「イザヤの召命」 N09
はじめに
ここに、イザヤが預言者として召されたことが書かれてある。彼は既に1章から5章にかけて預言してきたが、ここから彼の本格的な働きが始まる。
Ⅰ.私は、もうだめだ(1-5)
イザヤが預言者として召されたのはウジヤ王が死んだ年(B.C.740年頃)であった。ウジヤ王は軍事的に優れた手腕を発揮し、ユダで52年間という長きにわたって治めた。Ⅱ歴代誌26章15節を見ると、「その名は遠くにまで鳴り響いた」とある。そのウジヤ王が死んだ年にイザヤは預言者として召されたのである。その時彼は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。あれほど優れていたウジヤ王が死んだのとは裏腹に、高くあげられた主の王座を見たのである。それはセラフィムが「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」と叫ぶほどであった。
その時イザヤは、「ああ、私は、もうだめだ。私のくちびるは汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。」と叫ばずにはいられなかった。あまりの聖さに、立っていることができなかったのである。これまで彼はイスラエルの民に向かって「ああ、汚れた者たち」と語ってきたがこの聖なる主を見たとき、汚れているのは彼らだけでなく自分自身もそうであることに気づかされたのだ。神のことばを語るには全く汚れた者であり、資格などないことを告白したのである。しかし、この経験こそ、彼が預言者として召されていくために必要なことであった。人と比較しているうちはなかなか自分の汚れには気づかない。このように絶対的に聖い神の前に立たせられて初めて自分がどれだけ汚れているに気づかされる。そしてその聖さに触れることによって砕かれ、真の預言者として用いられていくのである。
Ⅱ.私を遣わしてください(6-8)
イザヤが主の聖さに触れ打ちのめされていた時、祭壇の上から燃えさかる炭を持ってきたセラフィムが、それをイザヤの口に触れてこう言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」どういうことだろうか?神の一方的な恵みによって彼の不義が聖められたということである。それは彼の業によったのではない。外からやって来たのだ。救いは神の一方的な恵みによって与えられる。その恵みによって彼は聖められたのである。
そのとき彼は、「だれを遣わそう。だれがわれわれのために行くのたろう」と言っていられる主の声を聞いたので、「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と言った。だれが主のために遣わされて行くのか?それは決して完全な人ではない。神の一方的な恵みに触れた人である。なぜなら、これは恵みの業であるからだ。イザヤは決して聖く、正しい人ではなく、また、そうした能力を備えてはいなかった。ただ神の恵みによってその罪が贖わたので、「ここに、私がおります。私を遣わしてください」と答えることができたのである。クリスチャンの奉仕はどれだけしたか、できるかではない。神がキリストにおいて何をしてくださったのかである。その恵みの大きさの何ものでもない。その恵みを受けたからこそ、主の働きに立ち上がることができるのである。
Ⅲ.神に導かれて(9-13)
イザヤが「ここに私がおります。私を遣わしてください」と応えると、主は「行って、この民に言え。」と言われた。その内容は、聞いた人たちがもっとかたくなになっていやされることがないようということであった。聞いて信じるためならわかるが、聞いて信じないために行けというのでは意味がない。けれども主はそのように命じられた。それは、神の忍耐である。神はそのような人でも悔い改めることができるように、最後の最後まで忍耐をもって語られる。
では預言をすることにどんな意味があるのか?預言をしても無駄ではないか?そうではない。イザヤはここで「いつまでですか?」と尋ねている。それはいつまでも続くことではない。神のさばきが行われるまでのことである。これは具体的にはバビロン捕囚のことを指しているがそれだけではなく、世の終わりのことも指している。そこにはなお、十分の一の人たちが残される。その人たちは「聖なるすえ」である。それまでである。残りの者がいる。世の終わりまで、主が来られる日まで信仰を堅く守り、神様の前に従う民が必ずいるのだ。その時までである。私たちの希望はここにある。たとえ目の前が真っ暗でも神様はそこにも残りの民を備えてくださり、その人たちを通して驚くべきみわざが成し遂げられるのだ。私たちがその残りの者である。この終わりの時に主への信仰を堅く守り、このすばらしい神の恵みを宣べ伝える者でありたい。私たちはそのために召されたのだから。
まとめ(自分に適用してみましょう!)
・あなたは聖い神の御前に立っていますか?あなたはイザヤのように「もうだめだ」と砕かれるような経験をしていますか?
・あなたは、神の一方的な恵み(救い)を経験しましたか?主が「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言われる時、どのように応答しますか?