「この方以外に救いはない」 N044
Ⅰ.心を尽くして主により頼め(1-3)
ここでもエジプトにより頼むことがいかに愚かなことであるかが語られている。北からアッシリヤが攻めて来てエルサレムを包囲したとき、彼らはイスラエルの聖なる方に目を向けず、エジプトの馬に、多数の戦車と、非常に強い騎兵隊とにより頼んだ。人はすぐに目に見えるものに頼ろうとする。目に見える力、能力、技術力に頼ろうする傾向がある。それはイスラエル(南ユダ)も同じだった。彼らはエジプトの軍事力に頼ろうとした。そういうものに目を留めていたのである。しかし、クリスチャンとは神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスの力を誇り、人間的なものを頼みとしない人たちである。(ピリピ3:3)心を尽くして主により頼まなければならない。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにしてくださる。
なぜ主に拠り頼まなければならないのだろうか。それは「主は、知恵ある方、わざわいをもたらし、みことばを取り消さない」(2)からである。神は全知全能である。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い。(Iコリント1:18-25)これほど確かな保障はない。世界中を敵に回しても、それ以上に力のあるこの方がついていれば鬼に金棒である。だから、この方を恐れ、この方に頼らなければならないのである。
Ⅱ.エルサレムを守られる主(4-5)
たとえアッシリヤが攻めて来ても大丈夫。「万軍の主は飛びかける鳥のように、エルサレムを守り、これを守って救い出し、これを助けて解放する。」(6)この言葉通りに、主の使いがアッシリヤの陣営に出て行き、一晩で18万5千人を打ち倒した。まさに主は飛びかける鳥のように、エルサレムを守ってくださった。それは世の終わりに起こる預言でもある。やがて世界中の軍隊がメギドの丘、ハルマゲドンに集結し、主とその勢力に向かって対抗する。しかし、主は天からやって来てエルサレムに着座されると、御口の剣をもって敵を滅ぼされる。(黙示録19章)まさに飛びかける鳥のように、エルサレムを守られるのである。そしてそれはいつの時代も同じである。主はエルサレムであるご自身の民の上に特別に御目を注いでくださり、これを守り、守って救い出し、これを助けて解放してくださる。だから私たちはこの方を待ち望み、この方により頼まなければならないのである。
Ⅲ.この方以外に救いはない(6-9)
それゆえ、主はイスラエルに仰せられる。「あなたがたが反逆を深めているその方のもとに帰れ。」(6)悔い改めて、正しい方向に転換するようにと言うのだ。そうすれば、親鳥がひな鳥を守られるように、主はその愛によって守られる。ここには「アッシリヤは人間のものでない剣に倒れ、人間のものでない剣が彼らを食い尽くす。」(8)とある。これは主の使いがアッシリヤの兵士18万5千人を打ち倒したことを指している。彼らが何かしたから救われたのではない。ただ主の使いが出て行き、彼らを打ち倒されたので彼らは救われたのだ。救いは人間の力によるものではない。私たちを究極的なさばきから救うことができるのはイエス・キリストだけである。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名の他に救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)私たちはこの方に目を向け、この方を求め、この方に拠り頼まなければならないのである。
まとめ(自分に適用してみましょう!)
・あなたが恐れているものは何ですか?あなたにとってのアッシリヤは何ですか?その強大な敵(問題)に対して、あなたはどのように対処しようとしていますか?
・あなたが目を向けているのは何ですか?何を求めていますか?