「運んでくださる神」 N071
Ⅰ.わたしは背負う(1-8)
1節に、「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる。」とある。ベルとはバビロンの偶像の神の名前、ネボは、その息子である。やがてバビロンは滅ぼされ、彼らが信じていた偶像はお荷物となる。古代中近東世界では、戦争は、それぞれの国の神々の戦いであると考えられていた。そして、戦いに敗れた時には、その偶像を担いで逃げなければならなかった。つまり、バビロンの神、偶像の神はお荷物になる神であり、重荷となる神である。
しかし、イスラエルの神、主はそうではない。3節と4節には、「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救いだそう。」とある。人を救うことができず、獣の背中に運ばれていく偶像とは対照的に、イスラエルの神、主は、人を胎内にいる時からになってこられ、生まれる前から運んでこられた。この「になう」という言葉は、1節の「荷物となり」という言葉と全く同じ言葉である。真の神はお荷物のような私たちをにない、運んでくださる。そして、私たちがにないきれない重荷を代わりに背負ってくださった。これは究極的にはイエスが十字架にかかって死んでくださったことを表している。イエスがあなたの代わりに死んでくださったので、イエスがあなたの重荷のすべてを負ってくださったので、あなたはもう罪に悩むことはない。あなたは赦され、いやされた。
そればかりではない。主はこれからも同じようする、と言われた。あなたが年をとっても、あなたがしらがになっても、主はあなたともにいて守ってくださる。まさに偶像の神は運ばれる神だが、イスラエルの神はあなたを運んでくださる神なのである。
Ⅱ.わたしははかり事を行う(9-11)
9節に、「遠い大昔のことを思い出せ。」とある。遠い大昔の事とは何か?それはイスラエルの一連の過去の歴史のことであるが、特にイスラエルがエジプトから救い出された時の出来事を指している。なぜその時のことを思い出す必要があるのか?なぜなら、その時のことを思い出すなら、希望を持つことができるからだ。彼らはバビロンに捕らえられていたが、たとえバビロンに捕らえられていても、エジプトから救い出された主は同じようにバビロンからも救い出してくださる。そういう希望が与えられる。
主は、ご自分のはかりごとを必ず成就し、ご自分が望まれることをすべて成し遂げられる。そのはかりごととは何か?それはイスラエルをバビロンから救い出すということであり、また、全人類を罪から救い出すということである。いったいどのようにしてそれを成し遂げられるのであろうか?主は東から猛禽を、遠い地から、主の計画を実行する者を呼ぶ。それがペルシャのクロス王である。主はこのことが起こる150年も前に預言してくださった。主は、ご自分が計画したことをことごとく行われる。
そして神はあなたの人生にも計画をもっておられる。その計画がどのようなものであるかはわからないが、大切なことは、私たちの未来をも握っておられる方に私たちの人生をゆだねることが最も幸いなことであるということだ。
Ⅲ.わたしは勝利を近づける(12-13)
ここで主は、強情な者、正義から遠ざかっている者たちに、勝利を近づけると言われた。これは驚くべきことである。イスラエルは神にそむく者、反逆する者、強情な者であるにもかかわらず、神は勝利を近づけられる。それが遠くなることはない。たとえ彼らがどんなに神に反逆していようとも、神の救いが遅れることはない。考えてみたら、私たちは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であった。死んでいたのだから、自分から何かをすることはできない。そんな死人同然のような私たちのところに近づいてくださったのは主の方からである。イニシアチブは常に神にある。私たちは罪深い者で、自分で自分を救うことができない無力な存在にすぎないが、そのような者のところに神の方から近づいてくださった。そしてバビロンから救ってくださったように、私たちを罪のバビロンから救ってくださった。わたしの救いは遅れることはない。神の救いはいつもあなたの前に差し出されている。あなたがその救いを受け取るなら、あなたも罪のバビロンから救われ、勝利ある人生を歩むことができる。
(自分に適用してみましょう!)
・あなたは年をとって、心細くなっていませんか?主はこれからもあなたを運んでくださると信じていますか?
・あなたは、自分が救われた時のことを思い出していますか?主はこれからも同じようにあなたを救ってくださると信じていますか?