イザヤ5:8-30 レジュメ

「主が忌みきらわれること」                            N08

はじめに

神は、甘いぶどうがなるのを期待して苦労しながらぶどうの苗を植えたが、出来たのは酸っぱいぶどうであった。きょうのところには、その酸っぱいぶどうがどのようなものであったのかが詳しく述べられている。イザヤはこれを「ああ」という言葉で表現した。これは「忌まわしいもの」とか「わざわいなるかな」という意味である。

Ⅰ.天にあるものを求めて(8-17) 

最初の「ああ」は、彼らの貪欲に対する嘆きである。神はイスラエルに土地の売買を禁じられた。それは本来神のものであって、神から与えられたものだということを覚えるためである。にもかかわらず彼らは神の掟を破り、土地と家を買い、富を蓄えた。それは彼らが神ではなくこの地上のものを求めていたからである。「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」(コロサイ3:5)そうした彼らの貪欲を神は忌みきらわれ、どんなに広い土地を耕しても少ししか収穫できないようにした。人間がどれだけ頑張っても、神が許されなければ何も手にすることはできないのである。

もう一つの「ああ」は、享楽に対する神の嘆きである。彼らは朝から酒を飲み、享楽にふけっていた。彼らは神が注がれた恵みを覚えるような生活ではなく、刺激的で、感覚的なものを求めていた。それゆえ神は彼らを捕らえ移された。その「無知」と「渇き」で干からびるようにさせたのである。彼らのように感覚的なものだけを求めると霊的に干からびることになる。時間がかかってもみことばを学び、それに従う習慣を身に着けることで、霊的に養われることを求めていかなければならない。

Ⅱ.主のみことばを大切に(18-24)

三つ目の「ああ」は、神への侮辱である。彼らは神に向かって公然と「神がいるならさばいてみろ」と言った。これは神への冒涜であり、挑戦である。終わりの日には、このようにあざける者が増えてくる。(Ⅱペテロ3:3-4)四つ目の「ああ」は、価値観の逆転である。聖書の価値観を悪とし、人間の価値観を善としている。アメリカでは大統領選の予備選が行われているが、そこで同性愛や妊娠中絶の問題が出てくる。こうしたことは悪から出ていることなのに、それを善とし、聖書の価値観を歪めるような動きが絶えない。しかも、そのような悪を正当化するために、それを理論武装する人たちがいる。医学的、科学的にどうのこうのと論じてそれを正当化するのだ。自分を知恵ある者と思い込んでいる。そのような人は救いようがない。そのような人よりも、愚かの人のほうが、まだ望みがある。(箴言26:12)これが五番目のことである。最後の「ああ」は、酒飲みをあおる人たちである。また、お酒で正しい判断を失った裁判官たちである。彼らはわいろで正義を曲げていた。何と忌まわしいこと。

いったい何が問題だったのだろうか?それは、彼らが万軍の主のみおしえをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のみことばを侮ったことだ。自分の知恵を誇ったり、自分の考えを正当化したりするのではなく、主のみおしえを聞くこと、そこから義の道が始まるのである。

Ⅲ.神にちび導かれて(25-30) 

このような忌まわしい者たちには、神のさばきが臨む。山々は震え、彼らのしかばねは、あくたのようになる。そして、主が遠い国に合図を送ると、その国がすみやかにやって来て、獅子のようにイスラエルに襲いかかる。そう、バビロンだ。バビロンがやって来て彼らに襲いかかるので、彼らは悲惨な状態になる。それは彼らがこの地上の瞬間的なものを求めたからであり、へりくだって主のみおしえに聞こうとしなかったからだ。

ところで、イザヤは神のさばきで終わっている。これまでイザヤ書を学んでくる中で彼は、このような神のさばきの後で必ず回復の希望が語っていたのに、ここでは語られていない。いったいなぜか?イザヤが言いたかったことは、この神のさばきだったから。けれども本当の預言とは自分が語りたいことを語るのではなく、神が語ろうとしていることを語ることであであるる。彼は6章に入ってそのことに気づかされる。ほんとうにわざわいなのはユダの人たちではなくむしろ自分自身であることに気がつくのである。それが彼の転換点であった。それによって彼はもっとスケール大きな預言者として召されていくことになる。私たちの信仰生活も同じだ。私たちが何をしたいかではなく、主が願っておられることを行うこと、それが信仰の歩みである。主の御手に引っ張られるように導かれて進む者でありたい。そのためにも、私たちはいつも素直な心でみことばを聞き、それに応答していきながら、主のしもべとしてふさわしく整えられていきたいものである。

 

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたは天にあるものを求めていますか?あなたが今関心を持っていることは何ですか?あなたが天にあるものを求めていくために妨げているものは何ですか?

・あなたの信仰は、刺激的で感覚的なものですか?それとも主のみおしえに聞き従うものですか?

・主が忌みきらわれる六つのもの中で、あなたの中に見られるものがありますか?あるとしたらそれは何ですか?