ローマ人への手紙10章1~13節 「救いの道」

きょうは「救いの道」というタイトルでお話したいと思います。神様のみこころは、すべての人がイエス・キリストを信じて救われることです。パウロは、そのために必要なのは信仰だということを、繰り返して強調します。そこに福音の核心、人類の救いがあるからです。

きょうは、この信仰による救いについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、熱心であるだけでは救われないということです。神様に対して熱心であることはすばらしいことですが、それが聖書という正しい認識に基づいたものでなければ、それはいつの間にか自分中心の熱心となってしまい、自己主張に陥ってしまう危険があります。第二のことは、救いはイエス・キリストにあるということです。キリストは律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるからです。ですから第三のことは、イエス・キリストを信じるなら、あなたも救われるということです。もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

Ⅰ.熱心の方向性を点検して(1-3)

まず第一に、熱心であるだけでは救われないということについて見ていきましょう。1~3節をご覧ください。

「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。」

パウロは、同胞イスラエル民族が救われることを切に願い求めていました。彼らは神に対して熱心であることは間違いはありませんでしたが、残念ながらその熱心は正しい知識に基づいたものではありませんでした。言い換えると、その熱心は神様の知識に基づいたものではなく、自分なりの熱心だったのです。

信仰生活において熱心であることはとても重要なことです。それは自動車のエンジンのようなもので、エンジンに火がついていなければ何も動かないように、信仰にも熱心さがないと、その人生に何の変化も生まれません。聖書にも、熱心であることの重要性は至るところにしるされてあります。たとえば、このローマ人への手紙12章11節のところには、「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」とあります。また、黙示録3章15節のところには、冷たくも熱くもなかったラオデキヤの教会に対して、イエス様が次のように言われました。 「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。」冷たいか、熱いかであってほしいと言われました。信仰の原点に返ってほしいという主の願いです。信仰を持った当初はだれにも熱いものがあったのに、その情熱が知らず知らずのうちに薄れてしまいます。熱は、熱さを伝えるがゆえに他に影響を及ぼしていくのです。その熱がいつしか冷めてしまうことがある。だから、熱心になって悔い改めるように、絶えず私たちの信仰をリセットするようにと言われるのです。

問題はその方向性です。イスラエルの民は確かに熱心でしたが、その方向が間違っていました。彼らは神様に対して熱心ではありましたが、その熱心は正しい知識に基づいたものではなかったのです。神様のみことばを基盤としていなかったからです。ですから、熱心ではあったものの、気がついてみたら全く的外れな所に立っていました。神様のみこころどころか、それとは全くかけ離れた所にいたのです。  たとえば、パウロはそうでした。彼は、救われる以前、本当に熱心でした。彼がどれほど熱心だったかについて聖書は、イエス様を信じる人々を捕まえては牢屋にぶち込んでいたほどであったと紹介しています。木にかけられた者はのろわれた者であって、救い主であるはずがない。そんなことを信じるヤツらは神を冒涜しているのだと思っていたからです。彼はそのためにダマスコまで出かけて行きました。今でいうと、自分の国だけでなく、外国にまで出かけて行って、クリスチャンを迫害しに行くようなものです。神様のためにと思ってやっていたことが、かえって神様に敵対し、神の国を妨げてしまう障害になっていたのです。これは生かす熱心ではなく、殺す熱心です。神様のための熱心ではなく、自分なりの熱心なのです。熱心であることはすばらしいことですが、その熱心がみことばに根拠を置いていないと、このようなことにもなりかねません。こうした傾向は、私たちの誰にでもあるのではないでしょうか。ですからイエス様はマルタにこのように言われたのです。

「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:41-42)

私たちは熱心になって突っ走る前に、あのマリヤの姿勢から学ばなければなりません。マルタはイエス様をもてなそうと、慌ただしく走り回っていました。逆にマリヤはイエス様の足下に座り込んで、みことばを聞いていたのです。そのうちにだんだんと気が落ち着かず、イライラしてきたマルタは、イエス様のみもとにやって来て言うのです。「イエス様。妹があなたのお話を聞くことに夢中になって、ちっとも私のことを手伝ってくれないのです。何とか言ってくださいませ・・・。」そのマルタにイエス様が言われたことがこうでした。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかなんですよ。いや、一つだけです。マリヤはその良い方を選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」マリヤが選んだ良い方とは何だったのでしょうか。それは、主のみことばを聞くということでした。私たちはまず神様のみことばを聞き、その次に走るべきです。祈りとみことばを第一にして、まず神様のみこころが何かを悟って、みことばに耳を傾けて、熱心に奉仕のわざに励むべきです。礼拝と祈祷会を最優先にする中で、その土台の上に私たちの信仰生活、私たちの人生を築き上げていくべきです。これがマリヤの選んだことであり、イエス様が求めておられることでした。私たちの熱心は、方向が正しいときにこそ意味があるのです。

Ⅱ.キリストが救い(3-7)

では、正しい方向とはどの方向なのでしょうか。第二に、それはイエス・キリストです。3~7節をご覧ください。

「というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いています。しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることなのです。」

イスラエルの熱心は、その方向がなぜ間違っていたのでしょうか。3節、「というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。」神の義は、旧新約聖書を通して一貫して流れている聖書の重要なテーマです。それは、どうしたら神様が私たち人間を受け入れてくださるかということであり、言い換えるなら、どうしたら救われるのかということです。彼らは神様が用意してくださった救いを知らず、自分自身で救いを勝ち取ろうとして、神の救いに従いませんでした。しかし、聖書は、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(ローマ3:23)と断言しています。人間は生まれながらに罪人であり、口を開けば、のろいと苦々しいことばを語り、まさにまむしの毒のようなものをまき散らすのです。他人が血を流して倒れていても、何とも思いません。むしろ他人の不幸を喜ぶ自分があるのです。なぜでしょう?罪があるからです。これが人間の姿であり、人間の本質なのです。これが私たち人間に対して聖書が語っていることなのです。このような人間が、いったいどうやって神の要求を満たすことができるというのでしょうか。できません。たとえ私たちが形式的に律法を守っているかのようであっても、心と思いを見通される神様にとっては、受け入れることなどできないからです。

ではどうしたらいいのでしょうか?自分の義を立てようとするのではなく、神の義に従えばいいのです。それがイエス・キリストでした。4節、「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」どんなに強い意志も、どんなに高尚な道徳も、どんなに鋼鉄のような力をもってしても解決できなかった罪の力が、イエス様が十字架に釘付けされたことによって砕かれました。これが神様が備えてくださった方法だったのです。世の方法では不可能なので、神様は十字架という特別な方法を備えてくださったのです。神様は、ご自分のひとり子を十字架で死なせることによって、私たち一人ひとりの罪の代価を身代わりとして負われました。ですから、私たちは、ただその十字架で死なれたイエス様が私の救い主であると信じて、この方に頼って生きればいいのです。これが、神様がこの世に与えてくださった唯一の救いの道なのです。ですから、キリストの弟子達は、行く先々で次のように叫びました。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12)

イエス様以外に道はありません。イエス様だけが、十字架だけが、唯一の救いの道です。それはイエス様ご自身も証ししておられることです。

「わたしが道であり、真理であり、いのちです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはできません。」(ヨハネ14:6)

それなのに人々は、愚かにもむなしい解決策を考えます。十字架の道を歩くことこそ生きる道なのに、全く見当外れな道に行くのです。その代表的なものは「比較することです。「あの人が救われるなら、私は絶対に救われる。私の方がましな人間だから」「世の人たちは多くの罪を犯しているが、私はそれほど多くの罪は犯していないのだから、きっと天国に行けるに違いない」と言うふうにです。しかし天国は、相対的な評価で行けるところではありません。百人中二十人までが合格で残りの八十人は失格するようなものではないのです。信じて従うならすべての人が天国に行けるし、罪を悔い改めないでイエス・キリストを信じないなら、すべての人が地獄に行ってしまうのです。

また、ある人たちは、何か善いことをしたら天国に行けると考えます。たとえ自分が10の悪いことをしても、100の善いことをしたら、自分がした悪いことは帳消しになるに違いないというのです。善いことをすることはすばらしいことですが、しかし、たとえ善いことをしても、それによって悪いことが帳消しになるというわけではないのです。というのは、聖書には「罪みの報酬は死です。」(ローマ6:23)とあるからです。私たちが犯してしまうどんな小さな罪であっても、その行き着くところは死でしかないのです。ちょっとした善行でそれがカバーてきるというものではありません。しかし、神のひとり子であられるイエス様が十字架で死んでくださったみとによって、私たちが受けなければならない刑罰のすべてを受けてくださいました。ですから、私たちの罪が許されるためには、私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んでくださったイエス様を信じるだけていいのです。

日本人は勤勉で切実な民族だと言われます。より努力してパーフェクトを目指すという特性があります。けれども、そこに福音が入ったらどうでしょう。ややもすると、福音を努力して達成する、頑張って救いを完成しようとする落とし穴があるのではないでしょうか。長所はまた弱点でもあります。足りないままで主にすがるとか、欠けがあるから信じるというのではなく、もっと自分でやるべきことをやってからではないと申し訳ないとか、こんな自分では主にお願いする資格もないのではないかと思ってしまうのです。

佐藤彰先生が書かれて「順風もよし、逆境もまたよし」という著書の中に、長らく韓国に住み、教会で奉仕をした方の言葉が紹介されています。日本人と同じようにはしを使い、白菜を食べ、靴を脱いで家の中に入る、すぐそばにいる韓国の人が、こんなにもメンタリティが違うのかと思うような出来事に遭遇したというのです。それは早天祈祷会に参加した帰りのことでした。主よ、主よと熱心に祈った後で、祈祷会に参加した何人かが出口のところで激しく口論していたというのです。日本人の感性からすると、祈祷会の後で口論するなんて場違いではないかと思われる光景です。けれども、その疑問を率直にぶつけてみると、こういう答えがかえってきたそうです。そういう自分だからこそ、神様が必要なんだ。主よ、主よと信仰をもって祈らなければならないんだ・・・と。

なるほど、口論なんてしない聖人君子になったから祈るのではなくて、そうじゃないから祈りが必要なんだ、信仰が必要なんだという発想です。そのとき、その人はそこまで単純に割り切れない自分自身を意識させられたと言います。何事においても度を越すのは問題です。しかし、そのような場面においてはしばしば落胆し、自分を責め、こんな自分でもクリスチャンなのかと自問自答し、かえってなえてしまうのが日本人には多いのではないでしょうか。  もともと欠けがあるから救いを必要とし、クリスチャンになったのではありませんか。そこから単純に、主よと御顔を慕い求める信仰に転換したらどうでしょうか。自分で頑張ってみてから主のもとに行こうとか、まだ自分の側で努力すべきだなどと一呼吸置かないで、その時々のありのままの姿でみもとに近づく信仰を主は求めておられるのではないでしょうか。

Ⅲ.主イエスに信頼して(8-13)

ですから第三のことは、主イエスに信頼しましょうということです。8~13節をご覧ください。

「では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。」

ではどうしたらいいのでしょうか。この信仰のことばを信じればいいのです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。私たちが天国に行くために必要なことは、自分であくせくと労することではなく、このキリストに焦点を合わせ、キリストの救いの福音を、心で信じ、口で告白することです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです。「心に信じる」とは、この福音、つまりこの神が用意してくださったキリストの救いを、自分の心に受け入れることです。「口で告白する」とは、それを包み隠すことなく、はばかることなく、自分が信じていることをはっきりと表明することです。洗礼はその一つでしょう。つまり、このキリストの十字架の福音に全人格を賭けることなのです。それは単に口先だけで、自分がクリスチャンだとふれ回ることではなく、キリストがいのちを賭けて用意してくださったその救いに対して、こちらも全存在を賭けて答えていくことなのです。これが信仰です。この信仰の道こそ、神がキリストによって私たちに与えてくださった唯一の救いの道にほかなりません。そこには、ユダヤ人とかギリシャ人といった区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。この主を呼び求める者は、だれでも救われるからです。

55歳で胃ガンの宣告を受けられた姉妹が天に召されました。生前、彼女が通う教会の牧師のもとを訪れて、「胃ガンの宣告を受けました。あと半年とのことです。」と、あまりにも穏やな表情で淡々と話されたのに驚いた牧師が、逆に尋ねました。「どうしてそんなに平静でいられるのですか。」彼女の答えはこうでした。「先生、私は特別な信仰者ではありません。ごく普通の信仰者です。でも、このときほどクリスチャンでよかった、信仰を持っていてよかったと思ったことはありません。」事実は、彼女は医師からの厳しい告知を受け止め、何ら動揺することない自分自身に驚いたと言います。  翌週の日曜日の礼拝で、教会員にその事実を告げると、みんなで涙の祈りの時を持ちました。するとどうでしょう。あんな平静としていた彼女の目からも大粒の涙がこぼれていたのです。そしてマイクの前でこう話されました。「皆さん、私は悲しくて泣いているのではありません。うれしくて泣いているのです。こんなに多くの人に祈られて、何と幸いなんだろう」と。  医師はあの時点で余命半年を告げましたが、現実にはそれから約二年の歳月が流れました。その間、彼女は本当に大切なものとそうでないものとを峻別し、神様の前に出ては祈り、喜々として 教会に通われました。  息を引き取られる三日前に病床で撮られたビデオメッセージが、召された後の日曜日の礼拝で流されました。そこには「私は本当に幸せでした。ありがとう」と語る本人のメッセージが収められていました。彼女は死に呑まれたのではなく、死を乗り越えたのです。病が彼女の命を取ったのではなく、彼女をこれ以上苦しむことがないようにと、神様が病を断たれたのでした。「私はごく普通のクリスチャンです」から始まって、天国の住人にふさわしく聖化の道をたどり、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられて、天国の階段を上っていかれた姉妹の姿に、クリスチャンの真骨頂を見る思いがしたと、その牧師は語っています。

それは、この姉妹だけではありません。主の御名を呼び求めるすべての人も同じです。主の御名を呼び求める者は、だれでも救われるのです。これまで皆さんはどこを見て生きていらっしゃったでしょうか。何に対して熱心であられたでしょうか。イエス・キリスト、この方こそ神が用意してくださった救い主であり、私たちを天国へと導いてくださる方です。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:1)というみことばがありますが、私たちはこの主イエスから目を離すことなく、この方に焦点を合わせながら、天国までの階段を一歩一歩駆け上がって行きたいものです。