偽りがないこと。イスラエルはもともと神にとって忠信の都であったのに、遊女となってしまった。神から与えられた契約に背き、不純になり、偶像に心を移すようになったのである。ちょうど銀がかなかすに、良い酒を水で割ったように・・。その結果彼らは、盗人の仲間となり、わいろを愛し、報酬を追い求めるようになってしまった。イエス様は、塩が塩気を無くしたら、何の役にも立たない、と言われた。(マタイ5:13)クリスチャンが召されるとは、キリストの花嫁として誠実であること。そうでないと目の前に置かれてものをだけを追い求めるようになってしまう。そしてそこから堕落と破滅と混乱が生じるようになる。だれも二人の主人に仕えることはできない。神にも仕え、富にも仕えることはできないのである。 

Ⅱ.忠信の都の回復(24-27)

そのような反逆を、神は必ず罰せられる。がしかし、そのように罰せられるのは彼らを滅ぼすためではない。彼らから不純物(かなかす、浮きかす)を取り除いて、彼らを回復させるためである。こうして彼らを初めのように、昔のようにする。これは終末に起こる大患難時代の預言である。この苦しみの中で彼らはかなかすが灰汁のように溶かされ、浮きかすが取り除かれる。つまり、不信仰が取り除かれ、主イエス・キリストを信じるようになるのである。同じように、私たちの人生にも試練が襲ってくることがあるが、それは私たちを滅ぼすためではなく、私たちを練りきよめるためである。神は私たちを愛し、私たちを救いたいので、このような試練を与えて警告しておられるのである。ゆえに、いまは、しばらく間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないこともあるが、これがやがてイエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉に至るためのものであることを信じて、耐え忍ぶ者でありたい。神様は真実な方なので、耐えることができないような試練には会わせない。むしろ耐えることができるように、試練とともに、脱出の道を備えておられるのである。 

.忠信の都となるために(28-30

ではどうしたらよいのか。だから悔い改めなければならない。悔い改めないと神のさばきが臨む。しぼんだ樫の木のように、水のない園のようになってしまう。神様は忠信の都を回復させようとしておられる。そのために私たちは悔い改めて、神に立ち返ることが求められているのである。悔い改める者は、正義によって贖われるからである。 

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたは、キリストの花嫁として誠実に信仰を守っていますか?だれも、二人の主人に仕えることはできません。(マタイ6:24)あなたのもう一人の主人は何ですか?

・あなたから取り除かれなければならない不純物は何でしょうか?そのために神はどのような試練を与えておられますか?あなたは自分の人生のすべてにおいて、神様があなたのために働いておられることを認めていますか?