イザヤ33:1-16 レジュメ  

「今、わたしは立ち上がる」                            N046

Ⅰ.主を恐れること(1-6) 

ユダを踏みにじり、ユダとの和平協定を破ってエルサレムを包囲したアッシリヤに対して、さばきのことばが語られる。人を裏切り、踏みにじる彼らは、踏みにじられ、裏切られることになる。それに対して、主にあわれみを求めて祈り、主を待ち望んだユダは、主からあわれみを受けることになる。アッシリヤがどんなに強大であっても主はそれ以上に力のある方だ。この天地を創造された全能者である。この方が正しくさばいてくださる。いつまでも踏みにじられたままではない。いつまでも裏切られたままでもない。私たちは苦難に会うとき、そして、その苦難が長く感じられるとき、神に対する信仰が弱くなってしまうことがある。しかし、このような時こそ、神のあわれみを求めて祈り他のものに頼もうとする不信仰と絶望感を捨てて、神の助けを待ち望まなければならない。なぜなら、主こそあなたの時代の確かなよりどころであるからだ。主こそ知恵、知識であり、救いの富である。不安と激動の時代にあっても、信頼できるのはこの主だけであって、この方を恐れることがあらゆる問題の鍵であり、豊かさの秘訣なのである。

 Ⅱ.主は立ち上がる(7-12)

賠償金を納めることで和平協定を結ぼうとしたユダは裏切られ、完全に滅ぼされようとしていた。「レバノンははずかしめを受けて、しなび、シャロンは荒地のようになり、バシャンもカルメルも葉を落とす。」(9)この世の力で、自分の知恵で何とかしようとした結果、ユダはしおれた葉のようになってしまった。そのとき、ユダの王ヒゼキヤは、ただ主のあわれみを求めて祈った。イザヤにも使いを送り、祈りを要請したのである。そのとき、主が答えてくださった。「今、わたしは立ち上がる」と主は言われる。「今、わたしは自分を高め、今、あがめられるようにしよう。」(10)ある晩に、主の使いがアッシリヤの陣営に出て行き、185,000人もの人を打ち殺したのである。その結果、アッシリヤの王セナケリブは自分の国に帰ったが、彼が偶像の宮で拝んでいたとき二人の息子に剣で殺されてしまった。これまで沈黙していたかのように思われた主が、立ち上がられた。ヒゼキヤの祈りに答えてくださったのである。主はいつまでも黙っておられる方ではない。あなたのために立ち上がられる。あなたの祈りに答えてくださる方なのである。

Ⅲ.神を敬うこと(13-16) 

「遠くの者よ。わたしのしたことを聞け。近くの者よ。わたしの力を知れ。」(13)近くの者とはユダの人たちのことである。彼らの中にはせっかくイザヤが神のことばを語ったのにそれを無視した人たちがいた。彼らはイザヤのメッセージを聞いて神にすがろうとするよりも、あくまでも自分たちの力で窮地を脱しようとした。ここではそのような人たちのことを「罪人たち」とか「神を敬わない者」と言われている。これは「不信者」とか「偽善者」のことである。神を信じていると言いながら、その神に従おうとしない人たちのことである。ただ物理的にシオンにいれば救われるということではない。たとえ神の民と呼ばれる人たちであっても、信仰を持たなければ滅んでしまう。「私たちのうち、だれが焼き尽くす火に耐えられよう。私たちのうち、だれがとこしえに燃える炉に耐えられよう。」(14)だれも耐えられない。それは深く、広く掘られているからだ。そこには火とたきぎとが多く積んであって、硫黄の流れのようにそれを燃やすので、その火は永遠に尽きることはない。これがゲヘナ、地獄である。その火に耐えられる人はだれもいないのである。神を信じない人、信じていると言いながら実のところはそうでない人たちは、この中に投げ入れられる。

けれども、神を信じ、神を敬う人が焼き尽くされることは絶対にない。なぜなら、イエス・キリストがその人の身代わりとなって十字架で死んでくださったからである。キリストがその人の代わりに神のさばきを受けてくださったので、この火で焼き尽くされることは決してない。それは恐怖とはなり得ないのである。そのような人は、正義を行い、まっすぐに語り、わいろを受け取らず、悪には加担しない。そのような人は高い所に住み、そりとりでは岩の上の要害となる。そのような人には日毎の糧が供給される。これが神を信じる人、クリスチャンの姿である。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・困難に直面するとき、あなたは何を求めていますか?神のあわれみを求めて祈っていますか?この世の力に頼ろうとしていません?

・あなたは正義を行っていますか?まっすぐに語っていますか?わいろを取ったりしていませんか?わいろを取ったりしていませんか?悪に無加担しているようなことはありませんか?