「わたしを仰ぎ見て救われよ」 N070
Ⅰ.ご自身を隠す神(14-17)
15節に、「イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神。」とある。これは、イスラエルの神は人知をはるかに越えた計り知れないことをされる方であるということ。異教徒のクロス王を用いてバビロンからイスラエルを救うといったことをだれが考えることができであろうか。そのようにだれも考えられないことを神はされる。それゆえ、偶像を作って拝む者は恥を見、はずかしめを受けるが、イスラエルの神に信頼する者は救われる。複雑に絡み合った目先の状況だけを見たら時に挫折することもあるかもしれないが、私たちの背後でいつも神が働いておられることを知り、この方に信頼しよう。
Ⅱ.正義の神、救い主(18-21)
隠れたところで働かれる神は天地を創造された方である。神は、そこに人が住めるようにしてくださった。神はこの地を何の形もない、むなしいものとして造られたのではなく、そこにちゃんと人が住めるように造ってくださった。
それだけではない。19節には、「わたしは隠れた所、よみの場所で語らなかった。」とある。ご自身を隠す神は、その計画を隠したりせずに、明確なことばをもって語ってくださる。
しかも、神はそれを預言として語ってくださった。これから先に起こることを、いったいだれが告げることができるだろう。だれもできない。これから先に起こることを予め、具体的に、正確に語ることができるのは主だけである。それはこの主こそ真の神であるからだ。
Ⅲ.わたしを仰ぎ見て救われよ(22-25)
それゆえに、結論はこうだ。「地の果てのすべの者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」これは19世紀にイギリスで活躍したチャールズ・ハッドン・スポルジョンが回心に導かれたみことばである。彼は救いを熱望して教会を行き巡っていた時、小さなメゾジスト教会に導かれた。大雪で牧師が礼拝に来れなかったのか、その日は靴屋の仕立て屋のような風貌の男が、講壇に上って説教した。その時に開かれたみことばがこれであった。「地の果てのすべての人よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。」彼はこう言った。
「愛する友よ。これは本当に短い聖句です。「見よ」と書いてあります。それは努力のいることではありません。足をあげることでも、手をあげることでもありません。ただ見るだけです。たた見ることを学ぶために大学に行く人はいません。また、そのために千年も費やす必要はないのです。だれでも見ることができます。小さな子どもでもできます。これが、この聖句が言わんとしていることです。そしてこのみことばは、「わたしを仰ぎ見よ」と言っています。ああ、多くの人は自分自身を見ています。自分自身を見ても無益なことです。あなたは決してあなた自身の中に平安を見いだすことはできません。イエス・キリストは「わたしを見よ」と言われました。ある人々は聖霊が働かれるまで待つべきだと言います。しかし、今、あなたがなすべきことはそれではありません。今、あなたが成すべきことはこのキリストを見ることです。ここに「わたしを仰ぎ見て」とあります。このキリストを見てください。」
そのときスポルジョンはキリストを見た。するとその時、雲は消え、暗黒は消え去った。その時彼は太陽を見た。彼は立ち上がり、その熱狂的な人々たちと共にキリストのすばらしい血潮と、彼のみを見上げた。彼は、どうしたらみじめな罪人が救われるのかがはっきりとわかった。それはイエス・キリストを見ることである。イエスを見るとは、イエスを信じることである。このイエスを見る者は救われる。十字架につけられたイエスを信じる者は、みな救われるのである。救われるために必要なことは、ただイエスを見ること、信じることであって、それ以外の何も必要ない。それだけで救われる。これが福音だ。
スポルジョンは、ずっとみじめに生きていた。むなしく生きていた。どんなに人生がんばっても、どんなにおもしろ、おかしく生きたとしても、いつか死んで終わるだけなら、その人生はむなしい。しかし、死んでも終わらないいのちがあるなら、もはや死は恐怖ではない。そこにあるのは永遠のいのちだ。スポルジョンはこのいのちを得たのである。
(自分に適用してみましょう!)
・あなたは背後で働いておられる神が見えなくて嘆いていることはありませんか?神はあなたの考えを越えたところで働いておられることを覚え、あなたの状況のすべてゆだねましょう。
・あなたはキリストを見ています?それとも他のものを見ていませんか?あなたがキリストを見ないのはなぜでしょうか?考えてみましょう。