イザヤ42:1-9 レジュメ  

「主のしもべ、イエス・キリスト」            N062

Ⅰ.神のしもべ、イエス・キリスト(1) 

1節に、「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。」とある。「わたしのしもべ」とはイエス・キリストのことである。マタイ12:18-21に、このみことばが引用されていることからわかる。イエスは神が選ばれし神のしもべであり、神のみこころにかなった救い主である。神はイエスの上にご自身の霊を注ぎ、国々に公義(神の国とその義)をもたらす。イエスが神の子であるなら、どうして神の霊に満たされる必要があったのか?それは、イエスが人となられたからである。神が人となるためには、神としての特権を捨てなければならなかった。そうでなければ、人になることはできなかったのである。もしイエスが全知全能であったなら、もはや人間ではなかったであろう。しかし、イエスは人として生まれてくださったので、私たちと同じ弱さや同じ苦しみを担われた。イエスは私たちと同じように疲れ、空腹を感じ、のどの渇きを覚えられた。それは彼が人となられたからである。しかし、イエスには神の霊が注がれていたので、神にしかできないことができた。この霊によってイエスは、神の国とその義を国々にもたらすことができたのである。

それは私たちも同じである。今日イエスを信じるクリスチャンにも同じ力が与えられる。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)この聖霊があなたの上に臨まれるとき、あなたも力を受けて、地の果てまで、キリストの証人になることができる。この力がなければただの人にすぎない。何もすることはできない。聖霊が注がれてこそ、あなたも偉大な神の働きをすることができるのである。

Ⅱ.心優しく、へりくだった神のしもべ(2-4)

いったい彼はどのようなしもべか?ここに「彼は叫ばず、声を上げず、ちまたにその声を聞かせない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない。」(2-3)とある。イエスの宣教活動は全く地味なものであった。自分自身をひけらかしたり、人々を集めて大きな伝道集会をしたわけでもない。彼はただ12人の名もない弟子たちを選び、彼らと共に生活をしながら神の国を宣べ伝えた。そこには力ある人や、裕福な人はいなかった。みな無学な普通の人であった。そのような人たちを通して御国の福音を宣べ伝えたのだ。

彼はいたんだ葦を折ることも、くすぶる燈心を消すこともなかった。葦とは風が吹けばすぐに折れてしまうような弱い植物である。まして傷ついていたんだ葦なら全く使いものにもならない。しかし、主はそんないたんだ葦さえも折ることをせず、優しく守り、支えてくれる。また、今にも消えそうで煙を出しているようなランプの芯さえも除き去ることをせず、もう一度新しくしてくださる。まことに主は、まことをもって公義をもたらされるのである。

Ⅲ.国々の光とする(5-9)

神のしもべに与えられた使命は、国々の民が主と契約を結び、彼らが救われるために光となることである。彼は目が見えない者の目を開き、牢獄に閉じこめられている者を解放する。彼は肉体的、政治的に捕らわれている人たちを解放するだけでなく霊的に捕らわれている人たちを、その罪と無知の牢獄から解放してくださる。

この預言のとおり、この預言から700年後に、神のしもべイエス・キリストが現れ、罪と無知の中に盲目となっていた人々を、その罪から救ってくださった。キリストは十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられることによって、罪というやみの中に捕らわれていた人たちを解放してくださったのである。この方以外にはだれによっても救いはない。私たちが救われるべき名としては、私たち人間には与えられていない。だから、この方に信頼し、この方にあなたのすべてをゆだねよう。たとえあなたが将来のことがわからなくても、この方はあなたの未来のことも含めてすべてのことを知っておられる。この方にすべてをゆだねることが最も懸命なことである。そのとき、神はあなたの人生にも奇しいみ業を行ってくださる。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたは、自分の無力さを感じることはありませんか?あなたは聖霊の油注ぎを求めていますか?

・2,3節に見られる主のしもべの姿を見て、あなたはどのような人になりたいと思いましたか?

・あなたは将来のことで不安になっていませんか?将来のこともすべて知っておられる主に、あなたのすべてをゆだねましょう。