ローマ人への手紙9章6~24節 「神の選び」

きょうは、神の選びついて学びたいと思います。どんな人であっても、神の救いにあずかった人であるならば、自分の同胞が同じ救いにあずかることを願わずにはいられません。それはパウロにとっても同じことであり、彼は自分の同胞であるイスラエル人たちがこの救いにあずかっていない現実に心を痛めていました。しかも、イスラエル民族は神によって特別に選ばれた民でした。にもかかわらず彼らが救い主を退けているというのはどういうなのか。そのことでパウロは夜も眠れないほど悩むのです。そして、ここに一つの疑問が湧いてきました。それは、神がイスラエル民族を選んだという神のみことばは無効になってしまったのかということです。そんなことはありません。なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではないからです。イサクから出る者が、約束の子どもが子孫とみなされるからです。つまり神が彼らを選民として選ばれたのは彼らだけでなく、アブラハムの信仰に歩む人たち、つまり霊的イスラエルをご自身の民として選ぶためであったのです。すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもなのではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。

何と偉大な神の救いのご計画でしょうか。そのようにして神様は私たちをもご自身の民として選んでくださったのです。きょうはこの神の救いのご計画、神の選びについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、神の選びは、私たち人間の理解をはるかに超えたものであるということについてです。第二のことは、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるということです。第三のことは、そのようにして選ばれた私たちは、ただ神に感謝して、神のみこころのままに歩んでまいりましょう、ということです。

Ⅰ.人間の理解をはるかに超えた神の選び(6-13)

まず第一に、神の選びは私たちの理解をはるかに超えた選びであるということについて見ていきましょう。9~13節をご覧ください。

「約束のみことばはこうです。「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。」このことだけでなく、私たちの父イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。」

パウロは、この事実、すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのですということを説明するために、旧約聖書の二つの事例を挙げています。一つはアブラハムの子イサクとイシュマエルで、もう一つはそのイサクの子でエサウとヤコブという双子の子どもたちの話です。

まずアブラハムの二人の子どもイサクとイシュマエルについて見ていきましょう。パウロは、「アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」と言っています。イサクとイシュマエルは、二人とも確かにアブラハムの子どもでしたが、イサクは妻サラの子であるのに対して、イシュマエルは奴隷ハガルの子どもでした。イシュマエルは普通の子どもでしたが、イサクの場合は違っていました。どのように違っていたのかというと、イサクの場合は、その両親であるアブラハムとサラが到底子どもを持てる年齢を超えていたにもかかわらず、神の約束によって与えられた子どもであるという点です。アブラハムが百歳、サラが九十歳になったとき神は、「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を生みます。」と語られたのです。そして本当にそのようになりました。二人ともアブラハムの子どもであることには間違いありませんが、どちらが神の民として選ばれたかというと、イシュマエルではなくイサクでした。神はイサクを選ばれたのです。創世記21章に出てくるハガルがイシュマエルを連れて、少しばかりのパンと水を持って、荒野に追い出された時の光景には、本当に涙が流れます。もうどうにもならなくなって、ハガルがイシュマエルからちょっと離れて、鳴き声を上げている時に、私の心は本当に痛むのです。かわいそうです。なんでイシュマエルが、なんでハガルがと思います。そんなハガルとイシュマエルをも神様はあわれんでくださいましたが、でも神様はイサクをお選びになったのです。

もう一つの話は、神様がエサウではなくヤコブをお選びになられたという事実です。同じアブラハムの子どもでも、イシュマエルではなくイサクが選ばれたというのは何となくわかります。イサクはアブラハムの正妻の子どもであったのに対して、イシュマエルは奴隷の子どもでしたから。しかし、エサウとヤコブの場合は違います。二人とも同じ両親イサクとリベカの子どもで、しかもヤコブは弟でエサウはお兄さんです。にもかかわらず、神はエサウを退きヤコブを選ばれました。どうしてでしょうか?多くの人たちは彼らにはもともとそういう素地があったからだと考えます。つまり、エサウよりもヤコブの方が性格的にすぐれていたからだと考えるのです。たとえば、あのレンズの煮豆の事件がありました。エサウは長子の権利をあの一杯のレンズの煮豆と交換して渡してしまいました。神の祝福を軽んじる愚かさがあったと言うのです。しかし、そういう点で言うならば、ヤコブはもっとひどい人間だったのではないでしょうか?彼はその名前のごとく「おしのける者」でした。それは生まれた時から表れていました。お兄さんのかかとをつかんで生まれた来たというではありませんか。お兄さんが先に出ていこうとすると、「ちょっと待って。ボクが先だよ。」と兄さんのかかとをつかんで離さない。それでもタッチの差で兄さんの方が先に出ると、その長子の権利をどうやったら奪えるかと考えるのです。「そうだ、兄貴は食べ物に弱いから、狩りをしてお腹を空かせて帰ってきた時に美味しい煮豆を用意していたら、きっとその権利を渡すに違いない」と、長子の権利も、家督の権利も、全部奪い取って逃げて行きました。彼はまさに自分勝手な者の代表的な人物のような者です。エサウもひどい人間だったけど、ヤコブはもっとひどかった。しかし神様はそんなヤコブを選ばれたのです。なぜでしょうか?パウロはその驚くべき理由をこう語るのです。11,12節です。

「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。」

ここでのポイントは、それは彼らがまだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに定められていたということです。すなわち、神様がヤコブを選ばれたのはヤコブが人間的にすぐれたいたとか、何か良いことを行ったとかということからではなく、一方的で自由な神様の選びによるものであったということです。

人間の頭の中には因果律というものがあって、結果には必ずそれに至る原因があると考えます。たとえば、ある人が事業に成功すると、この人がどうして成功したのかを考え、彼が一生懸命に働いたので成功したとか、タイミングが良かったから成功したんだと考えるわけです。あるいは逆に失敗したりすると、「あの人は神様に対して罪を犯したから失敗したんだ」とか、「私たちの知らない大きな罪があったからあんなふうになったんだ」と考えるのです。多くの災難で苦しむヨブに、その友人たちが取った態度はまさにこうでした。しかし、聖書にはすべてがそういうわけではないと書かれています。特に、私たちの救いに関して言うならば、私たちの性格が良いからとか、私たちが洞察力のあるいい人間だからというような原因があるからではなく、それはただ神様の一方的な恵みでしかないというのです。

あるテレビ番組にミス・ユニバースに選ばれた女性とその家族が出ました。そのとき司会者がその女性にこう質問しました。「あなたがこんなに美しいのはお父さんに似たからでしょうか?」するとカメラがこの女性の脇に座っていた父親をアップでとらえたのです。しかし、横にいたお父さんはロバのような顔で、どう見ても父親に似たとは思えません。そこでさらにこう質問しました。「それではお母さんに似たのでしょうか?」するとカメラが、今度はお母さんの顔を映しましたが、お母さんの顔もイマイチぱっとしません。一体なぜこの女性がこんなにも美しいのかわからない司会者こう言いました。「たぶん、親戚に美しい方がおられるのでしょう」

これはどういうことでしょうか。これは、原因が見いだせないなら、とりあえず何か適当な理由でもくっつけておこうという態度です。これは私たちが救われた理由を扱うときにも現れます。私たちが救われたのはどうしてか?それは私がしっかりしていたらだとか、一生懸命に生きていたからだ。あるいは、私はもともと出来がいいから救われたんだ。さらには、我が家はなかなかの家系だからだ・・・というふうにです。しかし、聖書はそれが間違いだと言います。聖書は私たちが救われたのは私たちの内側に何か救われるための根拠があったからではなく、一方的な神様の選びによるというのです。まさにエサウとヤコブの例は、この事実を物語っています。人間的に見たらどうしてエサウが憎まれ、ヤコブが救われたのかわかりませんが、神様はずっと前からそのように選んでおられたからなのです。神様がこのようにくどくどと説明しているのは、そのことが私たちの行為以前にすでに決められていたことを示すためです。エペソ人への手紙の中でパウロが、

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」(エペソ1:3~5)

と言ってるのは、このことです。こういうのを神学的には何というかというと、「神様の選び」とか、「神様の絶対主権的な恩寵」と言います。予定論とか、選びの教理と言われるものです。私たちの行為とは関係なく、世の始めに神様が選んだ者をお救いになったという教理です。多くの人はこの選びの教理を語ると、「最初から救われる人と救われない人がいるなんて不公平ではないか」といぶかり、この選びの教理を受け入れられないばかりか、こうしたみことばにつまずいてしまうことも少なくありません。しかし、聖書が言っている救いとはこうなのです。それがどうしてなのかはわかりませんが、神様は救われる人たちを愛をもって予め選んでおられたのです。これが神様の選びなのです。

Ⅱ.一方的な神の恵み(14-18)    それではどういうことになるのでしょうか。先程も言ったように、神様は不公平な方だということになるのでしょうか?絶対にそんなことはありません。パウロは続く14節からのところで、先回りしてそのことについて弁明しています。14~15節までをご覧ください。

「それでは、どううことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」

ここに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」とあります。神様が自分のあわれむ者をあわれみ、いつくしむ者をいつくしんだからと言って、いったいだれが不公平だと言えるでしょうか。それは公平か不公平かということではなく、選ばれた者がいかに感謝するかどうかという問題なのです。たとえば、ある金持ちが孤児院を訪問したとしましょう。多くの子どもたちがひくめく中で、一人の子どもを選んで養子にすることにします。すると選ばれた子どもは金持ちの子どもになって、養父母の財産を相続する者になります。たった一日のうちに身分が完全にひっくり返るのです。これまでは孤児として貧しい中を生きていかなければならなかったのが、たった一日のうちに莫大な財産を相続する者に変えられるのです。何が彼の身分を一変させたのでしょうか?理由はたった一つです。それは養父母がそのように選択してくれたということです。自分の功績や善行によったのではなく、ただ養父母によって無条件で選ばれたということなのです。この場合、選ばれなかった子どもにとっては確かに不公平だなと感じることがあるかもしれませんが、これは公平か不公平かという問題ではなく、選んでくださった養父母の一方的な選びであって、選ばれた者は「ああ、本当にありがたいなぁ」と感謝する以外にないのです。

私たちの救いとはそういうものなのです。ローマ人への手紙3章23節によると、「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず・・」とあります。すべての人間は罪によって全く死ぬしかなかった存在なのです。にもかかわらず神様は、選んで救ってくださいました。ですから、神様に捨てられて救われない人間が、「なぜ自分を救ってくれないんですか」と抗議するような問題なのではなく、そこにあるのは全く救われない者が救いに選ばれた感激しかないのです。神様はなぜ私たちを救ってくださったのでしょうか?なぜ愛してくださったのでしょうか?わかりません。愛したいから愛したのであって、救いたいから救ってくださったのであって、私たちに愛されるための何か特別な理由があったからではないのです。それは全く神様のあわれみによるのです。

私は、男ばかり四人兄弟の末っ子として生まれました。ですから私には三人の兄がいるわけですが、残念ながら今のところまだだれも救われていません。私にとって信じるということはそんなに難しいことではありませんでした。小さい頃から一種のあこがれさえ抱いていました。ですから、18歳の時に教会に導かれ、イエス様を信じるようになったときも、これが普通だと思っていました。ところが兄は違います。「キリスト教はいいんだ」と口では言うものの、「じゃ、信じたら」というと、「いや、信じね」と言うのです。何で信じないの?と聞くと、必要ないからだと言います。そんなの信じなくても十分やって行けるし、そんなの信じるよりもパチンコやってた方がいいというのです。何よりも教会の存在が遠いように感じているのです。  では、なぜ自分は信じれたのでしょうか。同じ家で生まれ、同じ両親のもとで、同じように育ったのに、兄たちは信じないで、自分だけが信じている。私はずっと、その理由は自分だけがキリスト教の幼稚園に行ったからではないかと思っていました。小さい時に教会付属の幼稚園に行っていたので全然違和感がないのではないか・・・と。  確かに、そういうことも否めないかもしれませんが、しかし、それが本質的な理由ではないのです。本質的な理由は何か?それは神様が私を選んでくださったとしか言いようがありません。生まれる前から。そして、そこに教会があったことや、教会付属の幼稚園があったこと、あるいは、家内と出会うようにしてくださったことなども含めて、神様がそのように計画しておられたのです。それは決して偶然ではありません。

日本には、神様が信じられないという方がたくさんおられます。中には神様は信じているけどイエス様が信じられないという方もおられます。そして言うのです。「どうしたら信じられるのですか?」と。「信じたいのですが、信じられないのです。」と。それでも何とか信じようと「主よ。信じます。信じます。」と繰り返して称えても信じられず、ついには庭に植わった松の木に何度も頭を打ち付けながら、血を流して「信じます。信じます」と言っても信じられない人がいるのです。何が問題なのでしょうか。すんなり信じられる人とそうでない人がいるのは・・。答えは16節にあります。

「事は人間の努力や願いによるのではなく、あわれんでくださる神によるものだからです。」

事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。ですから、信じようとするのではなく、「神様、あわれんでください」とすべてを神様にゆだねて祈ればいいのです。そうすれば、神が働いて信じることができるようにしてくださいます。神が聖霊を通して、罪について、義について、さばきについて、その誤りを認めさせてくださるからです。

皆さん、どうしたらリバイバルが来るのでしょうか。人間の願いや努力によるのではありません。あわれんでくださる神によるのです。人々はそこに何か一定の法則があるのではないかと必死になって探し出し、一生懸命にそれをやってみたりしますが、いくらそのようにしたからといってそれでリバイバルがやって来るわけではないのです。たとえば、過去に起こったリバイバルの歴史を調べ、「リバイバルの前には多くの人々が徹夜で祈ったのだから、徹夜で祈らないとリバイバルはやってこない」と、そのようにしてみても、それでリバイバルがやって来るというものではないのです。なぜ?なぜなら、もしそれでリバイバルが来たとしたらそれは全部徹夜祈祷会のおかげとなってしまい、神様の栄光が奪われてしまうからです。リバイバルは神の領域であって、その時や場所、方法は、全く神の主権によるものなのです。そのために神様はいろいろな人を選んで立ててくださったりしながら、ご自分のみわざを起こしてくださるのであって、「こうすればなる」というものではないのです。私たちの人間の救いというのは、そういう面があるのです。ですから、だれかが信じて、だれかが信じないからといって、それで高慢になったり、あるいは落ち込んだりする必要はありません。事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるからです。

Ⅲ.みこころのままに(19-24)

ではどうしたらいいのでしょうか?そのように人間の願いや努力が虚しいものならば、すべては神の責任なのであって、私たちの責任は何もないということになるのではないでしょうか。一昨日はトラクト入りの聖書入門講座の案内が新聞折り込みしましたが、そうしたことも全く意味がないということになるのでしょうか。極端なカルヴァン主義に立っている人にとってはそうでしょう。こうした立場に立っている人は、神は定められた人を救いにそうでない人を滅びにと選んでおられるのだから、そんなことをしたって全く無駄ですよ、と考えます。もし救われないとしたらそれは神様がそのように定められたからであって、私たち人間の責任ではないと言うのです。しかし果たしてそうなのでしょうか。パウロはそうではないと言っています。20~21節をご覧ください。

「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか」と言えるでしょうか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。」

パウロはここで、あなたがもしそのように神に言い逆らうようなことがあるとしたら、それはあなたが大切な一つのことを全く理解していないからだと言っています。それは何かというと、神様と人間の関係です。神様はこの天地万物を造られた創造者であって、絶対者なのです。その形造られた方に対して、造られた者である人間が、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか」と言えますか。言えません。神様には神様の造られた目的なり、意図があって、その完全なご計画の中で私たちは造られ、生かされているのであって、そのことをよく理解しなければなりません。私たちの信仰はここから始まるのです。

それは陶器を作る人のことを考えてみるとよくわかるでしょう。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っているのです。そして本来ならばもう滅ぼされても仕方ないような怒りの器が、豊かな寛容をもって忍耐して保たれているとしたら、それこそ神のあわれみでしかないのです。神はこの「あわれみの器」として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださいました。

であれば、私たちは私たちを造られた方に対して、「どうしてあなたはこのように造られたのですか」と言い逆らうのではなく、その中に神様の深いご計画があると信じ、その神のあわれみに感謝して、私たちを選んでくださった神様の栄光を現していかなければならないのです。

この選びの信仰は大切です。主イエスは弟子たちにこう言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15:16)職場でも教会でも、順風満帆な時はいいでしょう。けれども、いつもそうであるかというと、そういうわけにはいきません。そのような時、この選びの信仰が生きてきます。「主が私をこの教会に、この職場に遣わしてくださったのだ」という土台に立っているといないのでは、踏ん張りが違うのです。だれもたまたま生まれ、間違ってそこに存在している人などいません。神様が尊い命を授け、意味あって、この時代、その場所に生きるように置いてくださったのです。自分の人生に間違いはないのですが、その人生の背後に、自分の理解をはるかに超えた祈りや力があると信じて生きる人は、様々な困難の中にあっても立ち上がる勇気と力が与えられ、力強く前進していくことができるのです。

皆さんも神様によって選ばれた人たちです。皆さんの人生も神様の大きな御手とまなざしの中にあります。ですから、主の御手に握りしめられ、その御手の中に安んじ、その御手の中によって守られながら、その与えられた人生を歩んでいきましょう。私たちを選んでくださった方は真実ですから、何がどう転んでも大丈夫。どこからでも、何度でも立ち直り、やり直すことができるからです。