きょうは「救いを得させる神の力」というタイトルでお話したいと思います。きょうのところには、ローマ人への手紙全体の中心テーマが記されてあります。それは、救いを得させる神の力としての福音です。福音とは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。きょうはこのことについて三つのポイントでお話したいと思います。まず第一のことは、福音は救いを得させる力であるということについてです。第二のことは、それを受ける手段についてです。それは信仰です。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力なのです。第三のことはその理由です。それは、この福音のうちに神の義が啓示されているからです。
Ⅰ.救いを得させる神の力(16)
まず第一に、福音は、救いを得させる神の力であるということについて見ていきたいと思います。16節のところでパウロは、「私は福音を恥とは思いません。」と言っています。この前のところで彼は、「私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています」と、この福音のあまりものすばらしさのゆえに、この恵みはどうしても返さなければならない負債だと語ったのに、ここに来て、「私は福音を恥とは思いません」と、一見弱々しいように宣言しているのはどうしてなのでしょうか。彼の中に福音に対してどこか恥と感じるようなことがあったのでしょうか。そうではありません。実は、このように「福音を恥とは思いません」という言い方は、一見否定的に見えるような言い方ですが、実はこれは、逆に誇っている表現なのです。このように否定的に表現することによって、逆の事柄を強調しようとしたのです。たとえば、マルコの福音書12章34節には「あなたは神の国から遠くない」とありますが、これは、神の国にごく近いところにいるということを強調しているのです。同じようにパウロがここで、「私は福音を恥じとは思わない」と言ったのは、彼が福音をどんなに高く評価し、それを誇りとしていたかの表れであったわけです。これまで福音を語ったために彼がどんなにひどい目に遭ってきたかを思うとき、このローマ帝国の首都において福音を語ることがどんな苦難が伴うことなのかくらい十分承知していたはずです。それは軽蔑以外の何ものでもなかったでしょう。皇帝崇拝が盛んに行われ、皇帝の権力があらゆる形で誇示されていたこのローマでは、それに対抗しうるものなど何一つないかのように感じたことと思います。そのようなローマで福音を語ることはある意味で人を気おくれさせ、恐れおののかせ、気恥ずかしい思いを抱かせたことでしょう。しかしそうした中にあってパウロは、「私は福音を恥とは思いません」と言って、福音を誇ったのでした。いったいパウロはなぜそのように言うことができたのでしょうか。それはこの世の政治、経済、文化がどれほど偉大であり、光り輝いたものであっても、福音にはそれにまさる価値があることを、彼がよく理解していたからです。それは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力だからです。ここに福音の価値がいかんなく言い表されていると思うのです。それは、この福音は神の力であるということです。それは単なる教訓とか、哲学、倫理ではなく、力なのです。それは、救いを得させる神の力です。
それにしても、パウロはなぜここで福音を力だと言ったのでしょうか。それは、この救いは罪からの救いのことだったからです。一般的に人は「救い」という言葉を聞くとき、それが病気や経済的なことからの救い、あるいは、その他私たちの人生において直面している問題からの救いであるかのように錯覚しがちですが、ここで言われている救いとは、そうした問題からの救いのことではなく、そうした問題も含めたあらゆる問題の根源である罪からの救いのことだったのです。そしてこの罪からの救いは、私たちの力でできるようなことではありません。悪魔の支配下に置かれている人間は、どんなに跳んだり跳ねたりしても、あるいは力をふりしぼって頑張っても、徹夜で本を読んで勉強しても、その縄目から自分を救い出すことはできないのです。人が罪から救われるためには、悪魔よりもはるかに強い力がある方に解放していただかなければなりません。それは神です。そのような罪の中にいる人間を救うことができるのは全能の神以外にはいないからです。皆さん、考えてみてください。人を動かすのは山を動かすよりも難しいと言われますが、自分でどんなに変わろう、変わろうと思っても、なかなか変わられないというのが現実なのではないでしょうか。
私はもう何年も牧師をしていますが、最も多く受ける質問は、「どうして私は変わることができないのか」というものです。「変わりたいと思っていても、どうしたら変わることができるかわからない。変わる力がない」ということなのです。皆さんにもそのような経験がおありでしょうか。私たちはよくセミナーや大きな集会に出かけて行き、自分の人生をその場で変えてくれるような方法を探しますが、それをしてもなかなか変わりません。私は健康維持のためにふと思い立って散歩を始めたりするのですが、二週間も経つと最初の決意はどこかへ消えてしまい、いつの間にか元通りになってしまいます。今、はまっているのはラジオ体操です。外に出るのは寒いので何かいい方法はないかと考えていたとき、どなたかがラジオ体操をやっていると聞いて、早速インターネットのユーチューブからダウンロードして時間の合間にやっています。これならどこにも行かなくても、自分の家で、好きな時にできるのでいなぁと思っているのですが、これだっていつまで続くかわかりません。すぐに元通りになってしまうかもしれません。変わるということは本当に難しいのです。時々、自己啓発の本を読んでみたりすることもありますが、問題は、そのような自己啓発の本は「何をすべきか」は教えてくれても、それを「実行する力」を与えてくれないことです。それらの本には「悪習慣を断ち切り、前向きになりなさい。否定的にならない」と教えられていますが、ではどうやったらそれができるかは教えてくれないのです。いったいどうしたら自分を変えることができるのでしょうか。どうしたら今の自分の殻を突き破ることができるのでしょうか。
ここにすばらしい知らせがあります。それは「福音」です。福音は、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力なのです。私たちが必要としているのはこの「力」ではないでしょうか。新約聖書の中には、この「力」という言葉は57回出てまいります。この言葉は、歴史上最も力強い出来事、そうです、イエス・キリストの復活の出来事を現すために使われています。人生において最も大切なことは、キリストを知り、キリストの復活の力を体験することです。この復活の力について、パウロは次のように言っています。
「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」(エペソ1:19~21)
この「力」と訳された言葉は、ギリシャ語の「デュナミス」(dunamis)という語ですが、これは英語の「ダイナマイト」(dynamite)の語源になっている言葉です。神の力は、今から二千年前にイエス・キリストを死の中からよみがえらせた復活の力であり、悪魔の要塞を完全に打ち破ることのできる力なのです。この神の力が私たちを悪魔とその罪の支配から救い出すことができるのであって、この神の力があらゆる問題に打ち勝つ力を与えてくださり、その人格を全く新しいものに造り変えることができるのです。この救いを得させる神の力が、私たちに差し出されているのです。それが福音です。
Ⅱ.信じるすべての人に(16)
ではどうしたらこのすばらしい神の力をいただくことができるのでしょうか。第二のことは、それは信仰によってであるということです。もう一度16節に注目してください。ここには、「福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」とあります。
ここで重要なのは、この神の力は、「信じるすべての人に」差し出されているということです。福音がどんなに力があっても、これを信じなければ救われることはできません。ある人はこう言うでしょう。「他宗教における救いの可能性も排除してはいけない」と。「分け登る 麓の道は多かれど、同じ高嶺の月を見るかな」ってあるように・・・。どの宗教を信じたって、結局、行き着くところはみな同じだというのです。しかしこれは大うそです。十字架につけられて死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストを信じること以外に救いはありません。このメッセージを放棄してはいけないのです。もしこれを放棄したら、それはもうキリスト教とは言えないからです。何を信じても同じだというのは一見、心が広い人であるかのように見えますが、それは真理ではありません。なぜなら、聖書は次のようにはっきりと言っているからです。
「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12) 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)
あるいは、このように言われる方もおられるでしょう。「あの人が救われるのなら、私はあの人よりももっとましな人間だから絶対救われるはずだ。」と。あるいは、「世の中の人たちはみんな罪を犯しているが、私はそんなに大きな罪を犯しているわけではないから、天国に行けるはずだ。私が行けなかったとしたら、あと誰が行けると言うのだ・・・。」と。しかし、誤解しないでください。天国は、相対的なものではありません。他の人と比較してどうなのかではなく、絶対的な神様の目で見てどうなのかということです。ほかの人と比較して少々善良であってもなくても、それは沈んでいく船の客室で、大きく揺れる絵の額を見比べて、どれが一番傾いているかを論じるのと同じで、全く的外れなことです。沈没するのは同じなのです。百人中二十人が天国に行けて、八十人は落第して地獄に行くというものではありません。信じて従うならすべての人が天国に行けるし、罪を悔い改めないでイエス・キリストを信じないなら、すべての人が地獄に行ってしまうのです。
あるいは、私たちの中には、一生懸命に良いことをしたら天国に行けると思っている人も少なくありません。つまり、自分がたとえ40くらいの罪を犯しても、60くらいの功績を積めば20ポイントもプラスなんだから、天国に行けるはずだと考えてしまうのです。しかし、これも間違いです。神様は、私たちがどれだけ良いことをしたかではなく、私たちの罪が清められているかによって決められるのです。もし少しでも罪があるなら、全く聖い神様は、私たちを受け入れることはできないのです。そうでしょ。たとえば、きれいに透き通っていて、どんなに美味しそうな水でも、そこにほんの少しだけねずみの糞が入っていたら飲めますか。99%清くても、1%汚れているだけで全部捨てるように、ある程度清いから天国に行けるということではないのです。
ならば、いったいだれが天国に行くことができるでしょうか。だれもいません。私たちは生まれながらに罪人であって、不完全な者なのだから、完全に聖くなることなどできないからです。しかしあわれみ豊かな神様は、その罪を赦し、全く罪のない者としてくださるために、ひとり子イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。この方を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。この方が私たちの罪を背負って十字架で死んでくださったことにより、この方を信じる者の罪はすべて洗い流されるのです。
「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)
「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」(イザヤ4:22)
皆さん、私たちがキリストを信じたそのとき、それまでかすみのようにかかっていた罪がすっかりぬぐいさられるのです。神様がキリストによってその罪を贖ってくださるからです。私たちの罪が赦され、天国に行くことができるのは、ただこの救い主イエス・キリストを信じる以外にはありません。イエス・キリストを信じるなら、だれでも、どんな人でも救われるのです。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力なのです。ですから、聖書は一貫して、「ただ信ぜよ。さらば救われる」と言っているのです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)ただ信仰によって、この救いを受けることができるのです。
Ⅲ.神の義は福音のうちに(17)
ではなぜ福音を信じるだけで救われるのでしょうか。それは神の義がこの福音の中に啓示されているからです。最後にこのことについて見ていきましょう。17節をご覧ください。
「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」
ここで注目したいことは、この福音の中に「神の義」が啓示されているということです。福音のうちに神の義が啓示されているとは、どういうことなのでしょうか。実は、この「神の義」こそ聖書全体の重大なテーマであって、これを曖昧にすると、聖書で本当に言わんとしていることがつかめなくなってしまいます。それほど重大な事柄です。これがすべての根底にあるといってもいいでしょう。たとえば、皆さんは神はどのようなお方ですかと尋ねられたとしたら、いったい何と答えるでしょうか。神は愛ですと答えるでしょう。しかし、その愛とは、実は、この義に基づいたものであって、私たちが考えるようなセンチメンタルなものではありません。ですから、神はどのようなお方ですかと問われたら、その第一のご性質は「義なる方」となるのです。神は義なる方、全く正しい方です。ここからすべてが発しているのです。ですから、救いということを考える時にも、単に肉体の癒しとか、問題の解決といった御利益が中心なのではなく、罪からの救いということが中心になるわけです。
ところで、ここで「神の義が啓示される」とありますが、これはどういう意味なのでしょうか。これは神が定められた律法の要求に対する人間の正しい関係を意味しています。人はだれも自分の力によって義と認められません。神が要求している律法を完全に行う人など一人もいないからです。ではどうしたらいいのでしょうか。ですから、神様はこの世にキリストを送ってくださったのです。それは私たちの義ではなく、この神のひとり子であられるキリストの完全な服従に基づいた義をいただくためです。神の律法の要求を完全に行うことができるキリストが、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかって死んでくださったことによって、この方を信じるなら、私たちの中にその神の義が全うされるようになったというのです。私たちはこのキリストによって、神と正しい関係を持つことができるわけです。
では、「その義は、信仰に始まり信仰に進ませる」とはどういうことなのでしょうか。これは神との正しい関係が、信仰によって始まり、信仰によって完成されるという意味です。これは今に始まった新しい教えではなく、実は、旧約聖書の時代から一貫して流れていた真理でした。その一つの例が、「義人は信仰によって生きる」ということばです。これは旧約聖書のハバクク書2章4節からの引用ですが、イスラエルにカルデヤ人が侵略してきた時、そのような国家的危機の中で、預言者ハバククが語った言葉です。彼はその時何と言ったかというと、主に拠り頼む者は勝利を得ると言いました。一生懸命に武器を作り、どうしたら勝てるかと戦略を練れば勝利できるのではなく、主に拠り頼むことによってのみ勝利することができると言ったのです。義人は信仰によって生きるとはそういう意味です。神との正しい関係はこの信仰によってのみ得ることができ、また信仰によって全うすることができるのです。
皆さん、私たちは自分はできると思いがちです。そして、救われるために自分で何とかしようともがきます。ある面でそれは大切なことでしょう。しかし、このような努力やがんばりだけでは、私たちの人生を破壊し、破滅に陥れるこの罪から救い出すことはできません。この罪の前には、私たちは何もすることができないのです。全く無力なのです。私たちができることはただ一つ。それは受けることです。十字架で死なれ、三日目によみがえられて、死に勝利された復活の力を受ける以外にないのです。
ある家族が賭博で無一文になってしまいました。家中の財産をすっかり失ってしまったのです。賭博というのはどうも伝染するのか、この家はおじいちゃんが賭博で破滅しかと思ったら、お父さんも賭博師として家を潰してしまったのにもかかわらず、息子まで賭博をするようになったのです。息子自身もそのことをよく知っていて、「祖父は賭博で破滅した。親父も賭博のために人生を棒にふった」と言っていたそうです。それなのに賭博をやめることができませんでした。この息子は教会に通い始めると、悲壮な覚悟を決め、牧師の前で何と斧で手の指を全部切手しまったそうです。「これで二度と賭博はしない」と雄々しく決心したのですが、その覚悟も長続きはせず、彼は再び賭博を始めてしましいました。指のない手でどうやってしたのか?何と足の指に花札をはさんで賭博をしたのです。これが罪の力です。これほどの罪の力を、いったいどうやって断ち切ることができるのでしょうか。イエス・キリストです。私たちにはできないことを神はしてくださいました。神はキリストをこの世に送り、十字架につけてくださって、この方を信じる者をみな、許してくださると約束してくださったのです。このイエス・キリストの血潮がなければ、誰一人、罪の力を断ち切ることはできません。私たちはただその十字架で死なれたイエス様が自分の救い主であると信じ、この方にお頼りして、忠実に生きさえすればよいのです。福音こそ、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力だからです。
地上においた船をどんなに動かそうとしても、動かすことはできません。屈強な男たちが十人か二十人かかっても、1トンの船さえ動かすのは用意なことではありません。しかし潮が満ちて船が浮くと、幼子がちょっと押しただけでも動くようになります。神様が御業を行われる方法とは、まさにこのようなものです。自分の力、才覚でやろうとするのではなく、「神様、どうぞ恵みの水を送ってください。そしてこの困難を乗り越えさせてください」と主にしがみついて、重荷をゆだねるとき、私たちの取るに足らない力でも悠々と船を動かすことができる、驚くべき不思議に人生が転回し始めるのです。義人は信仰によって生きる。皆さんもキリストを信じる信仰によって、そのような世界を生きることができますように。