「義人の道」 N036
Ⅰ.義人の道は平らです(7-11)
この26章には、世の終わりの千年王国において、ユダの国で歌われる歌が記されてある。7節には、「義人の道は平です。あなたは義人の道筋をならして平にされます。」とある。それは何の障害や困難もないということではない。そうした障害や困難があっても主がその道をならして平にしてくださるので、つまずいたり、倒れたり、迷ったりすることがなく、まっすぐに進んでいくことができるということだ。
では、「義人」とはどのような人のことを言うのか?ここにその特徴が書かれてある。それは神を慕い求める人である。義人とは何一つ悪いことをしたことがない正しい人のことではない。聖書が言っている義人とは、イエス・キリストを信じて救われている人のことである。なぜなら、義人はいない。ひとりもいないからだ。すべての人が罪を犯したので神からの栄誉が受けられなくなってしまった。ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるようになったのだ。
あなたは神を慕い求めているだろうか?イエス様は「義に飢え渇いている人は幸いです。その人は満ち足りるからです。」(マタイ5:6)と言われた。信仰によって義と認められた人は、今度はその救いが完成する日を待ち望み、いつも主を慕い求めなければならない。そのような人が満ち足りるのである。
Ⅱ.義人の道には繁栄がある(12-15)
第二に、義人の道には繁栄がある。12節には、「主よ。あなたは、私たちのために平和を備えておられます。私たちのなすすべてのわざも、あなたが私たちのためにしてくださったのですから。」とある。そして13節では、「私たちの神、主よ。あなた以外の多くの君主が、私たちを治めましたが、私たちは、ただあなたによってのみ、私たちは、ただあなたによってのみ、御名を唱えます。」とある。すばらしい告白である。私たちもかつては罪の奴隷として、罪の支配の中にあった。けれども、神は私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子の支配の中に移してくださった。(コロサイ1:13)私たちはこの御子の支配に生きる者とされたのだ。そのような者にもたらされるのは繁栄と祝福である。15節には、「主よ。あなたはこの国民を増し加え、この国民に栄光を現し、この国のすべての境を広げられました。」とある。これが世の終わりの神の民の姿である。私たちもこのように告白していい。「いや、私にはそんな大した能力はないから・・・」とか、「それは私の性分ではないから・・」と言って、小さくまとまってはいけない。この私を通して神の栄光を最大限に現すことができるように祈らなければならない。
ヤベツは、悲しみのうちに産まれた子どもであった。おそらくヤベツの母親は彼を産んだとき、父親が亡くなっていたのかもしれない。彼女は肉体的にも、精神的にも、経済的にも大変な苦しみのなかにあったのだ。それで彼女は彼を「ヤベツ」(悲しみの子)と名付けたのである。それは彼の心に大きな傷を与え、思春期には自分の名前を呼ばれるごとに、かなり悩んだに違いない。しかし、そんなヤベツが他の兄弟たちよりも重んじられた。それは主が彼の祈りに答えられたからである。ヤベツはこう祈った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」(I歴代誌4:10)その祈りに主が答えられたのだ。義人の道には繁栄がある。私たちもキリストにある新しい者として、キリストにあって罪ゆるされた者として、主が祝福してくださるように、主が地境を広げてくださるようにと祈ることが許されているのである。
Ⅲ.義人の道には守りがある(16-21)
第三に、義人の道には守りがある。16節には、「主よ。苦難の時に、彼らはあなたを求め、あなたが彼らを懲らしめられたので、彼らは祈ってつぶやきました。」とある。これは大患難時代における苦難のことである。その苦難の時に、彼らは主を求めた。自分たちが槍で突き刺した方を見て、悔い改めたのだ。大患難は彼らにとっては確かに苦しみの極みであったが、その中で彼らは悔い改めて、主に立ち返った。心を注いで祈るようになった。
人は順境の時には祈ろうともしないが、逆境や苦難の時には真剣に、切実に祈る。苦難は人を祈りへと向かわせる。痛みが祈りを産み出すのだ。現代では痛みがあるとすぐに薬に頼ろうとするのであまり痛みを感じないが、そうした痛みが祈りを生み出し、人生の豊かさへと導いていくのである。そうした苦難の中にも神の守りがあるのだ。
しかし、最大の守りはイエス・キリストにある。20節には、「さあ、わが民よ。あなたの部屋に入り、うしろの戸を閉じよ。憤りの過ぎるまで、ほんのしばらく、身を隠せ。」とある。これは大患難時代において、神の残りの者に勧められていることだ。神の激しい怒りの中にも、神は彼らのために隠れ部屋を備えてくださり、さばかれないように守ってくださるという約束である。これはちょうどイスラエルの出エジプトの過越の時に似ている。神の民は贖いの主の血が塗られた家に入り、戸を閉じ、身を隠すことによって救われたように、世の終わりの患難時代においても、主はご自身の民を守ってくださるのである。
しかし、それはイエス・キリストを指し示すものであった。この救いはイエス・キリストによって完全に成就するのである。確かに患難時代におい神の民であるユダヤ人は神が備えてくださる部屋に入ることによって守られるが、イエス・キリストを信じるクリスチャンに約束されているのは完全な御国である。「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」(Iテサロニケ5:9)その時、クリスチャンは雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのだ。そのようにして、いつまでも主とともにいることになる。地上では不信者に対する神のさばきが行われているその時、クリスチャンは栄光のからだによみがえり、空中で主とともにいるようになるのだ。主イエス・キリストにあって救いを得るようにと定められているのである。
何という希望であろうか。主イエスがその希望を私たちに与えてくださる。イエス・キリストを信じるなら、あなたにもこの希望が与えられる。そして、この地上にあってさまざまな困難に直面しても、この方が助けてくださるという確信をもって力強く歩んで行くことができるのである。義人の道にはこのような確かな守りがあるのだ。
まとめ(自分に適用してみましょう!)
・あなたはどのように主を慕い求めていますか?あなたの中に、主を慕い求める思いがないとしたら、どこにその原因がありますか?
・あなたは、自分を通して神の栄光を最大限に現すことができるように神の栄光と繁栄を求めて大胆に祈っていますか?もしそうでないとしたら、どこに原因があると思いますか?
・あなたは、御怒りに会わないで、主イエス・キリストにあって救いを得るという確信がありますか?もしなければ、イエス・キリストをあなたの救い主として信じて、受け入れてください。