「わたしは静まってながめよう」 N025
Ⅰ.ただ神に信頼して(1-2)
クシュに対する宣告である。クシュとはエチオピアのことである。クシュは、アッシリヤの攻撃に備えるためにイスラエル(南ユダ王国)と同盟を結ぼうとした。それはユダの王ヒゼキヤにとっても大きな誘惑であったにちがいない。しかし、イザヤを通して主が語られたことは、ただ主に頼れということであった。人は危機的状況に直面すると、すぐに目に見える何かに頼ろうとする。しかし、どんなに偉大な人でも、どんなに力強い国であっても、頼りにはならない。人はみな死んで滅びてしまうからだ。本当に頼りになるのは、この天地を創造された神だけである。ダビデは「私のたましいは黙って、ただ神を待ち臨む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩。わが救い、わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。」(詩篇62:1-2)と言った。この神に信頼するとき、何があっても決して揺るがされない平安が与えられるのである。
Ⅱ.神には時がある(4-6)
なぜ神に信頼するなら揺るがされることがないのだろうか。なぜなら、神は絶対的な方だからである。主はイザヤを通して次のように語られた。「わたしは静まって、わたしの所からながめよう。」(4)クシュが秘密裏にユダと同盟を結ぼうとしていたとき、主は黙ってそれをながめておられた。まさに高見の見物である。全然慌てていない。慌てることなど必要ないのだ。なぜなら、主は圧倒的な力を持っておられるからである。国々が騒ぎ立ち、国民がむなしくつぶやいても、天の御座に着いておられる方は、笑い、あざけられる。
ということは、主はそれを静かにながめて、何もしないということなのだろうか。そうではない。主には時がある。その時を待たなければならない。ちょうどぶどうの木に実が成り始めるとき、実を結ばない枝は切り取られるように、その時が来たら神が働かれる。神は時が熟するのを待っておられる。エジプトにいたイスラエルを救われた時も、四百年の時が必要であった。エジプトでの苦役で苦しみ、神に捨てられたのではないかと思えたその時、神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こし行動を起こされたのである。時が熟するまでには長い時間がかかった。しかし、その時が満ちたとき、神はモーセを立て彼らをエジプトから救い出されたのである。私たちは、この神の時を忍耐して待たなければならない。
Ⅲ.シオンの山に贈り物が(7)
そんなクシュにも、神の恵みが注がれている。「そのとき、万軍の主のために、背の高い、はだのなめらかな民、あちこちで恐れられている民、多くの川の流れる国、力の強い、踏みにじられる国から、万軍の主の名のある所、シオンの山に、贈り物が運ばれてくる。」(7)贈り物とは回心のことである。このクシュ(エチオピア)の多くの人々が、主に立ち返るようになるというのだ。
使徒8:26-38を見ると、エチオピア人の宦官が救われた話しがある。彼は礼拝するためにエルサレムに上って帰る途中、ピリポによって救いに導かれた。世の終わりには、これがもっと明らかな形で現れる。それはエチオピアだけではない。世界のすべての民が主を信じるようになるのである。シオンの山に贈り物が運ばれてくるのである。
まとめ(自分に適用してみましょう!)
・ピンチになったとき、あなたは何に頼っていますか。あなたが主に頼るために必要なことは何ですか。
・あなたの祈りがなかなか聞かれないとき、神に失望していませんか。あなたはどのように神の時を待ち望んでいますか。
・主のみこころは、すべての人が救われることです。そのためにあなたができることは何ですか。