「エッサイの根株から出る若枝」 N016
はじめに
きょうのところには、やがて来られるメシヤがエッサイの根株から出ると記されてある。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」のである。
Ⅰ.エッサイの根株から出る若枝(11:1)
エッサイの根株とは、ダビデの家系を指している。というのは、エッサイとはダビデの父親のことだからである。しかし、なぜダビデとは言わないでエッサイと言ったのか?それはやがて来るメシヤはダビデの家系から生まれるみどりごでありながら、へりくだった状態で生まれることを示すためであった。エッサイは羊飼いで、身分が低かった。エッサイというのは侮辱的で、屈辱的な表現であったのだ。また、「根株」というのは切り株のことであるが、イスラエルはまさに根株のような状態であった。シーンと静まりかえった森の中で木々が切り倒されて根株しか残っていない絶望的な状態だった。そのようにシーンと静まりかえった中に、それを打ち破るかのようにして生まれたのがキリスト、メシヤであった。神は、すべて焼けこけて、もう命さえもないかのような切り株から新芽が生え、そこから若枝が出て実を結ぶようにしてくださった。だれもが絶望している時に、何の望みないと思われるような中に、神の救いが始まったのである。
Ⅱ.若枝であるメシヤの性質(2-5)
では、その若枝として来られるメシヤはどのような方なのか?ここには「その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」とある。これは聖霊の七つの働きを表している。七は完全数でもある。やがて来られるメシヤは主の霊、聖霊によって、完全な主の働きをしてくださる。それと同じように、主の霊をいただいているクリスチャンも聖霊によって神のわざを行うことができる。それなのに、なぜ私たちは聖霊の力がないのか?求めていないからである。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば、見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(ルカ11:9-10)天の父は、求める人たちに、聖霊を下さる。1回や2回ではなく、何回も求め続ける者でありたい。
Ⅲ.若枝であるメシヤの支配(6-9)
第三に、この若枝として来られるメシヤが支配する王国はどのようなものかを見てみたい。6節には「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し」とある。これはメシヤであられるキリストが再臨した後にもたらされる千年王国の光景だ。その時、狼は羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏すようになる。文字通りの平和な世界が樹立されるのである。なぜなら、キリストが再臨されるその時、人類にのろいをもたらした罪を完全に贖ってくださるからだ。アダムとエバが犯した罪の影響はこの人類ばかりでなく、自然界、動物界全体に及んでいった。その結果、弱肉強食といったことが起こったのである。しかし、その罪が贖われることでそうした敵意も完全に葬り去られ、文字通りの平和がもたられるのである。
しかし、その神の国は、キリストを救い主として信じ罪が赦されたクリスチャンの中に既に来ている。「神の国はいつ来るのか」というパリサイ人の質問に対して、主イエスは「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではない。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:21)と言われた。神の国は既に私たちのただ中にある。私たちはその救いの完成を待ち望んでいるのだ。「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」(ヘブル9:28)主がいつ来られても大丈夫のようにこの若枝であるメシヤを信じ、その到来を待ち望む者でありたい。
まとめ(自分に適用してみましょう!)
・あなたは切り株のような状態ではありませんか?そのような絶望的な状態の中に、神は救い主を誕生させてくださったことを信じますか。
・あなたは聖霊に満たされていますか?聖霊に満たされることを求めていますか?あなたはどのようにして聖霊に満たされることを求めすか?
・あなたは主の来臨の備えができていますか?救い主イエスを信じて罪が赦されていますか?