「裸の預言者」 N027
Ⅰ.腰の荒布を解き、足のはきものを脱げ(1-4)
アッシリヤの王サルゴンがペリシテの町アシュドテを取った年、主はイザヤに奇妙なことを命じられた。「行って、あなたの腰の荒布を解き、あなたの足のはきものを脱げ。」裸になれというのだ。いったいなぜ神はこんなことを命じられたのだろうか。これは、預言者の「象徴的行動」と呼ばれるものである。預言者はしばしば自分たちの語ったことばを人々に強く印象づけるために、このように目に見える形で表現した。それはエジプトとクシュがアッシリヤとの戦いに敗れ、裸にされ、はだしで連れて行かれることを表していた。
それにしても、三年間も裸で歩き回るのは普通ではない。常識では考えられない行為である。しかし神は、ご自分のみことばを伝えるために、時にはこのような方法も用いることがある。そのような時に私たちは、一見それが恥ずかしいようなことでも、それに従う勇気と信仰が求められるということを覚えておきたい。
Ⅱ.裸の預言者(2)
それに対してイザヤはどのように応答しただろうか。2節に「それで、彼はそのようにし、裸になり、はだしで歩いた」とある。いくら神の命令とはいえ、また、神に仕える預言者であるとはいえ、公衆の面前で三年間も裸で歩き回るなんて考えられない。狂気の沙汰としか思えない。特に、貴族の出身の身で人々から尊敬と信頼を受けていた彼にとって、かなりの抵抗があったことだろう。なのに彼は神の命令に従い、裸になり、裸足で歩いた。これが信仰である。信仰とは神が命じられることを額面通り受け入れ、それを行うことである。たとえそれが恥ずかしいことであっても、人から見たら気が狂っていると思われるようなことであっても、主が語られたならばそれに従うことなのだ。
キリストは神でありながら私たち人間と同じ姿をとってこの世に生まれてくださった。裸で・・・。そして30年の間神の国の福音を宣べ伝え、病人をいやし、悪霊を追い出し、死人を生き返らせた。ここまではよかった。しかし、その後イエスがイスラエルをローマの圧政から救い出すために来たのではないことがわかると、群衆はこぞって叫んだ。「十字架につけろ」そしてキリストは着ていた衣服をはぎ取られ、むち打たれ、重い十字架を背負ってゴルゴタの道を歩まれた。そして、ついにはその両手両足を釘付けにされ、裸のままで、人々のさらしものになったのである。私たちは、病人をいやしたり、悪霊を追い出したり、死人を生き返らせたりして、人々の役に立ちことならば喜んで行いたいが、人々からさげすまれ、あざけられ、つばをかけられ、十字架にさらしものにされるようなことはしたくない。しかし、キリストに従うとは、キリストが行ったすばらしいしるしや奇跡を行うだけでなく、人々から誹謗中傷されたり、馬鹿にされるようなことであっても、それが神のみこころならば従うことでもあるのだ。
パウロは、「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です」(ピリピ1:21)と告白した。彼はただキリストがあがめられることだけを求めて生きていたのだ。自分はどうでもいい。自分がどんな目に遭っても、何をされても、裸にされても、ばかにされても、卑しめられても、はずかしめられても、変人だと思われようと、自分の身によってキリストのすばらしさが表されるのならそれでいいと思ったのである。それがキリストに従うということなのだ。
Ⅲ.まことの拠り所(5-6)
ここには、イザヤが裸になったのはイスラエルに対するしるしのためであったことが記されてある。クシュを頼みとし、エジプトを栄えとしていたイスラエルが裸で連れて行かれる彼らを見て、自分たちがこれまで拠り所としていたものがどんなにはかないものであったのかをまざまざと見せつけられたのだ。
第二次世界大戦後、日本人の生活の価値基準は、何が善で何が悪であるかであった。その後今日まで、何が得で何が損であるかで測られてきた。しかし、最近は違う。何がホンモノであるかどうかで判断される時代になった。ホンモノとは、何があってもびくともしないもの、決して滅びることがない、永遠のものである。それはこの天地を造られたまことの神だけである。この方に信頼する者は失望させられることはない。この方こそまことの拠り所なのである。これが、イザヤが裸になってまでも伝えたかったメッセージだったのである。
まとめ(自分に適用してみましょう!)
・あなたは、常識的に理解できないことを神が指示されるなら、どうしますか。あなたにとって裸になるとはどういうことですか。
・危機を抜け出すために、あなたはだれに助けを求めますか。今、神があなたに願っておられる従順は何ですか。