「麗しいぶどう畑の歌」 N037
I . 麗し いぶどう 畑 ( l·6)
2 節に「その日、 麗しいぶどう 畑、これについて歌え。」とある。このぶどう畑とはイスラエルのこと ある。かつてイスラエルは酸いぶどうができた畑として、神の怒りと嘆きとして描かれていたが、ここでは「麗しいぶどう畑」である。もう神の怒りはない。神と和を結んだイスラエルに約束されているのは神の守りと祝福だ。「時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラ ルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす。」(6 節)まさに今のイスラエルはそのようになった。 農業の最先進国として、豊かな農作物を全世界に輸出するまでになった。かつてはそうではなかった。そこは荒れ果てた地であった。1948 年にイスラ ルが建国すると、わずか20年で、世界に花やフル-ツを輸出するまでになったのだ。
しかし 、ここ は 「その時が来れば」とある。それはすぐにもたらされるものではない。実を結ぶには時聞がかかる。 その時を待たなければならない。種を蒔いて、水をやり、芽が出て、 花が咲いて、それから実を結ぶ。 その時まで待たなければならない。
我々は、自分の状態を見ては少しも変わっていない現実に打ちのめされることがある。 しかし、時聞がかかる。その時まで待たなければならない。「 あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成さ てくださる。」(ピリピ1:6) あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、必ずそれを完成させてくださる。やがて実を結ぶことかできるようにしてくださる。そう信じて、しっかりと根を張っていきたい。下に根をっ て、それから上に実を結ぶのであるから。
Il . 神の懲らしめがある(7-11)
それだけではない。神には懲らしめがある。7節に「主は、イスラエルを打った者を打つように、イスラエルを打たれ るだろうか。あるいは、イスラエルを殺した者を殺すように、イスラエルを殺されるだろうか。」とある。 これは、異邦の国々に対する神のさばきと 、イスラエルを懲らしめる時の神のさばきには違いがあることを述べている 。アッ シリヤやバビロンに対する神のさばきは完全な滅びであったが、イスラエルはそうではない。イスラエルが完全に滅ぼされることはない。そこに必ず残りの者を残してくださり、その民によってやがて回復できるように、神の救いと あわれみが注がれるのだ。なぜなら、イスラエルは神の契約の民だからである。確かに罪の結果は刈り取らなければなら ないが、それは彼らを滅ぼすためではなく、彼らを懲らしめるためのものである。神はその中で彼らが悔い改め、救われるようになることを望んでおられるのだ。
黙示録3章19節に、わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」とある。神は愛する者を叱ったり、懲らしめたりする。それは彼らが本当の子どもであるからだ。もしそういうことをしなかったら、それは私生児にすぎない。本当の子どもであるからこそ神は叱ったり、むちを加えたりするのだ。
その具体的な懲らしめが 節にある。それがアッシリヤとかバビロンといった国々であった。主は彼らをスパンク棒のようにして用い、イスラエルが悔い改めるように導いておられた。 彼らはまことの神に背いて偶像に頼ったので、彼らを約束の地から追放された。それは彼らにとって激しい苦難の経験だったが、それによって彼らは神に立ち返ることができたのである 。
それゆえに、後らの不義は赦された。祭壇のすべての石を粉々にされた石灰のようにするとか、アシェラ像と香の台をもう立てないようにするとは、根底から悔い改めるということである 。根底から悔い改めてやり直すなら、神はその人の不義を赦される。新しい人生を始めることができるようにしてくださるのだ。
Ⅲ.神は回復させてくださる ( 12·13)
その結果が12 節と13 節である。12 節には「その日、主はユーフラテス川から エジプト川までの穀物の穂を打ち落とされる。イスラエルの子らよ。あなたがたは、ことりひとり拾い上げられる。」とある。これはアッシリヤからエジプトまでの広い領土を回復し、一人も見落とすことなく、すべてのイスラエルを集めてくださるという約束である。そればかりではない。13節には、「その日、大きな角笛が鳴り渡り、アッシリ ヤの地に失われていた者や、エジプトの地に散らされていた者たちが来て、エルサレムの聖なる山で、主を礼拝する。」とある。19章24-25 節には、「その日、イスラエルはエジプトとアッシリヤと並んで、第三のものとなり、大地の真ん中で祝福を受ける。万軍の主は祝福して言われる 。「わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものであるイスラエルに祝福があるように。」とある。すなわち、エジプトやアッシリヤもイスラエルと和睦して、神の祝福を受けるよう になるということである。 神から遠く離れていた異邦人の中からも救われる人を起こしてくださり、共に神を礼拝するようにしてくださるのだ。
何というスケ-ルの大きな祝福であろう。私たちにはそのような回復が約束されている。今はそのかけらの一つも見えないような現実の中にあるが、やがてこのようになるのである。この希望こそ重要である。私たちにとってこの世での生活も大切ではあるが、これから先の希望はもっと重要である。なぜなら、それで永遠が決まるからだ。そして神は、 その永遠においてこのような回復を約束しておられる。私たちはここに望みを置きたい。その望みが今の生活に大きな希望と励ましを与え、そこにどんなに大きな困難があっても、それを乗り越えるカとなるからだ。
時が来れば、実を結ぶようになる。そう信じて、しっかりと根を張っていきたい。やがて芽を出し、花が咲き、豊かな を結んでいく。私たちの信仰は下に根を張り、上に実を結ぶのである。
まとめ(自分に適用 てみましょう!)
・あなたは麗しいぶどう畑ですか?あなたは何と和を結ぼう と していますか?
・あなたの人生は、しっかりと根を下ろしていますか?それをどのように感じていますか?「時が来れば」というみことばを、あなたはどのように受け止めていますか?
・ あなたは、神の懲らしめを受けた時どのような痛みがありましたか?その結果、どのように変わりましたか?
・やがて主は落ち穂を拾い集められるようにあなたを拾い上げてくださるという約束は、あなたにとってどのような励ましを与えますか?