「共におられる神」 N011
はじめに
14節に「その名をインマヌエルと名付ける」とある。これは「神はわれらとともにおられる」という意味である。私たちの信じる神は、神社や仏閣に行かなければおられない神ではなく、いつも私たちと共におられる神である。
Ⅰ.しるしを求めよ(10-12)
エフライムにアラムがとどまったという知らせを聞いたアハズの心は、林の木々が揺れるように動揺した。そんなアハズに対して主はイザヤを通して「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。」と告げたが、彼は静かにしていることができなかった。アッシリヤに助けを求めてその難局を打破しようとしたのである。そんなアハズに主は仰せられた。「しるしを求めよ。」と。しるしとは証拠としてのしるしである。主に信頼するなら守られるというしるしだ。それに対して彼は、「私は求めません。主を試みません。」と答えた。これは一見信仰的なようだが、実際は全く逆であった。主が求めよと言われるなら求めることこそ信仰的なのに、彼はそれに従わなかった。神よりもアッシリヤに信頼していたからだ。主が私たちに求めておられることは、私が主に求め、それを受けることによって、喜びに満ち溢れることである。
Ⅱ.神からのしるし(13-17)
アハズがしるしを求めないので、主みずから、彼に一つのしるしを与えられた。それは、処女がみごもって男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づけられるということである。どういうことか?マタイはこの箇所を引用して、イエスが処女から生まれたという事実を書き記すことで、イエスがメシヤであるとした。(マタイ1:22,23)しかし、預言は普通その置かれた状況に対して語られているのと同時に、遠い未来のことを語っている。この場合、敵であるエフライムとアラムの連合軍を神が打ち破ってくださるしるしであるはずだ。それなのにキリストの誕生について預言されているとしたら、あまりにも飛躍しすぎている。いったいこの処女とはだれのことなのか?また、処女から生まれてくる男の子とはだれのことなのか?これは8章3節に出てくる女預言者のことであり、その女預言者から生まれてくる子「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」(「略奪者はすみやかにやって来るという意味」である。そう、これはアッシリヤのことであった。その預言のとおり、その数年後にアッシリヤがアラムとエフライムを攻撃して打ち破った。
しかし、このことがキリストの誕生といったいどういう関係があるのか?本当の救いはイエス・キリストだということである。確かにアハズはアッシリヤによってアラムとエフライムに勝利できたかもしれない。しかし、そのつけはその後でやってくることになる。何と今度はそのアッシリヤによって攻められることになるのだ。ゆえにアッシリヤは本当の救いではない。ただ一時的な危機を逃れるだけのものでしかなかった。本当の救いは処女から生まれるメシヤだけである。
Ⅲ.インマヌエル(18-25)
なぜこのメシヤこそ本当の救いなのだろうか?なぜなら、キリストはアラムやエフライムではない、あるいはアッシリヤでもない私たちを永遠の滅びに追いやろうとするサタンの力、すべての悪の根源である罪から救ってくださるからである。キリストはそのために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられた。十字架と復活によって救いのわざを完成してくださった。だからここに本当の救いがある。十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられた方は、今も生きて私たちのためにとりなしてくださる。この方にあって、私たちはすべての不安と恐れ、問題と苦しみから解放され、真の平安を得ることができるのである。このインマヌエルの主は、私たちを罪から救う時だけでなく、私たちが祈る時も、また、私たちが福音を宣べ伝えるために出て行く時も、いつも、私たちとともにいてくださる。この方に信頼することこそ、私たちは救われ、勝利ある人生を歩むことができるのである。
まとめ(自分に適用してみましょう!)
・あなたは、しるしを求めていますか?何にそのしるしを求めていますか?
・神ではないものに信頼して失敗した経験がありますか?あるいは信頼して守られたという経験がありますか?考えてみましょう。
・あなたは、どのようなことにおいて主がともにおられること求めていますか?罪のゆるしにおいて、それとも祈りにおいて、あるいは伝道において、あるいは、その他のことにおいてですか?どんなことにおいても主がともにおられることを信じて祈りましょう。