「反逆の子ら」 N041
Ⅰ.何もしないラハブ(1-7)
主は、南ユダを「反逆の子ら」と呼んだ。それは「彼らははかりごとをめぐらすが、わたしによらず、同盟を結ぶが、わたしの霊によらず、罪に罪を加えるばかり」(1節)だったからである。その当時、南ユダにはアッシリヤの脅威が迫っていた。アッシリヤは北イスラエルをのみ込むと、破竹の勢いで南ユダに迫っていたのだ。いったいどうすればいいのか。ユダはエジプトに助けを求めた。しかし、それは主によることではなかった。神を抜きにしたはかりごとだったのである。人がはかりごとをめぐらすこと、計画を立てること自体は問題ではない。問題は、その計画が神を抜きにしたものであり、自分であれこれとはかりごとをめぐらしてしまうことである。しかし、私たちはまず神に求めなければならない。神には計画があることを認め、その神の計画の中にむしろ私たちが参画していかなければならないのだ。そうではなく人に頼るととんでもないことになる。ユダは神の指示をあおごうとせずユダに下って行こうとした。そこに安心を求めた。しかし、その結果は恥であり、侮辱であった。また、そこには苦難と苦悩が伴った。なのに、エジプトは何の役にも立たなかったのである。ここに「何もしないラハブ」(7節)とある。「ラハプ」とは騒ぎ立てるとか、威張り散らすという意味である。いかにも強そうで頼りになるかと思ったら何もしない。ここの別訳は「病気で休んでいるラハブ」である。寝たきりで、何もできない状態だった。それがこの世である。南ユダはそのようなものに頼ろうとしていたのだ。しかし、彼らがまず尋ねなければならなかったのは神であり、神に頼らなければならなかった。神だけが全能者であり、真に助けとなられる方なのである。
Ⅱ.主の小道を歩もう(8-11)
神はイザヤに、ご自分のみことばを書き記すようにと言われた。それは、彼らの苦悩は彼らが神のことばに従わなかったからであることを示すためであった。神のことばこそ唯一信頼に値するものである。なのに、彼らはこの神のことばをどのように受け止めたであろうか。「彼らは予見者に『見るな』と言い、先見者には『私たちに正しいことを預言するな。私たちの気に入ることを語り、偽りの預言をせよ。』」(10節)と言った。何ということか。聖書をねじ曲げて、自分たちに都合いいように語れというのだ。なぜ彼らはそのように言ったのだろうか?それはイザヤをはじめとした預言者たちが正しいことを知っていたからだ。しかし、それは自分たちの都合に合わない。気に入らなかった。だから自分たちが気に入るようなことを語ってもらいたかったのである。しかし、それは道からそれ、小道からそれることであった。それは、神ご自身を拒否していることと同じことである。彼らは口では神を信じていると言いながらも、その実は神を退けていたのだ。ただ自分たちに都合のいい神を造っていたにすぎない。その神をイエス・キリストと呼んでいただけだったのである。
人はみな自分にとって都合のいい話を聞きたい。嫌なことは聞きたくない。なめらかな言葉、受け入れやすい言葉を聞きたいのだ。しかし、箴言27:5には、「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。」とある。時として心にグサッと突き刺さるようなことばであってもそれが神のことばであるなら、それを神からの愛のむちとして受け止めるものでありたい。そうした懲らしめによって、私たちは成長を遂げていくことができるのである。
Ⅲ.立ち返って静かにせよ(12-15)
もし神のことばをないがしろにし、しいたげと悪巧みに拠り頼むなら、どのようなとになるのか?「それゆえ、このあなたがたの不義は、そそり立つ城壁に広がって今にもそれを倒す裂け目のようになる。それは、にわかに、急に、破滅をもたらす。」(13節)そこには破滅しかない。ちょうどほんのわずかな亀裂が城壁全体を崩してしまうように、神のことばを退ける人は必ず崩壊を招くことになる。それはにわかにやってくる。急にもたらされる。そして、その破滅は、陶器師のつぼが容赦なく打ち砕かれるときのように、粉々に砕かれる。もはやその破片で、炉から火を集めたり、水ためから水を汲むほどのかけらさえ見いだされない。もう人生をやり直せないほどに、これまでの人生が一つも役に立たないほどに砕かれるのである。
これは警告である。反逆の子らへの警告だ。彼らははかりごとをめぐらすが、神にはよらない。窮地になれば、自分にはこんな計画がある。これに頼れば何とかなると考える。十分蓄えがあるから大丈夫。これまでの経験で何とかなる。あの人に頼めば打開できる・・・。とあれこれと思いをめぐらすが、神の霊によらない。それは明らかに罪である。その結果は恥であり、侮辱である。遠回りして、苦労して、さまざまな危険にさらされるものの何の役にも立たない。そのまま歩めば最後は小さな裂け目からすべてが崩壊してしまう。粉々になってしまう。今までの人生はいったい何だったのかと思うほど、粉々に砕かれてしまうのである。これまで蓄えたものも役に立たない。得た資格も役に立たない。あんなに健康に留意してからだを鍛えても、あるとき何の役にも立たない時がやってくる。
では救いはどこにあるのか?「立ち返って静かにすれば、あなたは救われ、信頼すれば、あなたは力を得る。」(15節)あなたが親しくすべき方は神である。そして、いつも近くに置くべきものは聖書だ。聖書を通して神に出会い、そのみことばを聞き、それに従うなら、あなたは救われる。力を得る。どうか破滅ではなくこの救いの道を歩んでほしい。反逆の子にならないで、神に喜ばれる子になっていただきたい。
まとめ(自分に適用してみましょう!)
・あなたの人生にはどんな脅威がありますか。その危機の状況で、あなたはどこに助けを求めていますか?。
・あなたは聞きたくない聖書のことばを聞くとき、どのように反応していますか?「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。」という聖書のことばをどう思いますか。
・あなたの人生には小さな亀裂はありませんか。あなたはそれをどのように修復しようとしていますか?