「神の前に静まる」 N010
はじめに
ウジヤ王が死んだ年に預言者としての召命を受けたイザヤは、本格的な預言活動を開始する。その最初は、ユダの王アハズに対するものであった。
Ⅰ.アハズ王の動揺(1-2)
ユダの王アハズの時代に、「エフライムにアラムがとどまった」という知らせが告げられた。するとアハズの心も、民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。ユダは日本の四国くらいしかない小さな国だ。アラムとエフライム(北イスラエル)が連合して攻めて来られたらひとたまりもない。そこでアハズはどうしたかというと、北の超大国アッシリヤに助けを求めた。人間の考えることはいつもこうである。何か問題が起こると、その場しのぎの解決や対策を講じるのである。しかし、それはコンビニでインスタント食品を買うようなもので、ほんとうの解決をもたらすものではない。むしろ、そのことが後にユダをもっと苦しめることになる。「昨日の友が今日の敵」というようなことになるのだ。そのつけはそれから約30年後に、大きく膨らんで返ってくることになる。
Ⅱ.静かにしていなさい(3-4a)
そのとき、イザヤに主のことばがあった。「あなたとあなたの子シェアル・ヤシュブとは出かけて行って、布さらしの大路のそばにある上の池の水道の端でアハズに会い、そこで彼に言え。」と。「シェアル・ヤシュブ」とは「残りの者は帰る」という意味。それはユダに対するしるしであった。そのシェアル・ヤシュブを連れてアハズに会うように言われたのだ。その内容は、「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。」ということだった。この中心は、「静かにしていなさい」ということである。心が激しく動揺する時どのような態度を取ることが信仰的な態度なのかというと、「静かにしていること」である。しかし、そのような時に「静かにしている」ということはなかなかできない。騒ぎに巻き込まれ、あの手、この手と動いてしまうのだ。「静まる」とは、「身を沈める」という意味である。水とか、何かの中に身を沈めることである。その何かというのが神である。困難な状況に置かれたり、そうしたことに巻き込まれてしまうことがある。しかし、そうした中に身を置くのではなく、神の中に身を置かなければならない。それが「静まる」ということだ。
Ⅲ.神はわれらの力(4b-9)
なぜ神の前に静ならなければならないのか?第一に、神は全能者であるからだ。人の目にどれだけ大きな問題でも、神の目には小さなものでしかない。アハズが恐れていたアラムとエフライムも、神の目には煙る燃えさしでしかなかった。私たちが問題に直面する時のほんとうの問題は、その問題を見てしまうことである。そこに身を置いてしまうのだ。そして、その問題に圧倒されて絶望してしまう。しかし、問題にではなく神に身を置くと、その問題が小さく見えてくる。大切なのは、この方の目を通して問題に立ち向かっていくことだ。
第二の理由は、この全能なる神は今に至るまで働いておられるからである。心を弱らせていたアハズに対して、主は、アラムとエフライムの策略は起こらないし、ありえない、と言われた。私たちは何かの問題が起こると、それを悪い方に考えてしまう習性がある。しかし、そのようなことは起こらないし、ありえない。むしろ、六十五年のうちに、エフライムは粉砕される。実際に、この時から六十五年後の前699年に、エフライム(北イスラエル)はアッシリヤの王オスナパルによって粉砕され、多くの外国人が移住してきたことで「民でなくなった」。サマリヤ人となったのである。この預言が成就したのだ。神が語られたことは必ず実現する。神は、私たちの理解を越えたところで働いておられるのだ。ゆえに、私たちはこの全能の神を信じ、この神の前に静まらなければならない。
アハズの子ヒゼキヤは、アハズとは違い神に信頼した。前701年にアッシリヤの王セナケリブがエルサレムを包囲した時、彼は主の前に静まって祈った。すると主はヒゼキヤの祈りに答え、その晩、主の使いによってアッシリヤ軍十八万八千人を打ち殺した。セナケリブは慌てて国に帰ると、そこで息子に刺し殺されてしまった。これが神のなさることである。神に信頼し、神の前に静まるとき、神はその信仰に応えてくださる。「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」(詩篇46:1)
神の前に静まろう。私たちの人生にも林の木々が揺れるように動揺することが起こるが、そのようなときに私たちに求められていることは、この主の前に静まることなのである。
まとめ(自分に適用してみましょう!)
・あなたは今、何を恐れていますか?それをどのように解決しようとしていますか?
・あなたは神が全能者であり、あなたのために働いておられることを信じていますか?あなたにとって主の前に静まるとは、どういうことですか?