「わたしの心は叫ぶ」 N022
13章から、イスラエルを取り囲んでいた周辺諸国に対する神のさばきの宣告が語られている。今回はモアブに対する宣告である。
Ⅰ.一夜のうちに起こるさばき(1-4)
主はモアブに対して語られた。「ああ、一夜のうちにアルは荒らされ、モアブは滅びうせた。ああ、一夜のうちにキル・モアブは荒らされ、滅びうせた。」(1)「アル」とか「キル・モアブ」とは、モアブの町々である。そうした町々が一夜のうちに滅びると、主は言われた。まさに想定外である。しかし、人生にはこのような想定外の出来事が起こる。主の再臨も同じだ。「主の日が盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として無滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦の産みの苦しみが臨むようなもので、それを逃れることは決してできません。」(Ⅰテサロニケ5:2-3)私たちは、主がいつ来られてもいいように、その備えてをしておかなければならない。
Ⅱ.わたしの心は叫ぶ(5)
ここには、「わたしの心はモアブのために叫ぶ」とある。(5)モアブといったらイスラエルの敵である。そのモアブが滅ぼされることは、神にとって、また、イスラエルにとっても喜ばしいことではないのか?主はなぜここでモアブが滅びることに対して泣いておられるのだろうか?それは第一に、神は、ひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われることを望んでおられるからだ。確かに神は罪を罰する方である。しかし、喜んで罰するのではない。いくら言ってもなかなか悔い改めないので、致し方なく罰するのである。神の本心は、ひとりも滅びないで、すべての人が救われることなのである。
第二のことは、このモアブという民族の特殊性にある。モアブはアブラハムの甥ロトの息子である。(創世記19:37-38)ダビデの曾おばあちゃんは、モアブ人のルツであった。ということは、ダビデにはモアブ人の血も流れていたことになる。そして、その子孫に救い主キリストが誕生する。モアブ人はイスラエル人の敵ではあったが、ユダヤ人ととても関係の深い民族だったのだ。そのようなモアブに、主はあわれみの心を持っておられた。私たちの周りにもモアブのような人たちがたくさんいる。私たちの家族や友人、知人である。そのような人たちは神から特別に愛されている人たちでもある。そのような人たちが救われるようにと、主は涙して祈っておられるのである。
Ⅲ.のがれた者と残りの者とに獅子を向ける(6-9)
第三のことは、神は忍耐して私たちが悔い改めるのを待っておられるが、そこには限りがあるということだ。そして、それでも悔い改めない人には、容赦ない神のさばきが臨むのである。ここには、「ああ、ニムリムの水は荒廃した地となり、草は枯れ、若草も尽き果て、緑もなくなった。」(6)とある。水源地であったニムリムの水が塞がれたので、その地域一帯の草は完全に枯れ、草一本も生えないほどに荒れ果てた。それだけではない。モアブののがれた者と、その土地の残りの者とに獅子が向けられる。徹底的なさばきが行われるのである。
これは神のあわれみと矛盾するものではない。神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられる。そして、じっと忍耐して待っておられる。がしかし、そこには限りがあることを覚えておかなければならない。それまでに悔い改めないと、神はモアブに対してなされたようなさばきをもたらされる。神はあわれみ深い方であられるゆえに、そうしたさばきを悲しんでおられる。だから私たちは、うしろの戸が閉じられる前に、この神の和解を受け入れ、悔い改めて神の救いを受け入れなければならないのである。
まとめ(自分に適用してみましょう!)
・あなたは、主が突然来られても大丈夫なように、その備えができていますか?
・あなたの周りにいて、まだイエス様を信じていない家族、友人、知人はだれですか。主は彼らをあわれんでおられます。彼らの救いのために祈っていますか?
・あなたは神の救いを受け入れていますか?もしくまだイエス様を救い主として受け入れていなければ、今、頭を垂れ、キリストを救い主として受け入れる祈りをしましょう。