ローマ人への手紙13章1~7節 「権威に従う」

きょうは「権威に従う」というタイトルでお話したいと思います。クリスチャンはイエス・キリストを信じたことで、天に国籍を持つ者、天国の市民とさせていただきました。しかし、一方では日本の国民であるように、この地上にあってはそれぞれ置かれた国民として生きている者として、その責任を果たしていかなければなりません。この両者の関係の中で、クリスチャンはいったいどのように生きていったらいいのでしょうか。きょうは、このことについて三つのことをお話したいと思います。

まず第一のことは、人はみな、上に立つ権威に従うべきであるということです。なぜなら、神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって建てられたものだからです。第二のことは、自分の良心のためにも従うべきです。神によって立てられた権威に従うということは神に従うことですから、そうすることによって、良心に自由と平安を受けることができるのです。第三のことは、クリスチャンがこの世において義務を果たすことは大切なことなのです。

Ⅰ.上に立つ権威に従いなさい(1-2)

まず第一に、人はみな、上に立つ権威に従うべきであるということについて見てたいたいと思います。1~2節をご覧ください。

「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」

ここでパウロは、人はみな、上に立つ権威に従うべきであると言っています。なぜなら、存在している権威はすべて、神によって立てられたものだからです。 どういう意味でしょうか?これは、私たちがこの地上において生きるとき、それがどのような手段によって成り立ったものであったにせよ、その権威に従わなければならないということです。なぜなら、そうした権威でさえ、神の御許しによって立てられているからです。したがって、その権威に逆らうことがあるとしたら、それはそうした人たちに対して逆らっているのではなく、神に対して逆らっているということになるのです。であれば、そのさばきを自分自身の身に招くことになるのは当然のことでしょう。もちろん、どんな政府であれ、どんな組織であれ、この地上にあるかぎり、絶対であるとか、間違いがないなどということはありません。必ずどこかに欠陥があるものです。しかし、その欠陥の程度がどうであれ、それは神のによって存在しているのであって、神の許しなしにはあり得なかったものなのです。ですから、この地上の権威に従うということは神様に従うことなのです。ですから、この地上の権威に従うなら平和が与えられ、そうでなかったら混乱や争いが生じるのです。なぜなら、私たちの神様は、混乱の神ではなく秩序の神だからです。

昔、コラの一族がモーセに逆らったときどうなったでしょうか?彼らはモーセとアロンに逆らって、「あなたがたは分を越えている。自分たちはみんな聖なるものであって、あんたたちだけが特別ではない。なのに、なぜあんたたちが自分たちの上に立って指導するのか」とたてつきました。(民数記16:3)すると神様は激しく怒られ、彼らが立っていた地面が割れ、彼らとその家族、また彼らに属するすべてのものをのみこんでしまいました。指導者モーセに逆らった罪のゆえです。神様はお立てになった権威に逆らう者に、同じような裁きを下されるのです。    ダビデは、神が立てた権威にいつも従いました。どんな悪い王でも神の油を注がれた器である以上、それは神様が立てた権威だと認めていたからです。ですから、主君サウロを殺す機会があっても彼は決してサウルに手をかけるようなことをしませんでした。神様のさばきゆだね、神が裁いてくださるまでじっと待ったのです。ですから彼は神に祝福されたのです。    最近、ある著名な社会学者が「現代人が経験する混乱は、父親不在の社会になったために生まれたものである」と言いました。「父親不在の社会」とはどのような社会なのでしょうか?昔は家庭で父親が一言言えば、家の中の秩序が整いました。父親の言葉には威厳があったのです。父親が、「こら」と叱れば、「悪いことをしてはいけない」という思いが植え付けられました。けれども今はこの権威が失墜してしまいました。なぜ?妻が夫を軽んじているからです。父親が「こら」と言うと、脇で妻が「あんた何よ。いいじゃない」なんと言うので、こどもたちも本気で父親の言うことを聞かなくなってしまったのです。社会学者たちは、こうした混乱の根は、19世紀に自由主義が広がったためだと言っています。自由主義とは、既存の宗教的、社会的権威を一切排除して、理性と文化が人間を進歩させるという考えです。しかし、果たしてそうした人間の理性が社会を進歩させたでしょうか。権威崩壊の結果は、社会の進歩どころか社会の崩壊だったのです。

聖書はクリスチャンに、神が与えられたすべての権威に従うようにと言っています。この権威を回復しなければなりません。例えば家庭における一夫一婦制も親子の関係も、神の創造の時から設立された神の秩序です。神さまは人類をアダムとエバに創造されました。即ち、一人の男性と一人の女性を創造してくださったのです。そして、その二人は一心同体の夫婦となり、その夫婦によって子どもたちを与えてくださいました。親子の関係は最初からそのように神が定めたものなのです。家庭に権威を与えたのは神さまですから、子どもたちが自分の父と母に従うとき、それは神に従うことになるのです。また、子どもたちが親に逆らうとき、それは神に対して逆らうことになります。それは神が定めた秩序なので、子どもは親に従わなければならないのです。

もちろんそのために父と母は、子どもたちに対して不公平な裁きをしたり、虐待したり、悪いことをするなら、神の代表としての立場を汚し、子どもに対して罪を犯すことになります。そして、子どもはそのような親を見るとき、神に対して誤解を持ったり、疑ったり、神に逆らう者になったりします。父と母が正しくその権威を用いないなら、子どもを神に逆らう者となるように導くことになるでしょう。親が悪い支配をするとき、子どもたちを悪に導くことになるのです。エペソ人への手紙6章4節でパウロは、「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい」と命じています。その意味は、「悪い支配をするなら、支配の権威に立つ者は支配される者に悪い影響を与えることになる」ということです。

これは教会においても同じことです。教会の牧師、長老、役員といった組織は神が与えたものなので、教会員は自分の教会の牧師や長老たちに対して尊敬をもって従わなければなりません。教会の牧師や役員も失敗することがあるでしょう。どうしたらいいのかわからなくて悩むこともあります。あるいは間違った判断をしてしまうこともあるのです。しかし、それでも従うのは、それが神によって与えられた権威であり、神が定められた秩序だからなのです。

それは、私たちが国家に従うのも同じです。私たちが政府に従うのは政府が間違いのない正しい組織だからではありません。それは神が任命してくださった神の権威だからです。神が政府という組織をお造りになり、政府で働く人たちを備えてくれました。政治家たちや官僚たちは、みな神に仕えるしもべなのです。そういう認識をもっていつも仕えてもらえたら一番いいのですが、政府においてはそういう人は皆無に等しいのでなかなか期待することはできません。それでも私たちが従わなければならないのは、政府もまた神によって与えられた神の秩序だからなのです。パウロは、こうした人たちのために祈るようにと勧めているのはそのためです。

「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」(Iテモテ2:1,2)

それはこの社会のすべての関係においても言えることです。大学生たちはよく自分の担当教授の悪口を言ったりしますが、クリスチャンの学生はそうした真似をしないで、逆に、先生を心から尊敬し、その権威を重んじなければなりません。社会人であれば、上司の悪口を言ったり、安易に逆らったりするのではなく、かえって上司のために祈り、よく聞き従わなければなりません。それが神のみこころであり、神が立てた秩序なのです。それは私たちが敬虔に、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすため、つまり、私たちの祝福のためでもあるのです。

Ⅱ.良心のためにも従いなさい(3-5)

次に3~5節をご覧ください。なぜ上に立つ権威に従わなければならないのでしょうか。ここにもう一つの理由がしるされてあります。それは、良心のためでもあるということです。

「支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。」

「支配者を恐ろしいと思うときは良いことをするときではなく、悪を行うときです。」良いことをして怒られるというようなことはめったにありません。もっとも、いくつかの例外はあったとしても、一般的には良いことをする人はほめられるのです。なでしこジャパンはワールドカップで金メダルを獲ったということで総理大臣賞までいただきました。あのあきらめないプレーが、国民に勇気と力を与えてくれたというのがその理由です。良いことをすればクリスチャンであってもなくてもほめられるのです。逆に、悪いことをしたら怒りをもって報います。 なぜでしょうか?それは、彼らがあなたに益を与えるための、神のしもべだからです。彼らは神のしもべであって、悪を行う人には悪をもって報いるのです。ここには「神のしもべ」ということばが二回出てきます。つまり、パウロは上に立つ権威というのはすべて神から与えられたものであって、その権威に従うということは、神ご自身に従うことであり、神を恐れることであると受け止めていたのです。その権威に従わないということは神に従わないということであり、クリスチャンとしてふさわしいことではありません。これは神が与えた状態なので、神に信頼して、神を恐れて、神に対する感謝をもって、神が立てた権威者に従うということこそ、クリスチャンにとってふさわしい態度です。そうでなかったら、良心に責めを感じるようになるでしょう。罪責感を抱くようになってしまいます。私たちはいつも、神様の前に、責められることのない良心をもって歩むべきです。そのためにも私たちは、神様が立ててくださった権威に従わなければならないのです。

それにしてもこのパウロの信仰は大したものです。彼は、政府やその他の支配者もすべて神の御手の中にあると信じていました。摂理の神への信仰をもっていたのです。もちろんそれは、冒涜的な権威に対して無批判的に従ったということではありません。時としてはダニエル書に出てくる三人の少年シャデラク・メシャク・アベデネゴのようにいのちをかけて王の命令を拒絶しなければならないという局面もあったでしょう。しかし、そうした中にあっても、すべてのことが神の御手の中にあって、立てられた権威はすべて神によるものだと受け止めて従おうとした点は立派です。私たちクリスチャンは往々にしてこの社会を悪とみなし、社会の権威に対して敵対していこうという心が働きがちですが、このような摂理の信仰のゆえに、立てられた権威に従っていこうという姿勢は重要です。コロサイ人への手紙の中には、

「奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」(コロサイ3:22,23)

とあります。何事につけ、主に対してするように正しい心で忠誠を尽くす人がクリスチャンです。人が見ていれば熱心にやっているふりはするけれど、人が見ていなければ手を抜くぞというのは、要領のいい人であるかもしれませんが、神ののしもべとしてふさわしい姿ではありません。神のしもべは、だれが見てても見ていなくても、主に従うように、地上の主人に心から仕えることなのです。

現代建設(ヒュンダイ)会長を歴任した韓国のイ・ヨンバク大統領は、「現代の韓国を創った50人」に選ばれるなど、韓国におけるサラリーマン神話の代表的人物とされています。七人兄弟の五番目として生まれた彼は、極貧の少年時代を過ごすも、何とか高校、大学を卒業して当時90人しかいなかった現代建設に入社すると、29歳で取締役、36歳で社長、47歳で会長と出世街道を進みました。彼がそこまで昇進したのには理由がありました。それは、何事も主に対してするように真心から会社に仕えたということです。  彼のインタビューの中で、彼は次のように言っています。「私は上司のためにがんばろうと考えたことは一度もなく、この会社は私のものだ、私の仕事だ、私が成長するために忠誠を尽くそうという気持ちで命がけで走り回った」と言っています。誰かが見ているからではなく誰も見ていなくても、これは私の成すべきこととわきまえて一生懸命に仕えたので、結局、彼自身が成長し、多くの人々から尊敬され、認められる人になったのです。  人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみ、何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしたことが、その祝福へとつながっていったのです。それは、自分の置かれた状況の背後に神様がおられ、神様が導いておられるという摂理の信仰が働いていたからです。その信仰のゆえに、上に立つ権威に従うということは、私たちの良心のためにも必要なことなのです。

Ⅲ.義務を果たしなさい(6-7)

第三のことは、だれにでも義務をはたさなければならないということです。7,8節をご覧ください。ここには、

「同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。」

とあります。ここには「みつぎ」と「税」ということばが出てきますが、当時の世界では、それぞれ違った税を表していましたが、今日ではその両者を含めて税金全般のことだと言っていいでしょう。すなわち、ここでは納税の義務について教えられているのです。納税について聖書は何と教えているのでしょうか?みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納めなさいと命じています。

当時のユダヤ人は、このように異教徒に対して税や貢を納めるということは、神以外のものに仕えることになるのではないかということで毛嫌いしていました。ですから、税を取り立てる人、取税人は、罪人の代表であるかのように思われていたのです。しかし、それがローマ帝国であっても、異教徒であったとしても、それは納めなければならないものなのでするなぜ?義務だからです。「義務」というのは負債のことです。8節には、愛以外には何の借りがあってはならないと教えられていますが、すべての義務というのは、借金を返すように果たしていかなければならないのです。貢や税を納めることはその義務なのです。それは恐れなければならない者を恐れ、敬うべき者を敬うことなのです。それは形に表された権威者への服従なのです。

このことについてイエス様は何と言われたでしょうか?マタイの福音書17章24~27節を開いてみましょう。 「また、彼らがカペナウムに来たとき、宮の納入金を集める人たちが、ペテロのところに来て言った。「あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのですか。」 彼は、「納めます」と言って、家に入ると、先にイエスのほうからこう言い出された。「シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか。それともほかの人たちからですか。」ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「では、子どもたちにはその義務がないのです。しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」

このところでイエス様は、この世の王たちは自分の子どもたちからではなく、ほかの人たちから税を取り立てるので、子どもたちにはその義務はないけれども、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚の口から1枚のスタテル効果を取って、税金として納めるようにと言われたのです。

それは私たちクリスチャンにも言えることです。確かに私たちはイエス様を信じたことで神の国に属するものになりましたが、それはこの世の義務や責任をないがしろにしてもいいということではありません。だれにでも義務を果たさなければならないのです。正直に生きなければなりません。それがこの世におけるクリスチャンの姿です。それこそ神に服従している証であり、神が私たちに望んでおられる生き方なのです。

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられた神の秩序だからです。天の御国を仰ぎ見ながら、この地上に生きる者として与えられた責任を十分に果たしていく者でありたいと思います。それは私たちが平安で静かな一生を過ごすため、私たちの祝福のためでもあるのです。