「救いの良い知らせ」 N081
Ⅰ.ただ恵みによって(1-6)
ここでも主は、「さめよ。さめよ。力をまとえ。シオン。」(1)と語られる。なぜか?なぜなら、彼らはすでに救われたからである。バビロン捕囚から解放され、失われたすべてのものが回復した。もう無割礼の者が入ってくることはない。彼らにとって必要なことは美しい衣を着ることであった。ちりを払い落として立ち上がり、首からかせをふりほどかなければならなかったのである。いったい彼らはどのようにして救われたのだろうか。ここにはおもしろいことが言われている。「あなたがたはただ売られる。だから、金を払わずに買い戻される。」(3)どういうことだろうか。彼らはただで売られたので、ただで買い戻されるということである。確かに彼らはバビロンに連れて行かれたが、バビロンに売られたわけではなかった。バビロンが勝手に連れて行っただけのことである。それによって神の名が侮られることになってしまった。それで神はイスラエルを買い戻すことにしたのである。つまり、イスラエルが救われたのは彼らが何かをしたからではなく、神がそのようにすると思われたからであった。それは神の一方的に恵みによるものであったのである。
それは私たちの救いも同じである。私たちが救われたのはただ神の恵みによる。私たちは罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順らの子らの中に働いている霊にしたがって歩んでいた。そのままではただ滅びるだけのものであったが、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きなあわれみのゆえに、罪過の中に死んでいた私たちをキリストとともに生かしてくださった。私たちはただ神の恵みによって救われたのである。
にもかかわず、私たちはいつの間にか逆戻りしていることがある。恵みによって救われたにもかかわらず、自分の行いによって救われたかのように自分を誇ることがある。「私はこれだけのことをやったんですよ」とか、「あなたよく救われましたね。私はこんなにも良いことをしたんですよ。」と言って誇ってしまうのである。しかし、天国は謙遜なところである。幼子のようになせなければだれも神の国に入ることはできない。それほど謙遜なところなのだ。私たちは行いではなく、キリストの恵みによってのみ救われるということを、もう一度深く覚えておきたい。これが福音であり、これが聖書のメッセージなのである。
Ⅱ.幸いな良い知らせ(17-10)
いったいこの救いはどのようにしてもたらされたのだろうか。ここには「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。」(7)と言われている。普通、足といったら汚いイメージがある。しかし、そんな汚い足でも、美しくなる。なぜなら、良い知らせを伝えるからである。良い知らせを伝える者の足は美しい。見た目がどうであるかは全く関係ない。見た目は汚くても、福音を伝える人は美しい。なぜなら、それは平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせる足だからである。
ある人が書いた本の中に、なぜ今の教会は強くないのかということが書かれてあった。その第一の理由は、主イエスを救い主として信じても主イエスに従っていないからである。つまり、キリストの弟子になっていないというのだ。第二のことは、主イエスを信じた人たちが主イエスのことを伝えていないからである。つまり、キリストの使徒になっていないからである。
なるほど、どんなにそれがすばらしい知らせであってもそこに生きることなしに何の変化も生まれない。福音の恵みを受けるだけでそれを外に出さなければ、何の喜びも生まれてこない。良い知らせを伝える者の足は美しい。私たちはこの良い知らせを伝える美しい足になりたいものである。
Ⅲ.去れよ、去れよ(11-12)
だから結論は何かというと、「去れよ。去れよ。そこを出よ」(11)ということである。イスラエルは一方的に主の恵みによって救われた。美しい衣を着せられた。その足には平和の福音の備えをはいた。そんな彼らに求められていたことは、そこを去って、汚れたものに触れないようにするということであった。そことはどこか?バビロンである。もうすでに救われたのに、まだバビロンにとどまろうとする人たちがいた。ずっと慣れ親しんだ過去の生活から離れられないでいる人たちがいたのである。しかし、彼らはもうすでに救われた。だからちりを払い落とし、かせをふりほどき、その中から出て、身をきよめなければならなかった。古い生活にしがみつくことを止め、彼らを救ってくださった主の道に歩まなければならなかったのである。
あなたのバビロンは何か。あなたがなかなか捨てられないでいるものは何だろうか。それがどんなに魅力的に見えるものであっても、あなたはそこから出なければならない。それがあなたを救ってくださった神の恵みに対するふさわしい応答だからである。