「主に向かって新しい歌を歌え」 N063
Ⅰ.すべての者は主を賛美せよ(10-12)
10節に、「主に向かって新しい歌を歌え」とある。主がすばらしい救いの御業を成されたので、その主に向かって賛美をささげるようにというのだ。それは「海に下る者、そこを渡るすべての者、島々とそこに住む者」(10b)のすべてである。おもしろいのは11節に、「荒野とその町々、ケダル人の住む村々よ。声を上げよ。セラに住む者は喜び歌え。」とあることだ。ケダル人とはアラブ人のことである。創世記25:1を見ると、彼らはイシュマエルの子孫であることがわかる。そしてその子孫がケダル人であり、イスラム教を開いたムハンマドである。詩篇120:5-7を見ると、彼らはダビデの時代にもユダヤ人と敵対関係にあった。ユダヤ人とアラブ人の対立は今に始まったことではなく、その歴史のはじめからずっと続いていたことであるが、未来においてはそうではない。未来においてはケダル人も一緒になって主を賛美するようになる。コーランの神アラーではなく、聖書の神主イエスを信じるようになり、共に主を賛美するようになる。ここにキリストの福音のすばらしさがある。福音は敵対関係にあった二つのものを新しいひとりの人に造り上げ、共に主をほめたたえるようにするのである。
Ⅱ.敵を打ち砕かれた主を賛美せよ(13-17)
いったいなぜ主を賛美するのか。それは主が敵を打ち破られたからである。「主は勇士のようにいで立ち、戦士のように激しく奮い立ち、ときの声をあげて叫び、敵に向かって威力を現す。」(13)確かに主は心優しく、へりくだっておられる方であるが、敵に対しては勇士のようにいで立ち、激しく奮い立ち、ときの声をあげて、威力を現す。そればかりではない。主は目の見えないようなイスラエルを捨てるようなことをされず、確かに道へと導いてくださる。それはイスラエル知らない、未だ経験したことのない道かもしれないが、主は母親が幼い我が子の手をとって導くように、私たちの手を取って優しく導いてくださる。であれば、このような主をどうして賛美せずにいられようか。人が造った偶像により頼むことは愚かなことだ。そのような者は必ず恥を見る。あなたのために戦ってくださる主、あなたの人生を確かな義の道に導いて下さる主を、あなたは賛美せずにはいられなくなる。
Ⅲ.罪から立ち返って主を賛美せよ(18-25)
ではどのように主を賛美したらいいのだろうか。主はイスラエルが神に心を留めず、神の御声を聞いても聞き従おうとしないイスラエルの民を見て、驚いておられる。「耳の聞こえない者たちよ、聞け。目の見えない者たちよ、目をこらして見よ。わたしのしもべほどの盲目の者が、だれかほかにいようか。わたしの送る使者のような耳の聞こえない者が、ほかにいようか。わたしに買い取られた者のような盲目の者、主のしもべのような盲目の者が、だれかほかにいようか。」(18-19)彼らは神に買い取られた神のしもべでありながら、神に心を留めることがなかった。それゆえ神はかすめ奪う者(バビロン)に彼らを渡した。その中で彼らが悔い改めて、神に立ち返り、神に赦しを求めるためにである。イスラエルがバビロンに捕らえられるようになったのは、神がそのようにしたからである。時に、私たちが受ける苦しみというのは、私たちの罪の結果もたらされるものである。だからその時には罪を悔い改め、神に立ち返らなければならない。神がさばかれたことを認め、その神に立ち返るなら、そこに希望がある。あなたを愛してやまない主が、あなたに「立ち返れ」と叫んでいるのにそこまでする必要はないと、なおもその状態に留まっていることはないだろうか。神の招きに耳を傾け、心を傾けて、神に立ち返り、主に向かって新しい歌を、その栄誉を心からほめたたえようではないか。
(自分に適用してみましょう!)
・あなたは主に向かって新しい歌を歌っていますか?いくら祈っても神は沈黙されていると感じたことはありますか?そんな時でも失望せずに待つべき理由は何ですか?
・神があなたを見て残念に思われ、嘆かれるような部分があるとすればそれは何ですか?
・神の警告のメッセージを聞かずに失敗したことがありますか?間違いを顧みる時間を定期的に持っていますか。