「主にたよれ」 N015
はじめに
きょうのところはイスラエルではなく、アッシリヤに向けて語られたことばである。アッシリヤはイスラエルを懲らしめるために神が用いた道具でしかなかったのに高ぶってしまった。そのアッシリヤに対して語られている。
Ⅰ.高ぶらないで(10:5-15)
その第一のことは、高ぶらないようにということである。アッシリヤは、神の怒りの杖、憤りのむちにすぎなかったのに、その度を超えてしまった。ただイスラエルを懲らしるだけでなく、滅ぼそうとした。彼らは自分たちが神の道具であるとは思わず、完全に自分たちのやり方に徹した。「斧は、それを使って切る人に向かって、高ぶることができようか。のこぎりは、それをひく人に向かっておごることができようか。」できない。それは棒が、それを振り上げる人を動かし、杖が、木でない人を持ち上げるようなものである。斧やのこぎりは、あくまでも道具でしかない。道具としての役割を考えそれに徹していかなければならなかった。カール・ヒルティーは、「人間の力の秘密は、神の道具であるという性質にある。なぜなら、すべての永続的な真実の力は神のものであって、人間のものではないからである。」と言った。私たちが用いられるのは、私たちが信心深いからではない。敬虔なクリスチャンだからでもない。頑張っているからでもない。聖いからでもない。他のクリスチャンよりも立派だからでもない。それはすべて神の恵みである。
イエスは、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」と言われた。イエスこそまことのぶどうの木であって、私たちはただの枝にすぎない。枝だけで実を結ぶことはできない。イエスにつながって初めて実を結ぶことができるということを覚え、慎ましく歩む者でなければならないのである。
Ⅱ.高ぶる者は罰せられる(16-19)
不遜にも神に反逆して高ぶったアッシリヤに対して、主はどうされるか?「それゆえ、万軍の主、主は、その最もがんじょうな者たちのうちにやつれを送り、その栄光のもとで、火が燃えるように、それを燃やしてしまう。」(16節)このことばの通りに、アッシリヤの王セナケリブはユダに破れて敗走した。当時世界最強と言われた軍隊が、日本の四国ほどの面積しか持たないユダに敗れたのである。そして息子の代になるとこの国は弱体化してやせ衰え、最終的にはバビロンに敗れ完全に滅んでいくことになる。
Ⅲ.主にたよれ(20-34)
「その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家ののがれた者は、もう再び、自分を打つ者にたよらず、イスラエルの聖なる方、主にたよる。」(20節)「その日」とは世の終わりの日のことである。世の終わりの7年間の患難時代のことだ。その日になると、イスラエルの残りの者は、イスラエルの聖なる方、主にたよるようになる。まことの神であり、救い主である主に立ち返るようになるのである。だからアッシリヤを恐れてはならない。主の怒りが彼らを滅ぼしてしまうからだ。かつてイスラエルがエジプトを出て行く際、エジプトが執拗に追いかけて来たとき、モーセが紅海の上に杖をかざすと、海の水が真二つに分かれた。それで彼らはその乾いた道を通って救われた。それと同じように、主は私たちを奴隷の状態から、目の前の問題から救い出してくださる。
あなたが思い煩っていることは何か?怖がっていることは何か?あなたが勝手にあきらめていることは何か?その支払いがどれだけのものだというのか。その病がどれほどのものだというのか。それがどんなに大きなものであっても、地獄と等しいほど大きなものではない。主は私たちを地獄の滅びから救い出してくださった。でれば、それがどんな問題でも、必ず救い出してくださる。イスラエルの残りの者がイスラエルの聖なる方、主に、まことをもってたよったように、私たちにとってこの方にたよりながら生きていく者でありたい。
まとめ(自分に適用してみましょう!)
・あなたの中には、自分がこれだけ頑張ったから・・という思いはありませんか?自分に与えられたものはすべて神の恵みによるものであると受け止め、神に感謝をささげていますか?
・あなたが不安になり、思い煩い、恐れていることは何ですか?主にたよるなら、主がその問題から救い出してくださるという信仰がありますかれ?そのような確信を持つにはどうしたらいいでしょうか?