「このわたしが慰める」 N080
Ⅰ.あなたはわたしの民だ(12-16)
神の慰めが続く。主は、「わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。」(12)と言われた。「このわたし」とはどのわたしか?それは、「天を引き述べ、地の基を定め、あなたを造った主」(13)である。つまり、この天地万物を造られた全能者が彼らを慰めるというのだ。にもかかわらずイスラエルはこの主を忘れ、彼らをしいたげる者たちを恐れていた。それはまるで滅びに定められていたかのようである。しかし、彼らは神によって贖われた者たち、永遠の滅びから救われた者たちである。であれば、どうして死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れる必要があるだろう。彼らは滅びから救われただけでなく、パンに事欠くこともない。主がその必要を満たしてくださるからだ。主は、「あなたは私の民だ」(16)と言ってくださる。主がついているなら何も恐れることはない。私たちにとって必要なことは、私たちはこの方によって救われたということ、そして、最高の立場に置かれているということを覚えることである。
Ⅱ.さめよ。さめよ。エルサレム(17-20)
9節ではイスラエルが神に対して「さめよ。さめよ。」と言ったが、ここでは神がイスラエルに対して「さめよ。さめよ。」と言っている。彼らが今、どのような状況にあるのかを、目を覚ましてしっかりと見なさい、というのだ。彼らは主の手から、憤りの杯を飲んでいた。これはバビロン捕囚のことである。「滅亡と破滅、ききんと剣」が彼らを襲っていた。彼らを慰める者はだれもいなかった。その状況をよく見ろ、というのである。いったいなぜそのようになってしまったのだろうか?それは彼らが罪を犯し、神から離れてしまったからだ。彼らが神から離れ、自分勝手に歩んだので、神が怒られたのである。けれども、それは彼らを滅ぼすためではなかった。その現状に彼らが気づき、彼らが神に立ち返るためであった。つまり、神は彼らを愛しておられたので、彼らにむちを加えられたのである。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての者に、むちを加えられる。それは彼らをご自分の聖さにあずからせるため、そして、それによって平安の義の実を結ばせるためなのである(ヘブル12:5-12)。
ある人がこんなことを言っている。「神の目を覚ます祈りは、私たちの目を覚ますものでなければならない。」神に「目を覚ましてくだい」と言うのなら、自分の目も覚まして、自分の置かれた状況がどうなのかをしっかりと見なければならない。そしてもし神から離れているならば、神に立ち返らなければならない。神はそのために懲らしめを与えておられるからである。
Ⅲ.取り上げられた怒りの杯(21-23)
ここで主はご自分のことを、「ご自分の民を弁護してくださる神」(22)と言っている。神は私たちを弁護してくださる方である。神が弁護人ならば、私たちは何も心配はいらない。なぜなら、完全な神が最高の弁護をしてくださるからである。その弁護者なる神がこう言われる。「見よ。わたしはあなたの手から、よろめかす杯を取り上げた。あなたはわたしの憤りの大杯をもう二度と飲むことはない。わたしはこれを、あなたを悩ます者たちの手に渡す。」(23)何という慰めであろうか。神はイスラエルからご自分の怒りの杯を取り上げ、彼らを悩ます者たち、つまりバビロンに移されるというのである。
神を知らない人たちは、神の懲らしめによってひとたまりもないが、神の民とされた者たちのためには、神が弁護人となって守ってくださるので、何も恐れることはない。これが本当の慰めである。
アメリカの牧師で、聖書注解者のウォーレン・ウィアスビーは、「私たちの人生に恐れを引き起こすその根本的な原因を探してみると、鮮明に浮かび上がる真理がある。それは不信仰である。恐れと信仰は友人になることはできない。だから、恐れを克復する第一歩は、信仰によって神を見上げることである。」と言っている。
もしあなたに恐れがあるなら、どうか神を見上げてほしい。その方の偉大さと栄光に目を留め、その方があなたの味方であることを思い出してほしい。そうすればあなたはすべての恐れに打ち勝ち、この世にあって勝利ある人生を歩むことができる。ここに真の慰めがあるからだ。