イザヤ33:17-24 レジュメ

「この方が私たちを救われる」                             N047

Ⅰ.麗しい王(17-19)

「あなたの日は、麗しい王を見、遠く広がった国を見る。」(17)「麗しい王」とはイエス・キリストのことである。キリストは世の終わりに再び来られ、千年王国を樹立する。その預言である。その時、あなたの日は麗しい王を見、遠く広がった国を見るようになる。そこにはもう恐ろしかった事どもはない。「数えた者」、「測った者」、「やぐらを数えた者」はもういない。主が彼らを滅ぼされたからである。これはイザヤの時代で言うとアッシリヤのことである。主が来られ、彼らを滅ぼされたので、彼らはどこかへ行ってしまつた。横柄な民はもう見ないのである。

Ⅱ.祝祭の都(20‐21)

「祝祭の都」とはエルサレムのことである。エルサレムでは主を祝うためのたくさんの祭りが行われていた。そこは安らかな住まいである。天幕が取り払われたり、鉄のくいが抜かれたり、その綱が切られたりすることはない。どんなに敵が強大でもこの祝祭の都が破壊されたりすることは絶対にない。そこに麗しい王が来られ、世界を治められるからである。逆に、そこに多くの川を、広々とした川を見るようになる。キリストが再臨してオリーブ山に立たれるとき、オリーブ山は真っ二つに裂け、エルサレムから湧き水が流れるようになるからである。それはチョロチョロと流れる小川ではない。怒濤のように、まるで洪水のように流れる川である。その川は盗れ、いくつもの川になって流れるようになる。

これは霊的にどういうことを言っているのかというと、イエスを信じる者の心に、このような川が流れるようになるということである。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言つているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水のり||が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37)

これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことである。この時にはまだイエスが栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかった。しかし、キリストが十字架にかかって死なれ、三日日によみがえられ、天に上って行かれた今、イエスが栄光を受けられるとき、御霊は大きな川のようになつて私たちの心に注がれる。もしあなたがイエスを信じ、このイエスにあなたの人生のすべてをささげると決心するとき、あなたの心の奥底にも、この生ける水の川が流れるようになるのである。

Ⅲ。この方が私たちを救われる(22‐24)

「まことに、主は私たちをさばく方、主は私たちの立法者、主は私たちの王、この方が私たちを救われる。」(22)私たちは人をさばくことはできない。また、正しいルールを定め、それを治めていくことも無理である。人はうわべを見るからだ。しかし、主は心を見られる。主はすべてを正しく判断され、完全に治められる。だから「そこに住む者は、だれも「私は病気だ」とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。」(24)これが主が治められる国、千年王国である。その時には足が不自由であつたり、身体的なハンディキャップによつて不自由な生活を余儀なくされることはない。「私は病気だ」という人はおらず、罪責感、罪悪感で悩むこともない。平和に満ちた世界がもたらされる。それはイエス・キリストが治められるからだ。麗しい王であられるイエス・キリストが来られるとき、すべてを刷新される。ゆえに、私たちはこの麗しい王を待ち望む者でなければなせない。新しい年が、この主を待ち望み、主に従い、主を御名だけが崇められる年であるように。すべてのすべてであられるキリストがあがめられる年となるように。

まとめ(自分に適用してみましょう!)

・あなたを取り囲んでいる強大な敵は何ですか。あなたの日は何を見ていますか?目の前の問題ですか、それとも麗しい王でしょうか?

・あなたの心の奥底に、生ける水の川が流れていますか?イエスが栄光を受けられるためにあなたがしなければならない決心は何ですか?