イザヤ5:1-7 レジュメ

「ぶどう畑の歌」                            N07

はじめに

ここでイザヤは、イスラエルの霊的な状況をぶどう畑のたとえを用いて語る。「さあ、わが愛する者のために私は歌おう。そのぶどう畑についての愛の歌を。」と。

Ⅰ.神のご期待(1-2a) 

ぶどう畑の主人は、そこを一生懸命に耕して、良いぶどうの苗を植えた。しかもそこにやぐらを立て、酒ぶねまで掘って・・。そこには並々ならぬ労苦が伴ったはずだ。いったいなぜそこまで手をかけてくださったのだろうか?収穫を期待していたからである。甘くて美味しいぶどうがなるのをずっと楽しみにしていたのだ。

エペソ1:3~6を見ると、神はキリストにあって、天にある霊的祝福をもって私たちを祝福してくださった、とある。何と世界の基の置かれる前から救われるようにと選んでおられた。なぜ?神の恵みの栄光がほめたたられるためである。神は私たちにも期待しておられる。自分自身を見たら本当にちっぽけな者にすぎないが、そんな神の期待に応えていく者でありたい。

Ⅱ.神の失望(2b-4)

ところで、そんな神の期待とは裏腹に、酸っぱいぶどうが出来てしまった。このぶどう畑の主人は、どれほど残念だったことか・・。いったいなぜ酸っぱいぶどうが出来てしまったのだろうか?7節には、「まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植え付けたもの。主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。」とある。この「公正と流血」、「正義と叫び」という言葉は相反する反対語ではない。ヘブル語では非常に音が似ている言葉である。つまり、見かけは神様の期待にそっくりでも、中味は全く違うものであったのだ。実際はそうでないのに、あたかもそうであるかのように見せかけていたことが問題だったのである。ぶどう畑の主人が期待していたのは見せかけだけの甘いぶどうではなく、実際に甘いぶどうであった。それがぶどう畑に期待されていたことであり、存在している意義があったのである。

.まことのぶどうの木(5-6 

ではどうしたらよいのか?どうしたら甘いぶどうの実を結ぶことが出来るのか?マタイの福音書21章のところで、主イエスはこのたとえをユダヤ人の指導者たちに語られた。彼らは主人が遣わした息子を殺して、財産を自分のものにしてしまった・・・と。そうすると、そのぶどう園の主人はいったいどうするか?「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を治める農夫たちに貸すに違いありません。・・だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」(21:41-43)彼らは神の御子キリストを受け入れなかったので、神の国は彼らから取り去られたのである。神の期待にそえるような甘いぶどうの実を結ぶためには、神の御子イエス・キリストを信じ、そのいのちの交わりの中で生きる者でなければならない。主イエスは、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」と言われた。(ヨハネ15:5)主イエスとの生きた交わりこそ、私たちが多くの実を結ぶために必要なことなのである。

 

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・神があなたに期待しておられることはどんなことですか?神の期待に応えるために必要なことは何ですか?

・あなたは、どのような実を結んでいますか?甘い実ですか?それとも酸っぱい実ですか?甘い実を結ぶために、あなたにとって必要なことは何だと思いますか?