「慰めてくださる主」 N079
Ⅰ.あなたの切り出された岩を見よ(1-3)
バビロン捕囚よって絶望的な情況にあったイスラエルに対して、主は「あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。」と言われた。「切り出された岩」とか「掘り出された穴」とは何だろうか?それは彼らが出たところ、彼らの起源(ルーツ)のことである。それは具体的にはアブラハムとサラのことを指している。いったいなぜ苦しい時に自分のルーツを見なければならないのだろうか。それは、自分たちがどのようにして救われたのかを思い出せば、そのことによって感謝と喜びが与えられるからである。
たとえばアブラハムの場合はどうだったか?彼は元々アブラムという名前で、カルデヤのウルという町の出身であった。つまり、彼は全くの異邦人であったわけである。真の神からは遠く離れ、月の神を拝む偶像礼拝者であった。この世にあっては何の望みもない虚しい人生を歩んでいた。しかし、神はそんなアブラハムを一方的に召し出された。「あなたは、あなたの産まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12:1)つまり、彼が救われたのは、神の一方的な恵みによるものだったのである。
ではサラの場合はどうだろうか。彼女は90歳になった時、もう自分には子を宿す力がないことを知っていたが、約束してくださった方は真実な方だと信じた(ヘブル11:11)。たとえどんなに情況が不利なようでも、たとえ絶望的に見えても、神にとって不可能なことは一つもないと信じたのである。これがイスラエルだ。
このときシオンはバビロンによって滅ぼされ、跡形もなく廃墟と化していた。イスラエルはバビロンの捕囚の民として苦しみの中に置かれていた。しかしそんな彼らでもこのルーツを見れば慰められる。自分たちがただ恵みによって救われ、神の圧倒的な力によって導かれたことを思い出すなら慰められ、希望をもって立ち上がることができるのである。
Ⅱ.わたしに心を留めよ(4-8)
ここで主は、「わたしに心を留めよ」と言われた。いったいなぜ主に心を留めなければならないのだろうか?なぜなら、主に心を留めることによって、慰めを得ることができるからである。ここには、「わたしの義は近い。わたしの救いはすでに出ている。」(5)とある。この「義」とか「救い」とはイエス・キリストのことでもある。つまり、キリストの来臨が近いということを意味している。キリストが来臨されるとき、救いが完成する。確かに今はキリストを信じて救われている。死んでいた霊がよみがえり、不滅の霊をいただいた。しかし、私たちの救いはそれだけではない。やがてキリストが再臨されるとき肉体も救われる。朽ちないからだ、御霊のからだ、栄光のからだに変えられる。これが救いの完成の時である。パウロは、「このことばをもって互いに慰め合いなさい。」(Ⅰテサロニケ4:18)と言っているが、これこそ私たちにとっての真の希望である。
いったいなぜこのことが慰めになるのだろうか?6節には次のようにある。「目を天に上げよ。また下の地を見よ。天は煙のように散り失せ、地も衣のように古びて、その上に住む者は、ぶよのように死ぬ。しかし、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義はくじけないからだ。」
この天地は滅び去るが、神とその言葉はとこしえに絶えることがない。どんなに華やかなものでもそれがふってわいたかのようにすぐに消えてしまうものなら、はかないものである。そんなものによって慰められることは決してない。けれども、神の救いはとこしえに続き、神の義はくじけることはない。そのような確かなものに拠り頼んで歩めることは何と幸いなことだろう。だから主は、「わたしに心を留めよ。」と言われたのである。主に心を留める者は幸いである。その人は主から慰めを受けることができる。
Ⅲ.神の時がある(9-11)
しかし、神の慰めを受けるために、もう一つ考えなければならないことがある。それは、神には神の時があるということだ。「さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ。」(9)「さめよ」とは「目を覚ませ」ということである。目を覚まして、力をまとい、主の力強い御腕を、いかんなく発揮してくたださい、という叫びである。いったいなぜこのように叫んでいるのであろうか?それは、彼らにとってはまるで神が居眠りしているかのように感じていたからである。
人は祈ってもなかなか応えられないとすぐにこのように感じてしまう。けれども、覚えておかなければならないのは、神には神の時があるということだ。私たちはできるだけ早く聞いてほしいと願うものだが、神には神の時がある。そして、本当にギリギリまで動いてくださらないことが多い。あまりにも早く応えてしまうとそれを神がしてくださったというよりも、あたかも自分の力でやったかのように思い込んでしまうことがないためである。だからあえて私たちを無力化して、私たちが自分ではもうどうしようもないという時に働かれるのである。そうすれば、それが神によってなされたことであることがだれの目にも明らかになり、すべての栄光が神に帰せられる。主がギリギリまで動かないのは、何も私たちを困らせるためではなく、また、焦らせるためでもなく、私たちが神の御腕に全幅の信頼を置くためなのである。
だから、神には神の時があるということを覚え、一切を支配しておられる神にすべてをゆだね、神の時を待ち望む者でありたい。そういう人は、喜び歌いながらシオンに入り、その顔にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きは逃げ去る(11)のである。