イザヤ28:14-29 レジュメ

「これを信じる者はあわてることがない」                          N039

Ⅰ.これを信じる者はあわてることはない(15-16) 

ここで主はイザヤのメッセージを聞いてあざける者たちに語られた。「主のことばを聞け。」と。彼らは「私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。たとい、にわか水があふれ、越えて来ても、それは私たちには届かない。私たちは、まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから。」(15)と言った。「死」とか、「よみ」とは、エジプトのことである。彼らは北から攻め入ろうとしていたアッシリヤに対抗するためエジプトと同盟を結ぼうとした。エジプトと契約を結べば、たとえアッシリヤが攻めてきても大丈夫だと思ったのである。しかし、それは死と契約を結ぶようなものである。よみと同盟を結ぶようなことなのだ。そんなものは何の役にも立たない。アッシリヤが大洪水のように襲ってきたら、たとえエジプトと同盟を結んでも失望することになってしまう。彼らはただ神に信頼するようにというイザヤのメッセージをあざ笑い、自分たちの考えで、自分たちの力でそれを乗り越えようとしたが、それは全くむなしいことであった。

そこで主は彼らに次のように言われた。「見よ。わたしはシオンに一つの石を据える。これは、試みを経た石。堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることはない。」主は彼らに、彼らが頼らなければならないまことの道を示された。それはシオンに据えられた礎の石である。それは試みを経た石であって、どんなことがあっても壊れたりすることがない堅い石である。何度も何度も検査して証明済みの石なのである。これに信頼するなら、あわてることはない。パウロはこれをローマ人への手紙の中に引用している。彼はこの石こそイエス・キリストだと宣言した。イエス・キリストこそ全く傷のない完全なお方である。イエス・キリストこそこの堅く据えられた礎の、尊いかしら石なのであって、この方に信頼する者は決して失望させられることがないと言った。

我々は当時のイスラエルの指導者たちのようにエジプトと手を組めば守られるのではないかと考える。エジプトとはこの世の象徴だ。この世の力を借りて、この世の専門家を動員して、あの問題、この問題に対処すれば何とかなるのではないかと考えるが、その結果は失望するだけである。これを信じる者は、あわてることはない。ただキリストを信じ、この方にすがることによってのみ、我々は守られるのである。

 Ⅱ.比類なき神のみわざ(17-22)

なのに、彼らは神により頼むことをしなかった。それゆえに神はアッシリヤをもって彼らを懲らしめる。彼らによって踏みにじられるようにされた。それは身を伸ばすには短すぎる寝床のようであり、身をくるむには狭すぎる毛布と同じだ。いざというときに何の役にも立たない。私は生命保険に入っているから大丈夫。銀行にこれだけ貯金があるから、不動産がある、私には健康がある、健康だけが取り柄です、あの資格、この資格があるから食べていくには心配ない。しかし、それは短すぎる寝床であり、狭すぎる毛布である。いざというときに、あなたを守ってはくれないのだ。ほんとうに守ってくれるものは、あなたを地獄の滅びから救い出してくださったイエス・キリストだけである。主はかつてペラツィムの山でペリシテを打ち破った時のように、そのみわざを行われる。それは比類のないみわざだ。このイザヤの時代もエルサレムは何十万人というアッシリヤの軍隊に囲まれたが、ユダの王ヒゼキヤとイザヤが必死に祈ったとき、主の使いが出て行き、一晩で185,000人のアッシリヤ兵を打ち倒した。まさにアメージングである。それはイザヤの時代だけではない。この世の終わりに何十万という地上の軍隊がメギドの丘に集結し、そこで再臨の主に立ち向かっても、主は一息で彼らを滅ぼされる。そのみわざは偉大で、比類のないものである。どの時代であっても、彼に信頼する者は失望させられることはない。

Ⅲ.その奇しいはかりごと(23-29) 

それは、農夫の作業をみればわかる。農夫は土地を耕したら種を植える。その植え方は穀物の種類によって異なる。「ういきょう」や「クミン」といった香辛料の種は手を蒔くが、小麦、大麦、裸麦といった穀物の種は、それぞれうねに、定まった場所に、その境にと、場所が違う。農夫はその穀物の種類にしたがって最も適した方法で、一番最適な場所に蒔いたり、植えたりする。

それは収穫も同じだ。すべてがすべて脱穀機で脱穀するわけではない。ういきょうやクミンは棒を打って脱穀するかと思えば、堅い穀物の実は、脱穀車や馬のかかとを利用して脱穀する。つまり、農作業は作物によっていろいろな手順や法則がある。それと同じように、神は国家や個人を扱う時にもいろいろなやり方や方法があるのだ。大切なのは、その背後に奇しい神のみわざがあることを覚え、その神に完全にゆだねることである。たとえ自分たちの考えや思いでは愚かなことのようであっても、主が最善に導いてくださると信じて従うことが求められているのだ。

主のはかりごとは奇しく、そのおもんぱかりはすばらしいものであ。主はイザヤの時代にユダに対して最善の計画を持っておられたように、私たちにもすばらしい計画を持っておられる。そう信じて、神のみことばをあざ笑うのではなく、純粋に、慕い求める者でなければならない。

まとめ(自分に適用してみましょう!)

 ・あなたには当時の宗教指導者たちのように、単純なイザヤのメッセージを、聖書のみことばをあざ笑うといった心はありませんか。生まれたばかりの乳飲み子のように、みことばの乳を慕い求めていますか。

・あなたはこの世のもので自分を守ろうとする思いはありませんか。あなたが頼りとしているものは何ですか。そのことで失望させられたことはありませんか。あなたがイエス・キリストだけに信頼するために必要なことは何ですか。