イザヤ32:1-20 レジュメ 

「義は平和をつくり出す」                             N045

Ⅰ.高貴な人は高貴なことをする(1-8) 

神ではなくエジプトに頼っていたユダに対してさばきを警告した神は、終わりの日に、親鳥がひなを守るようにユダを守られると約束された。ここでは、その終わりの日に起こることについて語られている。「見よ。ひとりの王が正義によって治め、首長たちは公義によってつかさどる。」(1)ひとりの王とはイエス・キリストのことである。終わりの日、そしてそれに続く千年王国では、キリストが正義によって世界を治める。彼はあらしの避け所のように人々を守られ、砂漠の川のようにいのちを与え、かわききった地にある大きな岩陰のように安息を与える。そこには完全な平和と完全な憩いがもたらされる。(2)それだけではない。「見る者は目を堅く閉ざさず、聞く者は耳を傾ける。気短な者の心も知識を悟り、どもりの舌も、はっきりと早口で語ることができる。」(3-4)これまで霊的に無感覚だった心が変化し、はっきりと見聞きできるようになる。また、これまで悟れなかった神のみことばを悟れるようになり、真理を明確に語れるようになる。「もはや、しれ者が高貴な人と呼ばれることがなく、ならず者が上流の人と言われることもない。」(5)「しれ者」とは「愚か者」のこと、「ならず者」とは、「悪いことをたくらむ者」のことである。彼らは神を恐れず、神の御心に逆らい、みだらなことをたくらみ、貧しい者をないがしろにするが、そういう人たちが高貴な人と呼ばれることはない。高く評価されることは絶対にない。高貴な人は高貴なことを計画し、高貴なことを、いつもする。(8)これがクリスチャンである。クリスチャンは自ら進んで神を礼拝し、飢えている人たち、貧しい人たちに愛の手を差し伸べる。私たちは高貴な人でなければならない。

 Ⅱ.エルサレムを守られる主(9-14)

ここに急に女性たちが出てくる。「のんきな女たち」と「うぬぼれている女たち」である(9)。「のんきな女たち」とは「安逸をむさぼっている女たち」のことである。彼らは神に頼るようにと何度も警告されても霊的に無感覚になっており、恥ずべき生活を悔い改めることをしなかった。また「うぬぼれた女たち」とは「自信過剰な女たち」のことである。彼らが信じていたのは自分自身であった。だから主に信頼するようにと何度も警告されても、「大丈夫。何の問題もない」と言って自分の考えで生きていた。そういう人たちには、突如として滅びが襲う。豊かな収穫を期待し、喜びに酔っていた女たちが、突如として胸を打って、嘆くようになるのである。

Ⅲ.義は平和をつくり出す(15-20) 

「しかし、ついには、上から霊が注がれ、荒野は果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。」(15)そればかりではない。神との和解を達成した平和な社会が現れる。「義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす」(17)からである。「義」とは神との関係である。神との関係が平和をつくり出す。神との関係が正しくないと平和はない。不安になってしまう。平和がほしければ、平穏でいたければ、神との関係を求めなければならないのである。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との関係を持っています。」(ローマ5:1)クリスチャンはイエス・キリストを信じる信仰によって義と認められた者であり、神との間に平和を持っている者である。ゆえに、クリスチャンにはこの平和が約束されている。「わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む。」(18)神の民であるクリスチャンには、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場が与えられている。イエス・キリストはそのためにこの世に来てくださった。キリストは平和の君として来られた。あなたがキリストを信じるなら、あなたにもこの平和が与えられる。アドベントのこのとき、このイエス・キリストの救いを待ち望む者でありたい。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・高貴な人は高貴なことをします。あなたがしていることはどんなことですか。あなたが見ているもの、また計画していることはどんなことですか?

・問題がないからといって今の生活に安住していませんか?その安逸が霊的無感覚となり、主からの語りかけを逃していませんか?

・あなたの家庭は平和ですか?あなたの職場、学校はどうですか?もし平和でないとしたら、どこに問題がありますか?