「わたしの民エジプト」 N026
Ⅰ.エジプトに対するさばき(1-15)
エジプトに対するさばきの宣告である。エジプトは偶像で満ちていた。太陽の神、かえるの神、ブヨの神、アブの神など、さまざまな偶像を神として拝んでいた。それゆえに神はエジプトをさばかれる。まず内乱によって、そして、外国の侵略によって、そして、エジプトのいのちの象徴であったナイル川を干上がらせることによってエジプトにわざわいをもたらす。そればかりではない。エジプトは自分たちの知恵を誇り、それに頼っていた。しかし、それがどれほど立派な知恵であっても、神が計られたことを告げることはできない。なぜなら、神から出たことは神の霊によらなければわきまえ知ることができないからである。エジプトは自分たちの知恵に頼っていたので、結局、その知恵に振り回されたことになった。国全体がよろめいてしまったのである。この世の知恵には限界がある。神の知恵に拠り頼む者は幸いだ。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。
Ⅱ.エジプトの救い(16-22)
エジプトに対する神の宣告はさばきの宣告だけではない。彼らの救いについても約束された。「エジプトの国の真ん中に、主のために、一つの祭壇が建てられ、その国境のそばには、主のために一つの石の柱が立てられ、それがエジプトの国で、万軍の主のしるしとなり、あかしとなる。」(19-20)
かつて偶像を拝み、自分の知恵、自分の力を誇っていたエジプトがイスラエルのようになると言われたのである。何ということであろう。考えられない神の恵みである。神はたとえご自身に敵対していた者であっても、悔い改めて神に立ち返るなら赦してくださるのだ。いや、神がエジプトをさばかれるのはエジプトを滅ぼすためでなく、その中で彼らが悔い改め、彼らをいやすためであったのだ。
Ⅲ.わたしの民エジプト(23-25)
ここにはもっとすごいことが記されてある。何とそのエジプトに対して主は、「わたしの民エジプト」と呼んでおられるのだ。神の民とはイスラエルに対して使われることばである。そのことばをここではエジプトに対して用いているのである。「万軍の主は祝福して言われる。「わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように」(25)これほどすばらしい約束があるだろうか。過去にどんなに神から遠く離れていた者でも、神の恵みによって神の民としていただけるのである。
「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」(イザヤ45:22)
主こそ神である。この神の恵みは、あなたにも注がれている。あなたがこの神を仰ぎ見るなら、あなたも救われる。神の民とさせていただくことができるのだ。この救いは地の果てにまで差し出されている。イスラエルから見たらこの日本はまさに地の果てであろう。しかし、こんな偶像に満ちた国であっても、神の恵みから漏れることはない。ゆえに私たちは自分のことだけを考えてはならない。目を全世界に向けなければならない。神の救いは全世界に及んでいる。この神の約束を信じて、このすばらしい救いのみわざを全世界にもたらされていくために、通りよき管となることを求めていきたい。
まとめ(自分に適用してみましょう!
・あなたには、自分の欲望を満たす偶像はありませんか。コロサイ3:5には「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」とあります。あなたの中にはどんなむさぼりがありますか。
・あなたが誇りとしているものは何ですか。この世の知恵ですか。それとも、十字架につけられたキリストですか。
・神はエジプトを「わたしの民」と呼ばれました。かつてどんなに神から離れていても、悔い改めて神に立ち返るなら、神はその罪を赦してくださいます。あなたも主なる神を仰ぎ見て救われてください。あなたが神を仰ぎ見ることを妨げているものがありますか。それは何ですか。