イザヤ48:12-22 レジュメ  

「しあわせは川のように」                      N075

Ⅰ.わたしに聞け(12-16) 

主はイスラエルに「わたしに聞け」(12)と命じている。これからイスラエルに起こる新しい事について注意深く聞くようにというのだ。その内容とは何か?「わたしがそれだ。」ということである。「それ」とは主こそ初めであり、終わりであるということ、つまり、この天地を創造され、その造られた世界を支配しておられる方であるということだ。その証拠は、クロス王によってバビロンを滅ぼすということをあらかじめ告げられたことである。そのような方は他にはいない。偶像にはそのようなことはできない。ただ主だけができることである。神は実にそのことを150年も前にイザヤを通して告げられた。それは偶然に起こったことではなく、神が成された御業だったのである。それゆえに、イスラエルは近づいて、これを聞かなければならない。集中して耳を傾けなければならない。それが単にイスラエルの歴史に起こった出来事としてではなく、自分の人生の中で実際に生きて働くものとして期待して聞かなければならないのである。

Ⅱ.あなたのしあわせは川のように(17-19)

そのようにして主のことばを聞く時、どのようなことが起こるだろうか?「あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようにあるであろうに。あなたの子孫は砂のように、あなたの身から出る者は、真砂のようになるであろうに。その名はわたしの前から断たれることも、滅ぼされることもないであろうに。」(18-19)「しあわせ」という言葉は、ヘブル語の「シャローム」である。あなたが神の命令に耳を傾けさえすれば、平和が川のように押し寄せてくる。この箇所から「Ive got a peace like a liver」という英語の賛美が生まれた。ヨハネは主イエスのことを、「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」(ヨハネ1:16)と表現したが、まさに神の恵みが、神の祝福が、次から次に押し寄せてくるようになる。

Ⅲ.バビロンからのがれよ(20-22)

それゆえに、主はイスラエルにこう仰せられる。「バビロンから出よ。カルデヤからのがれよ。」(20)不思議なことに、せっかく主がクロス王によってバビロンを滅ぼしイスラエルをその束縛から解放したというのに、まだその中にとどまろうとする人たちがいた。信じられないことかもしれないが、これが現実である。せっかく神がイエス・キリストによって罪の贖いをしてくださったのに、まだ罪の中にとどまっていようとする人たちがいるのである。イエス・キリストがあなたのために十字架にかかって死んでくださり、あなたの罪の重荷を全部引き受けてくださったのに、それを信じないで、まだサタンの支配の下、罪の奴隷として生きることを望んでいる人たちが結構いるのだ。そのような人には平安はない。信じるか信じないかはその人の自由であるが、信じない人には平安はない。なぜなら、平安は自分の力によって勝ち取ることはできないからである。平安を得るためにはただ神に聞かなければならない。神に聞くなら、神は必ずあなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導いてくださる。

その道こそイエス・キリストである。イエスはこう言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)イエスが道である。イエスを通してでなければ本当の平安はない。それがほしいと願うなら、もう虚しい努力は止めてイエスを信じていただきたい。そして、喜びの歌声をあげて、それを地の果てまで響き渡らせよう。イエスはあなたが信じるに値する方なのである。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたは神のみことばを聞くことにどれだけ集中していますか?神のみことばがあなたの人生に実際に生きて働くことを、あなたはどれだけ期待していますか?

・あなたの心に神の平安が川のように押し寄せていますか?もしそうでないとしたら、その原因はどこにあると思いますか?あなたは神の命令に耳を傾けているでしょうか。

・あなたはまだこの世にとどまっていたいという思いはありませんか。あなたが出なければならないバビロンとは何ですか?