イザヤ37:14-29 レジュメ     

「ヒゼキヤの祈り」                            N052

Ⅰ.まず主の前に(14) 

執拗に南ユダに迫るアッシリヤの王セナケリブから手紙を受け取ったヒゼキヤは、それを読み、主の宮に行って、それを主の前に広げた。彼はまな板の鯉のように自分を主の前にさらけ出して祈った。これは信仰者の模範的な姿である。自分が傷つくような文書を受け取ったとき、あるいは容赦ない言葉を浴びせられるとき、私たちはいったいどうしたらいいのだろうか?それをまず主の前に持って行き、主の前に広げなければならない。すぐに弁護士のところへ行って相談するとか、消費者ローンのところへ、専門のカウンセラーに相談するというのではなく、それをまず主のところに持って行き、主に相談しなければならないのである。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6-7)クリスチャンには祈れるという特権が与えられているのに、なかなか祈ろうとしないのはどうしてなのだろうか?神を信頼していないからである。神よりも自分を信じているので、神よりも他のものを信じているので、なかなか神に祈ろうとしないのである。しかし、困難に直面した時に私たちがすべきことは、まず主のところへ行き、それを主の前に広げること、つまり、祈ることなのである。

 Ⅱ.ヒゼキヤの祈り(15-20)

ではヒゼキヤはどのように祈っただろうか?彼はまず神を神として認め、その神をほめたたえた。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。」(16)ケルビムとは天使の最高位にある天使のことである。しかし、イスラエルの神はそんなケルビムのはるか上に座しておられる方であり、この方は天地を造られた全能者であると告白した。これが祈りにおいて私たちが真っ先にすべきことである。あなたが窮地に置かれた時、あなたが真っ先にすべきことは、主を認め、主を賛美することである。まず主の偉大さに目を留め、その偉大さをほめたたえなければならない。そうすれば、いつの間にか自分を覆っていた問題がいかにちっぽけなものであったかに気づくようになるであろう。あんなに悩んでいた問題が、実は問題でもなかったということに気づかされるのである。

それからヒゼキヤは、「主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。」(17)と祈った。主はすべてをご存じであられるのに、なぜこのように祈る必要があるのだろうか?それは、主は私たちと交わりを持ちたいと願っておられるからである。祈りとは神との交わりである。たわいもないことであっても主に祈るなら、主は喜んでそれを聞いてくださる。

しかし、ヒゼキヤの祈りの究極的な目的は何であったかというと、次のことであった。「私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、他のすべての王国は、あなただけが主であることを知りましょう。」(20)そう、ヒゼキヤは祈りの中で主の御名があがめられることを求めた。これが祈りの目的である。主イエスも十字架を前に、ゲッセマネの園で「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と祈られた(マタイ26:39)。たとえ十字架にかけられて死ぬようなことになっても、たとえ自分の願いがかなえられなくても、ただ神のみこころのとおりにしてくださいと祈ること、これが祈りの目的なのである。

Ⅲ.ヒゼキヤの祈りの答え(21-29) 

ヒゼキヤの祈りに対して、主はどのようにお答えになられたであろうか?主はイザヤを通して次のように言われた。「あなたは聞かなかったのか。昔から、それをわたしがなし、大昔から、それをわたしが計画し、今、それを果たしたことを。」(26)「あなたがすわるのも、出て行くのも、入るのも、わたしは知っている。あなたがわたしに向かっていきりたつのも。」(28)どういうことか?すべてのことは主がご計画され、主が成されたということである。すべてのことに主の御手が働いていた。アッシリヤはそれらすべてのことを自分たちの力によって成し遂げたと自分たちの業績を誇ったが、そうではない。彼らはただ神の道具として用いられたにすぎなかった。すべては主の御手の中にあったのだ。このように神の主権を知ることは重要なことである。すべてのことの中に主の御手があることがわかるとき、安心することができる。たとえ苦しいこと、辛いこと、嫌なこと、理不尽に思えることがあっても、そこにも神の御手が働いていることを知るなら、その状況さえも受け入れることができる。このことはヒゼキヤにとってどれほど大きな慰めであったことか。私たちも何かで悩み、苦しむことがあったら、ヒゼキヤのように主のもとに行き、主に祈ろう。そうすれば、主がその祈りに答えてくださる。あなたの悲痛を祝福へと変えてくださるのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!)

・あなたは問題に直面するとき、どこに助けを求めていますか?あなたが祈ろうとしないのはどうしてですか?

・ヒゼキヤの祈りから何を学びましたか?あなたは神に栄光が帰せられることを求めて祈っていますか?あなたの祈りに必要なことはどんなことですか?