ローマ人への手紙9章1~5節 「同胞の救いのために」

きょうは、「同胞の救いのために」というタイトルでお話したいと思います。パウロはこの9章に入ると、イスラエルの救いに関する神様のみこころについて語り始めます。この直前まで、キリストにある神の愛から、だれも私たちを引き離すことができないと語ってきた彼が、ここに来て急にイスラエルの救いについて語るのはいったいどうしてなのでしょうか。おそらく、このイスラエルの救いを通して全世界の救いについて語ろうとしていたからではないでしょうか。それにしても彼は、約束のメシヤがきたというのにどうしてイスラエルは信じようとしないか相当悩んでいたようです。それは2節の、「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず悼みがあります」という表現からもわかります。その彼がイスラエルの救いについて神から明確な啓示を受けました。それは、「彼に信頼する者は、決して失望させられることはない」ということです。イスラエルはやがてみな救われるのです。

きょうは、このイスラエルの救いを通して教えられる同胞の救いについて三つのポイントでお話したいと思います。まず第一のことは、パウロは同胞イスラエルが救われることを切に願っていたということです。第二のことは、なぜにパウロはイスラエルが救われることをそれほど願っていたのでしょうか?それは彼らが同胞であったというだけでなく、彼らは神に選ばれた民だからです。第三のことは、であれば私たちも同胞の救いのために切に祈りましょうということです。

Ⅰ.パウロの切なる願い(1-3)

まず第一に、パウロの切なる願いから見ていきたいと思います。1~3節までをご覧ください。

「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」

8章のところで、クリスチャンの圧倒的な勝利について語ったパウロが、この9章に入ると急に、「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります」と語ります。パウロが抱いていた大きな悲しみや痛みとは何だったのでしょうか?それは、3節を見るとわかります。パウロは、「もしできるなら、私の同胞、肉による同国人のためなら、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」と言っています。パウロの痛み、悲しみは、同胞ユダヤ人がイエス・キリストを拒否し、イエス・キリストの福音を信じようとしないということでした。ですから彼は、その同胞ユダヤ人が救われることを切に願ったのです。

皆さん、世界中で一番福音を信じない、イエス・キリストを信じないでいる人々はどの民族かというと、実は、神が選ばれし民であるユダヤ人なのです。パウロも初めはイエス様を信じることができませんでした。パリサイ人の中のパリサイ人として律法を厳格に守っていた彼は、イエス・キリストが神の子、キリストであるということを信じることなどできませんでした。というのは、木にかけられる者は呪われた者であると律法に書かれてあったからです。ですから十字架にかけられて死んだ者が救い主であるはずがない。イエスは神を汚す者であり、とても赦すことなどできない者たちだと、逆にクリスチャンを捕らえては迫害していたのです。しかし、そのためにわざわざダマスコという所にまで行こうと向かっていた時に、何と復活の主イエスと出会ったのです。「サウロ。サウロ。どうして私を迫害するのか。とげのついた棒をけることは、あなたにとって痛いことだ・・・。」と。そのとき彼は、このイエスがキリスト、救い主であるということがはっきりとわかったのです。そして彼は新しいパウロになりました。それまではキリストを信じる人たちを迫害していましたが、今度はキリストを伝える者になりました。彼はどこに行っても、「イエス様こそ救い主だ。この方を信じる人はだれでも救われる」と語りました。それ以来、彼はユダヤ人たちから憎まれ、激しい迫害に会いましたが、それでもひとりでも多く人が救われるたちに、十字架につけられたキリストを宣べ伝えたのです。しかし、自分たちが神様に特別に選ばれた民であり、神の律法が与えられたと自負していた彼らは、その律法を形式的に守っていれば自動的に救われると信じて、パウロの語る福音を信じようとはしませんでした。そんな彼らが信じないことはパウロにとっては大きな悲しみであり、また痛みでした。彼らが救われるのであれば、この自分は神から引き離されて、のろわれた者になってもいいと思うほど、彼は同胞ユダヤ人が救われることを願っていたのです。

このパウロの痛み、悲しみを思うとき、私は、自分がどれほどこの日本人の救いのために祈っているだろうかと思わされます。日本人は、ユダヤ人ほどではありませんけれども、イエス様の恵みを聞いても、なかなか信じない民です。隣の韓国ではもう25%もクリスチャンになっているというのに、日本では1%もいません。ある人の調査では、おそらく17万人くらいだろうと言われています。17万人ですよ。日本の伝道は、押しても引いてもどうにもならないところがあるのです。そうした現状に直面すると、「ああ、いくらやってもだめだな」「もう仕方がない」というあきらめに似たような思いになってしまうこともあります。

神学校を卒業したある牧師が、故郷の新潟に帰って伝道しました。三日間の天幕伝道でした。一生懸命イエス様の恵みと救いについて語ったのにだれも信じないのに堪忍袋の緒が切れたその牧師は、最後の晩にテーブルをたたいて罵倒したそうです。「どうして皆さんは神様を信じないんですか。神様の愛を、神様の救いをどうして信じないんですか」と。そしてそれからいつの間にか、もう仕方がない、だめだと思うようになったというのです。

打てど響かない日本の伝道の現実に、もうだめだとあきらめてしまいそうになることもありますが、しかし、神はそんな頑ななイスラエルが皆、救われる時がやって来ると告げるのです。ウンとも、ツンとも言わないのではなく、今はその時の準備なのであって、寛容と忍耐をもって祈り続けていかなければならないのです。

残念ながら多くの人々が、「現代人は魂の救いに関心がない」と思っています。また、みんなお金を稼ぐことや有名大学に入ること、大きな家に住むことにしか関心がないと思っていますが、そうではありません。皆、魂の救いに対して飢え渇きを持っているのです。私は時々社会的に成功していると思われる人やお金持ちのような人とお話することがありますが、そういう人たちが福音に対して関心を示し、耳を傾けて聞いてくれます。政治や経済の話だけが、彼らの関心事ではありません。そんなことが希望の根源にならないことくらい、彼ら自身が十分知っているからです。彼らの希望は枯渇した心がどうしたら潤されるか、どうしたら救われるかということなのです。ですから私たちが大胆にイエス様のことを伝えるとき、彼らはそのみことばを聞いて救われるようになるのです。なぜなら、私たちの霊的な飢え渇きを満たすことができるのは、私たちの救い主イエス・キリストしかいないからです。

50代、60代の人ならサイモン&ガーファンクルという有名なポップグループをご存知でしょう。60年代から70年代にかけて一世を風靡しました。あるときサイモンがテレビ番組に出演しました。雑談した後、司会者がこうサイモンに尋ねました。「あなたの最近の主な関心事は何ですか?」そのときサイモンが何と答えたと思いますか。彼はこう言いました。「最近、私の心を占めているのは、死に対する恐れです。」これは、彼の正直な告白ではないでしょうか。彼には財産もあり、名誉もあり、実に生き生きしているようでしたが、彼の心の中には死に対する恐れ、神様に認めていただける人生ではないという恐れがあったのです。

それは私たちの国、この日本人も同じです。日本人はなかなか福音に対して心を開いていないかのように見えますが、実はそうした恐れや不安をみんな抱いているのです。たましいに対する強い飢え渇きを持っているのです。この日本人が救われることを願い切に祈ることを、神様は私たちに求めておられるのです。

Ⅱ.選びの民イスラエル(4-5)

ところで、パウロはなぜそれほどにイスラエルが救われることを願っていたのでしょうか?それは彼らがパウロと同じユダヤ人であるということもありましたが、それ以上に、彼らは神様に選ばれた民族であったからです。4~5節をご覧ください。

「彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。父祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。」

パウロは、イスラエルを裏切った裏切り者ではありませんでした。彼の中には、ユダヤ人が神様に特別に選ばれた特別な民であり、やがて必ず救われるという強い確信がありました。私たち異邦人はそうではありません。エペソ2章12節によると、私たちはキリストから遠く離れていて、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあっては望みもなく、神もない人たちでした。しかし、神様のあわれみによって、自分の罪を悔い改め、イエス様を信じる信仰によって、神の子としていただけたのです。それまでは遠く離れていた者だったのに、イエス様を信じたその途端に、「アバ、父」と呼ぶ神の御霊が与えられたのです。しかし、イスラエルはそうではありません。イスラエルは神様が特別に選んで子としてくださった嫡子です。養子縁組によって子となったわけではないのです。そういう特別な民でした。ここには、彼らがいかに特別な民であったのかが列挙されています。それは「栄光」であり、「契約」が与えられた民であり、「律法」も、礼拝も彼らのものです。

まずイスラエルには栄光がありました。彼らは幕屋に行って、神とお会いすることができました。そこにはいつも神の栄光の輝きである「シェキナー」がありました。彼らはかつてモーセがシナイ山で神と顔と顔とを合わせてお話したように、神の臨在の中で、神と交わることができたのです。それから彼らには、神との契約が与えられました。律法です。彼らにはそれを守ったら本当に幸福になるという約束与えられていたのです。世界広しと言えども、イスラエルのように神様からこのような契約が与えられた民は他にはいません。それは本当に特別なことでした。そして何よりも、救い主であられるキリストはこのイスラエルから出ると約束されていました。

「主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福されます。」(創世記12:1~3)

つまり、イスラエルは祝福の基として、神に特別に選ばれた民だったのです。であれば、今は多くのユダヤ人が救い主を受け入れることを拒否し、キリストの福音を拒否しても、やがてこぞって信じるようになるときが必ずやって来るのです。パウロはそうなると堅く信じていました。

それは、救われるようにと神様によって選ばれていた私たちクリスチャンにも言えることです。エペソ人への手紙1章4節を見ると、ここには、「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」とあります。神様は、この世界の置かれる前から私たちが救われるようにと選んでいてくださいました。私たちは神様にとって特別の選びの器なのです。ということは、その選びというのは、私たちの状態や、私たちの条件、私たちの願い、私たちの努力、私たちのいろいろなことと関係なく、それを超えたものであるということです。どんなことがあっても必ず救われるのです。ペテロは3回もイエス様を知らないと否みました。パウロはクリスチャンを捕まえては牢屋にぶち込むようなことをしました。にもかかわらず神様は彼らを許し、救ってくださいました。なぜ?彼らもまた神様の深いあわれみによって選ばれていたからです。神様によって選ばれた者であるなら、どんなことがあっても必ず救われるのです。「彼に信頼する者は、決して失望させられることはない。」(33節)のです。それがパウロの確信でした。

Ⅲ.同胞の救いのために(3)

ですから第三のことは、私たちは、私たちを選んでくださった神の恵みに感謝して、同胞が救われることを切に願いましょうということです。そのためにパウロは、「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」と言いました。

エゼキエル書22章30節に、「わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。」ということばがあります。「破れ口」とは、人々の罪によって引き裂かれた、神と人との間の絆の「破れ口」をさしています。当時、南王国ユダは、神のみこころに反して、ひどい罪に汚れていました。そんな彼らに対して神はその裁きが下る前に、もし彼らの間に、人々のために神にとりなす者がいたならば、神は裁きをお下しにならなかったかもしれないので、そうした「破れ口」に立って修理する人を捜し求められたというのです。しかし、神に向かってとりなしの祈りを捧げ、神と人との間の「破れ口」を修復する者は、結局ひとりも見つかりませんでした。それで神は、バビロン帝国による侵略を許し、エルサレムを滅ぼされたのです。神は、ご自身と人々との間の「破れ口」を修復する者を、人々の間に捜し求められるのです。

パウロはまさにこの「破れ口」に立った人です。彼は、「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもいい」と言いました。彼は、もしできることなら、ユダヤ人の救いのために自分が身代わりになりたい、とまで言ったのです。

モーセもまたこの「破れ口」に立った一人です。彼はイスラエルが荒野で金の子牛の像を拝み、神からのさばきを受けたとき、「もしも、かないませんなら、どうかあなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください」 (出エジプト32:33)と祈りました。すると神はこの祈りを聞かれ、イスラエルを赦してくださいました。

このように本当に命がけでとりなして祈る祈りを、神様は聞いてくださるのです。いったい私たちにこのような祈りがあるでしょうか?このような叫びがあるでしょうか?もしあるのなら、私たちは同胞が救われるために神様の御力が働かれる通路となることでしょう。そしてこのような祈りは、このような涙の祈りは決して無に帰することはありません。やがて必ず救われる魂が起こされてくるようになるのです。

サムエル・スティーブンソンという人が、多くの魂を救いに導いた人たちの記録を調べてみました。すると彼らには一つの共通点がありました。それは何かというと、多くのたましいを救いに導いた神の器たちは、魂のために何時間も祈る人たちであったのです。神様は彼らの涙をご覧になられました。そして彼らに聖霊を注いでくださり、救いの道具として用いてくださったのです。まことに多くの魂を生かす人は、魂のために涙を流して祈る人だったのです。

そして、何よりもイエス様は十字架で私たちのために涙の祈りをささげられました。イエス様は神に背いて生きている全世界のすべての人々のために、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)と祈られました。イエス様は神と人間の間の「破れ口」に立ってとりなしてくださったのです。

神様の尊い選びによって救いの恵みの中に入れられた私たちに今求められていることは、私たちもまたこの時代の破れ口にたって同胞の救いのために真剣に祈る人となることです。「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、呪われた者となることさえ願いたいのです」と祈ったパウロのように、同胞日本人の救いのために、涙して祈ることなのです。神様はその涙を決して無駄にはなさいません。そのとりなしに答えて、救いのみわざを成してくださいます。その時はまだ来てはいませんが、必ずやってきます。「彼に信頼する者は、決して失望させられることはない」からです。それに備えて、真剣にとりなす者でありたいと思います。それが恵みによって救いに選ばれた者に与えられている使命なのです。