「ここにいこいがある」 N038
Ⅰ.エフライムの酔いどれ(1-6)
再びイスラエルとユダに対して語られる。まずエフライムに対して。エフライムに対して主は、「ああ。エフライムの酔いどれの誇りとする冠、その美しい飾りのしぼんでゆく花。これは、酔いつぶれた者たちの肥えた谷の頂きにある。」(1)と語られた。エフライムとは北イスラエルのこと。北イスラエルは酔いどれのようであった。なぜ?なぜなら、彼らが高ぶっていたからだ。彼らはその豊かな土壌のゆえに農業が盛んで、経済的に豊かであった。それゆえに彼らは高ぶり、酔いどれのようになってしまった。いくら神がさばきを警告しても、何の脅威も感じない鈍感な心になっていた。主はこれを「酔いどれ」と呼んだのである。Iヨハネ2:16に「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」とある。エフライムは特に「暮らし向きの自慢」がネックになっていた。そのようなものを頼りにしていた。そのようなものをまるで神にように頼りとしていたので、聞くべきことが聞けなくなっていたのである。
Ⅱ.戒めに戒め、規則に規則(7-10)
次は南のユダの指導者たちに対する宣告である。彼らもまた酔いどれのようであった。ぶどう酒のためによろめき、強い酒のためにふらつき、幻を見ながらよろめき、さばきを下すときよろけた。彼らは、エフライムとアラムの連合軍が攻めてくるという知らせに対してアッシリヤに助けを求め、アッシリヤによって危機を乗り越えようとした。表面上はうまくいった。その危機を乗り越えて祝いの酒を酌み交わしていた。しかし、昨日の友は今日の敵ということもある。やがてそれが現実のものとなって押し寄せてくることになる。彼らの判断は間違っていた。彼らは神に拠り頼むべきだったのに人に頼ってしまった。酔いどれのようにふらついていたのだ。
そればかりではない。イザヤの鋭い指摘に激しく反発した。「我々をいったいだれだと思っているのか。赤ん坊や幼子に教えるように語るなんて。我々が神の啓示を知らないとでも思っているのか。口を開けば、やれ戒めだの、それ規則だとなんだかんだうるさいな。」と、酔いがまわった口調で反論した。
Ⅱテモテ4:3-4には、世の終わりは、健全な教えに耳を貸そうとしないで、自分に都合のいいことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くようになるとある。聖書の話だけではレベルが低い。もっと高尚な、もっと自分の欲望を満たしてくれるような、自己実現をもたらしてくれるような話を聞きたいというようになる。しかし、聖書はそのまま読んでいくのに値するものである。なぜなら、聖書は聖霊によって書かれたものであって、教えと、戒めと、矯正と、義の訓練とのために有益だからである。聖書をそのまま読んでいけば、聖霊によって自分の欠けが示され、戒めを受け、思いが変えられ、行動が変えられていく。パウロは、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。」(Iコリント1:18)と言った。真理は単純である。そんなに複雑ではない。十字架のことばをそのまま読み、そのまま受け入れていかなければならない。それで十分である。それが私たちに必要とされていることなのである。
Ⅲ.ここにいこいがある(11-13)
それゆえに主は、もつれた舌で、外国のことばで、彼らに語られる。それは彼らには理解できないことばであり、意味不明の言葉である。それはアッシリヤをはじめとする外国の国々のことを指している。そうした国々によって襲われるようにするというのだ。パウロはこれを異言の説明の中で引用している。それは信者のためのしるしではなく、不信者のためのしるしです・・・と。(Iコリント14:22)この不信者こそ、ここでいう神のことばを聞こうとしない人たちのことである。彼らは神のことばを聞こうとせず、神の賜物も信じていなかった。そのような人たちに主は、彼らがハッとするようなしるしを送られる。それがもつれた舌であり、外国のことばであった。
そういう人たちにはいこいはない。そういう人たちはいつも人間的になり、神の働きを認めようとしない。しかし、まことの救いはイエスにある。まことのいのち、まことのいやし、まことのやすらぎはイエスにある。それを受け入れなければならない。主イエスは、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)と言われた。このイエスにやすらぎがある。だれでもイエスのところに行きイエスから学ぶなら、いこいが得られる。それを単純に信じて受け入れなければならない。そうすれば、あなたにも安らぎが来るのである。
まとめ(自分に適用してみましょう!)
・あなたにも、自分は豊かになったから大丈夫だという過信、暮らし向きの自慢はありませんか。神のことばを素直に聞くとこができますか。
・あなたはユダの霊的リーダーたちのように自分に都合のいいことを言ってもらうために、気ままな願いをもってみことばを聞いていませんか。聖書のみことばから教えられたいという純粋な願いがありますか?
・あなたにはいこいがありますか?へりくだった心で神のみことばを聞こうとしていますか?