ローマ人への手紙1章18~32節 「天から啓示されている神の怒り」

きょうは、「天から啓示されている神の怒り」というタイトルでお話したいと思います。パウロは、16~17節のところで、この手紙の主題について述べました。それは、福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力であるということです。なぜなら、この福音の中にこそ神の義が啓示されているのであって、人間の力や行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって救われるからです。  きょうのところには、「というのは」ということばで始まっています。実は、ここからローマ人への手紙全体の本論に入るわけですが、「というのは」という接続詞で始まっているということは、これがその前の節とのかかわりの中で語られていることを表しています。つまり、ここには私たち人類が神の義を必要としている理由が記されてあるわけです。いったいなぜ私たちは神の義が必要なのでしょうか。それは、全人類が罪を犯し、神の怒りの下にあるからです。18節をご覧ください。

「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」

神が私たちを救ってくださるのは、私たちがみな神の裁きの下にあるからで、つまり救いを必要としている存在だからなのです。神が求めておられるのは、あくまでも義なのであって、その義にかなわない人間のあらゆる不敬虔と不義とに対して、神の怒りが啓示されているからなのです。

しばらく前に、みことばに対する深い瞑想のないままの「可能性思考」とか「積極的思考」というものがはやりました。イエス様を信じることは人生に豊かさをもたらすことであり、すべてが思いのままになる祝福をもたらすはしごであるという考えです。ある面ではそうですが、しかし聖書の語っている祝福とはそのような表面的で薄っぺらなものではなく、もっと深いところからにじみ出てくるものです。罪深い人間に必要なのは、そうした自負心を刺激する積極的な思考ではなく、自分がいかに罪深い者であることを知り、悔い改めることです。罪の深刻さを指摘され、罪にまみれた恐ろしい自分の姿に気づかされ、その中から救いを叫ぶことなのです。罪について赤裸々に語ることなしに、イエス様の福音がどんなに必要であるかはわかりません。

私たちの人生において、神様に深い感謝を覚えるのはどんなときでしょうか。逆境を克服したときです。まことの感謝は、私たちが困難にぶつかり、その深い困難から抜け出した経験があってこそ生まれるものなのです。私たちは知らず知らずのうちに、すべてが自分の思い通りになる、何の試みもない平坦な人生こそ、最も幸いな人生であるかのように思い込んでいますが、実はそうではなく、人生最大の危機にまで落ち込んで、その後で上ってくる経験の中にこそ、まことの感謝と喜びがあるのです。同じように、私たちが救いの喜びと感激というものを切実に感じるためには、イエス・キリストを信じる以前の自分の姿がどのようなものであったのかを悟る必要があるのです。

きょうは、このイエス・キリストを信じる以前の人間の姿について三つのポイントでお話したいと思います。第一のことは、神の怒りの原因である罪についてです。罪とは、神を知っていながら、その神を神としてあがめないことです。第二のことは、その罪の結果です。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。第三のことは、罪の結果のもう一つの面です。それは、彼らを良くない思いに引き渡されたので、してはならないことをするようになったということです。

Ⅰ.神を神としてあがめず(18-23)

まず第一に、神の怒りの原因である罪について見ていきたいと思います。18~23節に注目してください。パウロはここで、どういう人に神の怒りが啓示されているかを述べています。それは、「不義によって真理をはばんでいる人」に対してです。「不義によって真理をはばんでいる」とはどういうことでしょうか。この「真理」とは19節を見ると明らかですが、それは神に関する真理であることがわかります。ここには「神について知られることは、彼らに明らかです」とあります。創世記1章27節を見ると、神は人をご自身のかたちとして創造されました。神のかたちというのは、神を慕う心、神と交わる部分、つまり霊のことです。私たちは霊的な存在として造られたのです。にもかかわらず、自分たちの持っている罪のゆえに、神に関する真理をはばんでいるのです。その顕著な例が「不敬虔」と「不正」です。「不敬虔」とは、神を神としてあがめようとしない神に対する罪で、「不正」とは、その結果生じている人間の悪い思い、道徳的な乱れ、罪の行為のことです。これが罪の二大局面です。この二つは切り離すことはできません。つまり、人は神のかたちに造られ、神を慕い求め、神をあがめるように造られたにもかかわらず、神を神としてあがめようとしない罪の結果、この世において様々な悪いことをするようになったのです。  坂本九さんの大ヒット曲に「上を向いて歩こう」という歌がありますが、人というのはギリシャ語で「アンスローポス」と言います。意味は、「上を向いている者」です。人間は本来、上を向いて生きる者なのです。なのに私たちは、ついつい日常の事柄に心の目が奪われてしまい、上を向く心を失ってしまいました。そして、「神なんていない」、「信じられるのは自分だけだ」なんて、織田信長のようなことを言うようになってしまったのです。  しかし、本当に「神なんていない」のでしょうか。いいえ、そうではありません。確かに神は私たちの目で見ることはできませんが、神がおられることと、この方がどれほど偉大な方であるかは、はっきりと示されているのです。どのように?神の創造のみわざを通してです。20節をご覧ください。

「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」

確かに、神様は目に見えないお方ですが、その力と神性は、創造のみわざをとおしてはっきりと現されているのです。ですから、もし私たちが神を探り求めることでもあるなら、見いだすことができるのです。神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはいません。私たちは、神の中に生き、動き、存在しているのです。にもかかわらず、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。それだけではありません。この神の代わりに偶像を作り、それを拝むようになってしまったのです。22~23節、

「彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」

皆さん、人はなぜ偶像を求めるのでしょうか。偶像を造る人たちは、神様は目に見えない存在だから、その目に見えない神を見える形で表すものであると言い、人は力ある神に偶像を通してでなければ近づくことが出来ないからだと言いますが、本当はそうではありません。人間は神のかたちに似せて造られていますから、生けるまことの神から離れるとき、何かを神としないではいられなくなるからなのです。ですから、まことの神の代わりに、被造物を神としてしまうのです。また偶像礼拝は、このような宗教的な対象として像を拝むことだけではありません。ピリピ3章19節でパウロは、彼に反対する人たちに対して、「彼らの神は彼らの欲望であり・・」と言っているように、こうした欲望を具現化したものも偶像崇拝なのです。  しかし、それは本当に愚かなことではないでしょうか。神様に対抗している人の多くは自分が知者だと思い込んでいるようですが、実は、それは愚かなことなのです。そのような偶像が人を救うことなどできないからです。人を救うことができるのはただこの天と、地と、海と、その中に住むすべてのものを造られたまことの神しかいないのです。なのに、その生けるまことの神様を信じようとしない。そうした人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているのです。    この「啓示されている」ということばは現在形で書かれてあります。すなわち、今もずっと、罪があるところには神様の怒りがとどまっているということです。神様は、そのご性質上、罪をそのまま容認なさることはしません。ハバクク書1章13節に、「あなたの目はあまりにきよくて、悪を見ず、」と言われているとおりです。神様は決して罪を我慢できない方なのです。

皆さん、イエス様を信じる前の私たちはどんな状態にあったのでしょうか。それは一言で言うなら、滅ぶべき罪人でした。この罪のゆえに、神の怒りが天から啓示されていたのです。全く望みというものを見いだすことができない惨めな存在でした。ローマ人への手紙6章23節には、「罪から来る報酬は死です」とありますが、まさにこの罪のゆえに、神様の怒りから逃れられず、地獄行きの運命が定まっていたのです。

Ⅱ.汚れに引き渡され(24-27)

第二のことは、その結果です。神を神としてあがめず、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えた結果、どうなってしまったでしょうか。24節をご覧ください。

「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。」

神を神として認めようとしない人に対する神の怒りは、世の終わりにおいてだけでなく、すでに始まっているのです。どのようにでしょうか。ここには、「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました」とあります。この「引き渡され」ということばは、26節と28節にも繰り返されていますが、これは「見放す」とか「見捨てる」という意味のことばです。神の怒りの絶頂は、罪を犯した人間をその心の欲望のままに汚れに引き渡すことです。そのまま放置することなのです。ある人はこう言うでしょう。「俺は神様とは関係なく生きて来たけれども、大満足の人生だった」と。それは、この人が神の裁きとのろいのまっただ中にいることの証拠なのです。

たとえば、親の言うことを聞かない子供がいるとしましょう。すると親は正しく育てようと、いろいろと訓戒します。時にはむち打つこともあるかもしれません。けれどもその子がなかなか言うことを聞こうとしないと、親はその子に何と言うでしょうか。「じゃ、勝手にしなさい」これは子供に自由を与えるという意味ではなく、親として発し得る最も恐ろしい怒りの表現なのです。「勝手にしなさい」ですから、信仰を持たない人たちが、その恐ろしい罪にもかかわらず人生がうまくいっているように見えても、何もうらやましがる必要はないのです。それこそ恐ろしい神の裁きの現れだからです。神様に見放され、見捨てられている人は大忙しで、礼拝をささげる時間もありません。あくせくと的外れな努力をして、結局は地獄に行ってしまうことになるのです。

皆さん、私たちは神様の前で好き放題に生きられる存在でしょうか。決してそうではありません。そんなことをしたら必ず後でつけが回ってきます。ですから神様は私たちを放ったらかしにはなさらないのです。少しでも高慢になると、大きな病気やその他の方法でそれを扱われます。みこころにかなわないことをしようとすると、試みや艱難が来て練られます。少しでも祈りを怠ると、火のような試みを通して心を引き締めさせてくださるのです。でも、これこそ神様の祝福であり、恵みなのです。なぜなら、箴言3章12節には、「父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。」とか、ヘブル人への手紙12章7~8節に、「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」とあるように、それこそ神が私たちを愛しておられることの証拠だからです。その心の欲望のままに引き渡されることこそ、神の怒りの表れであります。

では、その心の欲望のままに汚れに渡された人間は、どのようになったでしょうか。ここには、「彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました」とあります。神との関係における霊的倒錯は、人間関係における性的混乱を引き起こすようになりました。パウロがこの手紙を書いていた時代にも、たとえばコリントには、アフロデトと呼ばれる神殿があり、そこには巫女と称する神殿娼婦がたくさんいました。それは、巫女たちと肉体的に交わることによって、アフロデトの女神と一体になれると教えられていたからです。また、26,27節には、

「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。」

とあるように、同性愛が広まりました。当時のローマの世界では、レスビアンとかホモセクチャルなどは普通のことでした。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。パウロはこれらのことを評して、「その誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです」と言っていますが、それは、神様が創造の秩序として立てられたものを無視し、それを誤用、乱用して放縦に走った結果招いた荒廃だったのです。

Ⅲ.良くない思いに引き渡され(28-32)

そればかりではありません。第三に彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。29~32節をご覧ください。

ここには長い罪のリストが記されてあります。このリストは、人間社会のすべての悪を取り上げているわけではありませんが、これを見ていくと、罪の恐るべき力について十分知ることができると思います。まず、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意です。これは罪の一般的な表現でしょう。次は、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみです。これは内面的な悪意のことです。そして、具体的な悪口の数々が列挙されていくわけですが、ここで注目したいことは、神を知ろうとしたがらない人間は、こうした悪の思いに満ち溢れるようになったということです。彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡されたとは、こういうことです。神を知ろうとしない人間の内側は、実に、みにくい罪と悪なのです。それらは、私たちすべての人の姿であり、私たちの内面の思いなのです。

そして、そこからさまざまな罪の現実が生まれていきます。まず陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。ここには私たちが行う悪の数々が語られているわけですが、それは、毎日の新聞やテレビのニュースを見れば明らかです。何の事件も起きない日など一日もありません。毎日、毎日、さまざまな悪事が行われています。私たちは文字通り罪の中に生き、悪を行っているのです。

ロシヤの文豪ドストエフスキーは、「もし人が、神は存在しないという確信さえ持つならば、できないことはない。」と言いました。これは恐ろしい言葉ですが事実です。人々が悪いことをしながらも、それでもある程度自分自身を節制するのは、「こんなことをしたら罰があたるかもしれない」という何らかの神に対する意識が働いているからですが、しかし人間が神はいないと確信するなら、そこにはすさましい光景が広がることでしょう。まともに目を開けてなど見られないはずです。ここに取り上げられているのは、人間社会のすべての悪ではありませんが、本当に罪の恐ろしさがまざまざと描かれているのではないでしょうか。それは、彼らが神を知ろうとしたがらない罪のゆえなのです。神を知っていながらも、その神を神としてあがめようとしないためなのです。それゆえに神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。良くない思いに引き渡され、そのために彼らは、してはならないことを平気でするようになってしまったのです。 いやそればかりではなく、それを行う者たちに心から同意さえしているのです。こうした罪に対して、神の怒りがどれほどのものであるかを想像することはそれほど難しいことではないでしょう。こうした不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正とに対して、神の怒りが天から啓示されているのです。

いったいどうしたら、この罪の現実から、救われることができるのでしょうか。このような人間の罪と悪は、身を修める修身教育や道徳教育くらいで解決できるものではありません。四国八十八箇所を巡礼したくらいで解決できるものではないのです。こうした罪と悪からきよめられ、神様の怒りを逃れることのできる唯一の道は、神の義であるイエス・キリストの血潮以外にはありません。ローマ人への手紙5章9節をご覧ください。

「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらです。」

私たちが罪に対する神の怒りから逃れる道は、イエス・キリストの血潮の他にはありません。ただ福音において啓示されている神の義だけが、私たちを罪の道、滅びの道から連れ戻す力を持っているのです。ですから、私たちはこのキリストの福音を信じなければなりません。

私たちは口癖のように「神様の恵みによって、死ぬしかなかった罪人が救われた」と言います。「驚くばかりの恵みなりき この身の汚れをしれる我に」と賛美します。イエス・キリストの十字架のゆえに罪が贖われて、神の子どもとされた感激をいつも味わいながら生きていますと、証して回りますが、しかし、これがことばだけであることが多いのです。多くのクリスチャンが、救われた後、自分がどれほどすばらしい身分に変えられたのかを知らずに過ごしているのです。それは、イエス様を信じる以前の自分がどれほど悲惨な者であったかを知らないことに起因しています。イエス様を信じる前の自分は、こうした罪のゆえに、神の御怒りによって滅ぶしかなかった者であったことがわかると、その救いの喜びと感謝を切実に感じるようになるのです。

あるクリスチャン夫婦の証を読みました。この夫婦は、非常に仲むつまじく、子供たちも健やかに育っていました。しかし、ある日夫人が体調を崩して、病院で診察を受けました。医師は病名を教えてくれず、ただ「家族を連れて来なさい」とだけ告げました。不安を抱えて夫とともに再度病院に行ってみると、がんにかかっていて回復の見込みは薄いことを告げられました。それはまさに青天の霹靂(せいてんのへきれき:急に起きる変動・大事件。また、突然うけた衝撃)でした。幸福な家庭に暗雲が立ち込めたのです。ご主人の居ても立ってもいられない姿が痛々しく見えました。子どもたちも勉強が手に着かない様子でした。しかしあるとき、家族が信仰をもって祈り始めました。みんなで早天祈祷会に出席して、神様に切に祈る家庭になりました。そこで涙とともに祈る姿は、すべての聖徒たちを感動させました。そして数日後、夫人は別の病院で再度診断を受けました。するとどうでしょう。何と誤診だったのです。夫人はがんではなく、単なる消化不良だったのです。  この出来事を契機に、この家庭はすっかり変わりました。いつでもすべてのことについて、神様に感謝し、家族を挙げて神様に献身するようになりました。いつも口を開きさえすれば神様の恵みを誇る家庭となりました。神様はすべてを働かせて益としてくださる方です。彼らはがんという死刑宣告をとおして、感謝と賛美に満ち溢れる信仰の家庭に変えられたのです。

私たちも、私たちの罪の現実の姿を見ることは、痛く、苦しいことでもありますが、こうした惨めな姿に直面してこそ、救いの喜びが大きくなるのです。不義をもって真理をはばんでいた人々のあらゆる不敬虔と不正とに対して神の怒りが天から啓示されていますが、神はイエス・キリストの血潮によって、そこから逃れる道を用意してくださったのです。これが福音です。であれば、私たちはこの福音を信じなければなりません。罪を悔い改めて、神に立ち返り、イエス・キリストの十字架の血潮を信じなければならないのです。そして、人間の本来の姿である上を向いて生きる生活、神を神としてあがめ、神を中心とした生活を始めていこうではありませんか。そのとき私たちはこの天から啓示されている神の怒りから救われ、感謝と賛美に満ち溢れた生涯を歩むことができるのです。