イザヤ49:1-6 レジュメ

「主のしもべの歌」                      N076

Ⅰ.主のしもべは神の栄光を現す(1-3) 

イザヤ書には「主のしもべの歌」と呼ばれている箇所が4箇所あるが、この箇所はその一つである。ここには主のしもべの使命が記されてある。いったい主のしもべは何のために来られたのか。第一にそれは、神の栄光を現すためである。3節に「あなたはわたしのしもべ、イスラエル。わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現す。」とある。イエス・キリストは神の栄光を現すために来られた。これは神のしもべである私たちすべてのクリスチャンにも言えることである。私たちは神の栄光を現すために生きている。パウロは、「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」(Iコリント10:31)と言った。私たちが食べるのも、飲むのも、仕事をするのも、勉強するのも、あるいは家族で楽しく過ごすのも、神の栄光のためである。私たちはそのために生かされているということを覚えておきたい。

Ⅱ.主のしもべにはむだな骨折りはない(4)

第二に、主のしもべにはむだな骨折りはない。4節に「私はむだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした。」とある。いったいこれはどういうことか?イエス・キリストの十字架はむだな骨折りだったというのか?そういうことではない。確かにイエスのこの地上での3年半の生涯をみたら、それはむなしい働きであったかのように見える。イエスの働きの初期の頃に集まっていた大ぜいの群衆は、イエスが十字架につけられた頃には皆イエスから離れて行った。それだけ見たらまさに「骨折り損のくたびれもうけ」である。しかし、聖書には次のように語られている。「それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある。」それでも、私の報酬は神とともにある。必ず報われる。この世の基準で成功したかどうかは関係ない。大切なのは神の目でどうであるかだ。それが神のみこころにかなったものであるならばたとえそこに弟子が1人しかいないようであっても、私の報酬は神とともにある。これはどんなに大きな慰めであろう。

私たちも時として、主のために身を粉にして働いても何の報酬もないかのような時がある。いったい何のためにやったのか、すべてはムダだったのではないかと思えることがある。しかし、そうではない。それが神の栄光のためにしたことであるなら、そこに必ず神の報いがある。

Ⅲ.地の果てにまで神の救いをもたらす主のしもべ(5-6)

第三に、主のしもべは神の救いを地の果てにまでもたらす。ここに主のしもべのもう一つの使命が記されてある。それはヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めることである。そればかりではない。主のしもべは諸国の光となって、地の果てまで神の救いをもたらす者となる。それは、神のしもべである私たちクリスチャンに与えられている使命でもある。私たちはキリストのように神との和解の務めを負っている。失われた人を神のもとに集めるという使命を帯びているのである。私たちは地の果てまで、神の救いをもたらす者でなければならない。神は、私たちにそのようなしもべとなることを期待しているのである。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたは何のために生きていると思っていましたか?あなたはどのようにして神の栄光を現すことができますか?

・あなたは主のために働いても何の報いもないと思っていませんでしたか?目先の報いではなく、主が与えてくださる報いに期待しましょう。

・あなたのエルサレムはどこですか。またあなたのユダヤ、サマリヤはどこですか。そのような人たちにどのように神の救いをもたらすことができるでしょうか?