ローマ人への手紙10章13~21節 「信仰は聞くことから始まる」

きょうは、「信仰は聞くことから始まる」というタイトルでお話したいと思います。パウロは10章前半のところで、信仰による救いについて語りました。すなわち、信仰は熱心なだけではだめだということです。信仰において重要なのはその方向性であります。イスラエルは神に対して確かに熱心でありましたがその方向性が間違っていました。彼らの熱心は聖書の知識に基づくものではなく自己流だったのです。彼らは神の義ではなく、自分自身の義を立てようとしていました。それが問題だった。では正しいベクトル、正しい方向とはどのような方向なのでしょうか。イエス・キリストです。キリストは律法を終わらせたので、信じる者はみな義と認められるのです。もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるのです。では、どうしたらそのような信仰が生まれてくるのでしょうか?パウロはきょうの箇所で、そのことについて説明しています。14節、15節をご覧ください。

「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」

これは倒置法といって、ある一つの事柄を強調して表現する時に、普通の順序とは逆に表現する方法が取られています。ですから、この文を理解するためには後ろからさかのぼって理解すればいいのです。すなわち、遣わされる人がいるなら、宣べ伝えることができます。宣べ伝える人がいるなら、聞くことができます。聞くことができるなら、呼び求めることができます。呼び求めることができるなら、信じることができます。というようになります。ここには、信じるためには次の三つのことが必要であると言われているのです。第一に、みことばを聞くことです。第二に、みことばを宣べ伝える人です。第三に、遣わされることです。きょうは、この三つのことについてお話したいと思います。

Ⅰ.信仰は聞くことから(14)

まず第一に、信じるためにはみことばを聞かなければなりません。17節には、 「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」とあります。信仰は聞くことから生まれるのです。何を聞くのでしょうか?イエス・キリストについてのみことばです。ノンクリスチャンの方がイエス様を信じて信仰を持つ秘訣は何でしょうか?それはあらゆる手段と方法を使って、キリストについてのみことばを聞かせることです。美しい夜空を眺めていたら、突然イエス様を信じるようになったというようなことがあるでしょうか?ありません。美味しい食事をしていたら、気持ちよくなってイエス様を信じようと思ったというようなことがあるでしょうか?ありません。その感情が一時的に盛り上がるということはあるかもしれませんが、それが信仰に結びつくことはありません。なぜなら、信仰はイエス・キリストの十字架と復活という事実に基づいているからです。イエス様を信じるためには、イエス様についてのことば、福音を聞かなければなりません。信仰はただ、キリストについてのみことばを聞くことから生まれるのです。神様のみことばに出会うなら、そのとき信仰が生まれます。教会で伝道集会をする理由は何でしょうか?ノンクリスチャンの方に何とかして神様のみことばを聞いてもらうためです。そういう意味では、ノンクリスチャンの方々に何とかして神様のみことばを聞いてもらう機会を作らなければなりません。

アメリカに住んでいたある信仰深いおばあさんが、思わぬ病気で1年近く入院しました。この人は健康な時も伝道熱心でしたが、病気で入院しても、どうしたら伝道できるかなぁと一生懸命に考えていました。そして祈っているうちに、神様はこのおばあちゃんにすばらしい知恵を与えてくれました。  このおばあちゃんはアルバイトの大学生を雇うことにしたのです。そして、一日三時間から四時間聖書を読んで聞かせてくださいと頼みました。「私は病気になって聖書を読めないから、私の横で読んでおくれ。そうすれば、一週間で幾ら幾ら、一ヶ月で幾ら幾らあげるから」と言って雇ったのです。お安いご用ですよおばあちゃんと、ある学生が読んでやることになりました。マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネと、聖書を順番に読んでいきました。すると、重要なみことばが出てきます。たとえば、ヨハネ3章16節とか、使徒16章31節のようにです。 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16) 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)  するとこのおばあちゃん、わざと聞こえないふりをして、「ちょっと学生さん、よく聞こえないわね。そのところもう一度読んでくれるかしら」とかと言って、もう一度読んでもらうのです。初めのうちは何も起こらなかったのですが、これが二,三回ち続くうちに、その大学生はみことばを読んで感動し、聖霊の促しによって悔い改めへと導かれ、主を信じるようになったというのです。このおばあちゃんはこの方法で、一年間に十人以上の学生を救いに導いたと言います。日本は置かれている状況は違いますが、原則は変わりません。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」よく口先だけで福音を語っても意味がない、自分の行動や生き方を通して模範を示すことこそ大切であって、みことばを語ることではないと言われますが、これは違います。確かにクリスチャンの生き方は大切です。けれども、そうした生き方とともに唇を通してみことばを語ることが必要なのです。というのは、正しい人などだれもいないからです。神様は、「宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められた」(Iコリント1:21)からです。

Ⅱ.宣べ伝える人(14)

第二のことは、宣べ伝える人が必要です。14節に「宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう」とあります。みことばを聞くためにはそれを宣べ伝える人が必要なのです。

イエス様はマタイの福音書9章37節のところで、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」と言われました。収穫のために必要なのは何でしょうか。人です。働き人です。イエス様は収穫のために鎌が必要ですとか、コンバインが必要ですとか、トラクターが必要です、とは言われませんでした。働き手が必要です、と言われたのです。イエス様の愛に結ばれて、福音のためならどんなことでもするという、そして何とかしてみことばを伝えたいという愛と情熱の人が必要ですと言われたのです。これは不思議なことではないでしょうか。神様はこの天地万物を造られた全能者です。「わたしは、わたしはあるというものである。」と言われた方、すなわち、他のものには一切依存しなくてもそれだけで存在することができる自存の神です。そのお方が、この福音のことばを伝えるために人を求めておられるのです。バプテスマのヨハネは、「神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」(マタイ3:9)と言いました。また別のところでイエス様は、「もしこの人たちが黙れば、石が叫びます」(ルカ19:40)と言われました。その神様が、この救いのみことばを宣べ伝えるために働き人を求めていらっしゃるのです。

日本で「世の光」というラジオ放送が始まってちょうど60年が経ちました。(1951年スタート)当時、駆け出しの牧師として働いておられた羽鳥明先生のところに何人かの宣教師たちがやって来て、何とか日本のすべての人にキリストのことばを聞いてもらえるようにラジオで福音を放送したいんだけど、羽鳥さんやってくれませんか、と頼まれたのです。「ラジオ伝道は悪いことではないけれど、金と暇がある人がやればいい」と最初はお断りしたそうです。お金を出して電波を買い、機械に流して電波に乗せて放送したら全部が救われるかといったらそうじゃないだろうと思ったからです。イエス様は血潮によって救ってくださったんだから血潮にふさわしい伝道によってこそ人々は救われると思っていたのです。しかし、だれかがやらなければならない。羽鳥先生は、自分はそのために神様によって選ばれていたのかもしれないと思うようになり、このラジオ伝道が始まったのです。あれから60年、テレビによる放送も始まりました。今では、聞こうと思えば全国の96%の人たちが聞けるようになりました。そのために30人くらいの人がスタッフで働いています。多額の費用もかかりますが、今日までずっと続けてくることができました。なぜでしょうか?羽鳥先生はこう言っておられます。それは、この放送伝道のために、五千人もの人たちが、血が出るような、汗が出るような献金をしていてくださるからです。伝道はあくまでも、教会の、イエス様に身をささげた人たちの働きによるものなのです。放送伝道はそうした教会の働きを助ける一つの方法でしかありません。いつの時代にあっても神様は、この福音宣教のために私たち一人一人の人を用いようとしておられるのです。

Ⅲ.遣わされなくては(15)

第三のことは、そのためには遣わされなくてはならないということです。15節に、「遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。」とあります。

イエス・キリストの福音を語ることは、並大抵のことではありません。だれが「あなたは罪人です」なんて言いたいでしょうか。言いたくありません。できればその人にとっていいことを言ってあげたいと思うものです。キリストは死んでよみがえったんです。そのキリストがあなたの救い主です、なんて言いたいでしょうか?大橋さんも、とうとうきたかと思われるのが嫌で、言いたくないでしょう。私たちの肉なる思いは、全力をあげてそれを拒否するのです。パウロは、「福音を恥とは思いません。」と言いましたが(ローマ1:16)、なぜそんなことを言ったのでしょうか?福音が恥ずかしいという思いがあったからではないでしょうか。そのように肉なる思いは、なるべく福音を語らせないようするのです。誰にも会わないで自分の殻に閉じこもっていさせようとするのです。確かに伝道することは楽しいことです。伝道して人が救われた時には、もう天にも昇るような思いになります。

私が最初にこのような体験をしたのは今から28年前のことです。毎週金曜日の夜に家庭を開放してフライデーナイトという聖書研究会を行っていましたが、その帰り道、そこに参加していた一人の姉妹を家まで送って行く帰り道でのことでした。「イエス様を信じたいけれど回りの人から変な人だと思われるのが嫌で、なかなか決心できない」ということでした。何と答えたらいいか心の中で祈りながら、このようなことを言いました。「まあ、どうせ変なんだからいいんじゃないですか。心配しなくても」するとその方が「そうですね。じゃ信じます。」と言われたのです。そして車の中で信仰告白に導かれました。そのときの興奮を今でも忘れることができません。いたって冷静を装っていましたが、心の中はもう天にも昇るような気持ちでした。家に帰ってから家内に、「いやね、今送って行く途中で姉妹が信じたんだよ」と言うと、一緒に喜んでくれました。その姉妹が最初に洗礼に導かれ教会開拓へと進んでいきました。伝道して人が救われた時の喜びは、本当に大きなものがあります。それは今でも変わりません。うれしい。

しかし、じゃイエス様のことを語ろうと、電車の隣に乗っている人に、公園のベンチに座っているおじさんに、道ばたを歩いているおばさんに伝道しようと思うと、やめておこうという気持ちになってしまうのです。肉なる思いはなるべく福音を語らせないようにとするのです。

しかし、イエス様は何と言われたでしょうか?イエス様は次のように言われました。ヨハネの福音書20章21~23節、

「イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

イエス様は、「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」と言われました。私たちは福音を恥とするような弱い者です。知識や経験もありません。しかしイエス様は、そのことを全部承知の上で、「わたしはあなたがたを遣わします。」と言われるのです。わたしがいっしょに行きますから、わたしが天の父から与えられた全権をあなたがたに与えますから、あなたがたが語ることばは聖霊がちゃんと教えてくれますから、聖霊があなたを励まし、力を与えてくれますから、行きなさいと言われるのです。世の基の置かれる前からあなたがたを選び、あなたがたを愛しました。わたしはあなたをこの地上でも天国でもすばらしい喜びと栄光を持つようにしましたが、この地上にはまだ福音を知らない人たちがたくさんいるのです。だからわたしはあなたを遣わします、と言われるのです。天の父なる神様がわたしを遣わしてくださったように、神の臨在と力をもって遣わします。行ってくれますか。行ってくれますか。行ってくれますか。そう言われるのです。

それは、神様が本当に願っておられることです。パウロはこの後の15節後半のところで、旧約聖書のみことばを引用して、次のように言いました。「良いことの知らせを伝える人の足は、なんとりっぱでしょう。」  この福音の知らせ、良いことの知らせを伝える人の足はなんとりっぱでしょう。私の足は小さくて、臭くて、醜い足です。時々気になってデオドラントスプレーをするほどです。それに加えて痛風もあって時々痛むのです。先日かかとを見たらいつの間にか硬くなっていて、ひびが入っていました。昔はつるつるで、すらっとしていたのに、いつの間にはカパカパになってしまいました。とてもかっこいい足とは言えません。けれども主は、そのような足でも、良いことの知らせを伝える足なら、りっぱだと言ってくれるのです。それは皆が牧師、皆が教師、皆が伝道者にならなければならないということではありません。もしそうだとしたら、だれがこの社会で主を証するのでしょうか。ですから、これはみんなが牧師にならなければならないということではないのです。しかし、私たちすべての人に求められていることがあります。それは、イエス様に、「行ってくれますか」と言われたら、「はい」「行きます」と答えることです。行って何をするのでしょうか。それは一人一人違うでしょう。ある人は水をくむことであったり、またある人はマリヤのように香油を注ぐだけのことかもしれません。しかしそれがどのようなことであったとしても、「行ってくれますか」とイエス様に言われたならば、「はい。行きます」と答えること、それが求められているのです。

かつて神の山ホレブで羊を飼っていたモーセのところに神様が現れて言われました。「行ってくれますか?」「わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出すように」と。しかし、モーセは神に言いました。「私はいったい何ものですか。そんなことできるはずがないじゃないですか」それに、「あながたの父祖の神が、私をあなだたのところに遣わしたのだ」と言っても、「その名は何ですか」と言うでしょう。そんなの無理です。無理。無理。すると神様は言われました。 「神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」(出エジプト3:14)「わたしはあるという者である」と言われる方がともにいてくたさり、この方が私を遣わしてくださった。それで十分です。これほど力強いことがあるでしょうか。そのことばに従ってモーセは出て行ったのです。

エレミヤはどうだったでしょうか。南王国ユダがバビロンに捕らえられる前のこと、神様はエレミヤに言われました。「行ってくれますか」「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」(エレミヤ1:5)するとエレミヤは一度は断りました。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」(同1:6)彼が断った理由は、彼があまりにも若いということでした。若くて、何を語ったらいいかわからない。私もかつてそうでした。すると、主はエレミヤに仰せられました。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。―主の御告げ―」エレミヤが若いとか若くないとか関係ない。大切なのは神様がともにいてくださるかどうかなのです。

イザヤの場合はどうだったでしょうか。やはり南王国ユダのウジヤ王が死んだ年ですから、大体紀元前740年頃でしょうか、彼もまた神様に呼ばれました。それはあまりにも荘厳な神殿での幻でした。神の臨在が満ち溢れ、セラフィムがその上に立って、「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」と叫ぶと、その神様の聖さに神殿の敷居は揺れ、宮は煙で満たされるほどでした。そのような時に、神様から御声があったのです。「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」(イザヤ6:8)イザヤはあまりもの聖さに打ちのめされ、「ああ、私は、もうだめだ。私の唇は汚れている。足は汚れたもので、くちびるの汚れた民の間に住んでいる」と言いました。そんなイザヤに対して神様は、祭壇の上から取ってきた燃えさかる炭で彼の口に触れて不義を取り去ってくださいました。ですからイザヤはこう言ったのです。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ6:8)

「ここに私がおります。私を遣わしてください。」これこそ主の召しに答える者の言葉ではないでしょうか。「主よ。ここに私がおります。私を遣わしてください。」人間的に見れば本当に弱く、足りないような者でも、あるいは年が若くて何を語ったらいいかわからないような者でも、逆に年を重ねてもう体が動かないような者でも、また、罪に汚れ、神様の働きにはふさわしくないと思えるような者であっても、「主よ。ここに私がおります。私を遣わしてください」と答えてほしいのです。主はそのためにあなたを遣わしておられるのです。そのようなあなたの小さな信仰によって福音のことばが宣べ伝えられ、多くの人たちがそのことばを聞いて信じるようになるためです。主はそのためにあなたを用いたいのです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」なぜなら、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのことばによるからです。