ローマ人への手紙13章8~10節 「愛は律法を全うする」

きょうは、「愛は律法を全うする」というタイトルでお話したいと思います。大学で法律を学ばれた方が、ある時私にこんなことを言われたことがあります。「いくら法律を作っても社会は少しも良くならない。」社会的には義務を果たし、宗教的には戒めを守ることも大切ですが、それだけでは不完全なのです。完全になるためには何が必要なでしょうか。10節には、

「愛は、隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」

とあります。愛こそ律法を全うするのです。きょうは、この愛は律法を全うするということについて、三つのことをお話したいと思います。まず第一のことは、他の人を愛する人は、律法を完全に行っているということについてです。第二のことは、律法にはいろいろな戒めがありますが、そうした律法のすべては、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばに要約されるということです。第三のことは、それゆえに愛は律法を全うするということです。

Ⅰ.愛は律法を守っている(8)

まず第一に、他の人を愛する者は、律法を完全に守っているということについて見ていきましょう。8節をご覧ください。ここには、「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。」とあります。

1節からのところで、この社会の一員としてクリスチャンはどのような責任があるのかということについて語ってきたパウロは、ここで個人的な負債についての彼の考えを述べています。それは、「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。」ということです。どういう意味でしょうか?ある人はこのところから、クリスチャンは何人に対しても、いっさい借りることをしてはいけないと考えています。また、別の人は、これはそういうことではなく、借りたものに対してはきちんと返さなければならないということが教えられていると言っています。すなわち、借りたものをいつまでも放置したままではいけないというのです。  アメリカのカルバリーチャペルの主任牧師チャック・スミスは、前者の立場に立っていて、クリスチャンはいっさい借りることをしてはいけないと考えています。何年か前にその教会の牧師の一人であるボブ・ヘイグという先生のところに泊めていただいたことがありますが、その際にコスタメサにあるカルバリーチャペルの会堂を案内してもらいました。その時、ボブ・ヘイグ牧師が、この教会ではクリスチャンはいっさい借りがあってはならないと信じているので、この会堂も銀行等からのローンを一切受けないで建てたんですよ、と話してくれました。それはこの教会では、文字通り、クリスチャンは何人も何の借りもあってはならないと考えているからです。  確かに、貸し借りは人間関係を壊す危険性があります。それはその人の心を縛り、自由を奪い、卑屈なものにし、健全な人間関係を妨げてしまうのです。自由であるべきはずの魂を、他人に売り渡してしまい、神のみこころよりも人のご機嫌をうかがうような生き方になってしまうことがあるのです。ですから、なるべく他人からはお金や物を借りないようにすべきですし、どうしてもやむをえずに借りなければならないことがあるとしたら、できるだけ早くこれを返すように努力すべきです。しかし、ここで言わんとしていることはそういうことなのでしょうか?

マタイの福音書5章42節を見ると、主イエスが次のように教えられたことがしるされてあります。「求める者には与え、借りようとする者には断らないようにしなさい。」また、ルカの福音書6章35節には、「ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。・・・」とあります。もし他人から借りることをいっさい禁じているのだったら、イエス様があえてこのようなことを言われるでしょうか。そこには借りようとする人がいるということを前提としてイエス様は教えられたのではないでしょうか。

尾山令仁先生は、この「借り」と訳されている「σφειλω」(シュペイロオ)ということばは、果たすべき義務があるという意味を持っていることから、ここでは単に何らかの貸し借りだけを意味しているのではなく、果たすべき義務全般について教えられていると言っています。つまり、ここで言わんとしていることは負債を無くすこと、義務を遂行することです。今日の多くの人々は、権利は主張しますが、義務については、平気で見過ごし、これを果たそうとしません。そうしたことがあってはいけない。そういうことに対して忠告しているのだというのです。(聖書講解シリーズ「ローマ人への手紙P534)たとえば、1節には「上に立つ権威に従うべきだす。」とありますが、それもまた果たすべき義務の一つです。もちろん、返すべきものを返すというのも果たさなければならない義務です。それを果たさないとしたら、それは決して神様に喜ばれることではありません。

しかし、このところをもう少し読んでいくと、ここでのテーマは、どうも「借金をするな」とか、「義務を果たせ」ということ以上のことであることがわかります。というのは、その直後のところに、「ただし、互いに愛し合うことは別です」とあるからです。このところの中心は「互いに愛し合う」ことであって、パウロはそのことを言いたかったのでしょうか。つまり、この社会の中で義務を果たした生き方をしていかなければならないということから、互いに愛し合わなければならないということに、テーマを移行したかったのです。ですからここで、「だれに対しても、何の借りもあってはいけません」と語った後で彼は、「ただし、互いに愛し合うことについては別です」と言っているのです。愛の負債は別なのです。なぜでしょうか。他の人を愛することは、律法を完全に守っていることになるからです。ですから、愛の負債をして、その負債を返そうと生きることは良いことなのです。その負債こそ、他の人を愛することだからです。

この場合の愛の負債とは何を指して言われているのでしょうか?もちろんそれは他の人から受ける愛のことです。他の人から愛を借りて、その愛を返していく。そうやって互いに愛し合って生きていくわけです。しかし、その根底にあるのは神様の愛です。神様が私たちを愛してくださったので、その愛の負債を今度は隣人に対して負っていくのです。そのように互いに愛し合うことが、律法を完全に守ることになるのです。

神様は、その大きな愛をもって罪過と罪との中に死んでいた私たちを生かしてくださいました。神を神ともせず、自分勝手に生きていた私たちは、もう滅ぼされても致し方ないような者だったのにもかかわらず、あわれみ豊かな神様は、そのように死んでいた私たちを生かしてくださいました。そのひとり子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださり、私たちの身代わりに罪として、十字架にかかって死んでくださいました。十字架の上で私たちの罪の負債をすべて完済してくださったのです。そして、大胆に神様の前に進み出ることができるようになったのです。これがキリストの福音です。ですから、今度は私たちが神様に対して支払わなければならない負債を、隣人に対して支払うようになったのです。これが愛の負債です。そうした愛の負債はあってもいいのです。いや、もっとより積極的に言うならば、こうした愛の負債はもっとたくさん負って生きなさい、そうやって互いに愛し合いなさいというのです。

この世には二つのタイプの人が存在します。隣人を愛し、愛されながら生きる人と、愛を受けもしないし与えもしないで、自分一人で生きていこうとする人です。「僕は誰をも愛さないし、誰からも愛されなくてもいい。僕は一人で生きていく」という人がいますが、これは実はとても高慢なことなのです。

ヨハネの福音書13章を見ると、イエス様がペテロの足を洗うという場面が出てきますが、そのときペテロは「決して私の足を洗わないでください」と言いました。するとイエス様はこう言われたのです。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」どういうことでしょうか。「わたしの愛を受けないと、あなたは私と何の関係もないことになる」ということです。

皆さん、クリスチャンとは、イエス様から愛された人です。愛を受けた人のことです。なぜイエス様を信じるようになったのでしょうか?イエス様がどれほど自分を愛してくださったかがわかったからでしょう。こんなちりや灰にすぎないような汚れた者を、イエス様が愛してくださいました。十字架にかかって死んでくださった。それほど愛されているのです。その愛がわかったので信じたのです。イエス様の愛をたっぷり受けているからこそ、イエス様を愛するようになったのであり、この世に出ていってイエス・キリストの愛を伝える者に変えられたのです。

ローマ人への手紙1章14節のところでパウロは自分のことを、「私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。」と言っています。パウロは、生涯負債を負った者として自分を認識していたのです。その負債とは何でしょうか?それは愛の負債です。神からいただいたイエス・キリストの愛の負債、恵みの負債です。パウロはイエス様の愛をたくさんいただいて、その恵みを驚くほど経験しました。彼は、「キリストの愛が私を取り囲んでいるのです。」(Ⅱコリント5:14)と言いました。彼がキリストの福音を伝えるためにどんなに激しい迫害にあっても挫折しなかったのは、キリストの愛が取り囲んでいたからです。「キリストから受けた愛がこんなに大きいのに、この程度で倒れるわけにはいかない」と堅く決心していたからなのです。使徒パウロを支えていた感情とは、この愛の負債から出ていたものだったのです。

本当に謙遜な人とは、兄弟姉妹や、教会の人たちから、そして特に神様から数え切れないほどの愛と恵みを受ける人です。そして、愛の負債を負いながら生きていると自覚している人なのです。互いに愛し合うことを通して、その愛の負債を返済していきたいと願っている人です。なぜなら、他の人を愛する人こそ、律法を完全に守っているからです。

Ⅱ.愛は律法を要約する(9)

第二に、愛は律法を要約します。9節をご覧ください。ここには、「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』ということばの中に要約されているからです。」とあります。ユダヤ人たちは、十戒の教えを拡大し、解説して、さまざまな戒めを生み出していきました。何と613にものぼったと言われています。しかし、そのようにたくさんある戒めも、結局のところ、一つの戒めに要約できるというのです。それは、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という戒めです。

マタイの福音書22章を見ると、あるときひとりの律法の専門家がイエス様のところにやって来て、「先生。律法の中でたいせつな戒めはどれですか。」と尋ねたとき、イエス様が次のように答えられたことがしるされてあります。 「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」これがたいせつな第一の戒めです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(同22:37~40)  律法全体と預言書とは、聖書全体を表しています。聖書全体でたいせつな戒めは、神を愛せよという戒めと、隣人を愛せよというこの二つの戒めだというのです。いや律法全体がこの二つの戒めにかかっているというのです。ローマ人への手紙の中でパウロが、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という戒めに要約されると言ったのは、十戒の後半部分の人間相互の関係の部分を引用していたからです。神を愛することと、隣人を愛することが律法全体の要約であり、中心なのであって、このみことばに生きるとき、ほんとうにうるわしい人間関係を築いていくことができるのです。

四世紀の偉大な神学者アウグスティヌスは、「神様だけを愛してください。そして後は、あなたの好きなようにしてください」と言いました。彼は、もし人が神様だけを愛しているのなら、あとは自分の思いのままにしていても全然問題にならないと確信していたのです。神様を愛するなら、神様のみことばに従うようになります。神様との交わりから離れることができないからです。すべての問題解決の鍵、すべての問題の核心はこの愛なのです。

イエス様が復活された後、イエス様はペテロに何を確認されたでしょうか?この愛です。イエス様はペテロに、「あなたはわたしを愛するか」と三度も繰り返して尋ねられました。(ヨハネ21:15,16,17)ペテロは、イエス様が三度も「あなたはわたしを愛しますか」と言われたことに心を痛め、主よ。あなたいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」と言うと、イエス様は、「わたしの羊を飼いなさい」と言われたのです。イエス様はなぜ三度も「あなたはわたしを愛しますか」と言われたのでしょうか?それは、この愛さえあれば、あとは何の問題もないからです。ペテロはかつて三度、イエス様を知らないと否定しました。この愛がなかったからです。彼は、ほんとうに主イエスを愛していたのかというとそうではなく、自分を愛していたのです。自分中心の信仰でした。ですから、イエスを三度も否定したのです。自分の身を守ろうとして・・・。主はそれに対応するかのように、「ペテロよ、あなたはわたしを愛しますか。」と三度、確認されたのです。それがあればもう十分です。

皆さんはいかがですか?皆さんはイエス様を愛していますか?それともペテロのように、自分に都合がいいような信仰になってはいないでしょうか。あのときのペテロのように、「主よ。わたしがあなたを愛することは、あなたが十分ご承知のことです」と告白できるなら、それで十分です。なぜなら、イエス様を愛するなら、イエス様のみことばに従うようになるからです。問題はイエス様を愛しているかどうか、この一点にかかっているのです。イエス様を愛するなら、隣人を愛するようになるのです。なぜなら、イエス様は「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と命じられたからです。(ヨハネ13:35)神を愛すること、隣人を愛することが、律法全体の要約であって、中心なのです。私たちが隣人を愛するなら、それは律法を完全に行っていることになるのです。

Ⅲ.愛は律法を全うする(10)

第三のことは、それゆえに、愛は律法を全うするのです。10節をご覧ください。「愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」この「全うする」と訳されたことばは、「プレローマ」というギリシャ語です。これは「充満する」という意味です。つまり、私たちが隣人を愛するなら、神様のみこころに生きることができるので、そこに神様の祝福が満ち溢れるようになるというのです。

皆さん、私たちの社会には、この強盗に襲われて傷つき、苦しみ、倒れている方がたくさんいらっしゃいます。このような社会の中で、私たちに与えられている使命は、行って、同じようにすることなのです。

宮城県にある同じ保守バプテスト同盟栗原聖書バプテスト教会の岸浪市夫先生 は、先の震災で苦しんでおられる方々の支援のため「アメージング・グレイス・ネットワーク・ミッション」という災害ボランティア団体を立ち上げ、物資支援、炊き出し、コンサート、個人宅へ慰問訪問などの支援活動を始めました。なかなか支援が届かない雄鹿半島の泊(とまり)地区へ月2回のペースで訪問しています。そこで、被災者の方々と一緒に「必要なもの・欲しいもの」を「祈る」こと をしていますが、祈るとき、漁師さんに船が与えられ、バイク、冷蔵庫、洗濯機 チェーンソーなど、祈ったものが次々と与えられているのを見て、地元の方々は 驚きに包まれています。今では必要なものがあるとき、そっと先生の横に来て、「先生、これこれが欲しいから祈って。」とお願いしてこられる方がたくさんおられるようになったそうです。  そのような中でこれまでずっと関わって来られた漁師の方が、このように言われました。「俺は本当に皆さんから力を貰ったよ、有りがたかった。教会の人と出会って本当に俺の人生変わった。あの頃は、俺は何にも力が出なくて、 下しか見られなかったもんな…。そして、何か必要な物は無いですかって言わ れても、遠慮して何んにも言えなかった…。それでも、俺も甘えて見ようかなと思ったんだよな…。あんた達の神様は凄い神様だな…。」「俺は、今回、災害にあって本当に良かった。沢山の人々と出会って、力を貰って、こんなに嬉しい事はないね。…。俺は本当に嬉しいよ。」  震災で家も仕事も失い、命からがら逃げた方から、「震災にあって良かった」という信じられないようなことばを聞くようになったのはどうしてなのでしょうか?そこに愛を見たからではないでしょうか。愛にはそれほどの力があるのです。

先日、「しあわせの隠れ場所」という映画を観ました。これは、「ブラインド・サイド~アメフトがもたらした奇蹟~」という実話を元に映画化したものです。  テネシー州メンフィスのスラム街に生まれ、家庭に恵まれず、十分な教育も受けられずに、ホームレスのような生活をしていた黒人少年マイケル・オアーが、裕福な白人女性リー・アンの一家に家族として迎え入れられ、アメフット選手としての才能を開花させ、やがてNFLのドラフト指名を受けてプロとしてプレーするまでになったという話です。  舞台はニューヨークや LA ではなく、人種に関してとても保守的な南部です。並大抵では出来ないことを、この主人公のリー・アンはやったのです。彼女は当初この大きな黒人少年を「ビッグ・マイク」と読んでいたのですが、彼が「ビッグ・マイク」と呼ぶのは止めてというと、彼女は「わかったわ。これからはマイクと呼ぶわ。あなたは私の息子よ」と言い切るのです。  いったい彼女はなぜそんなことができたのでしょうか。彼女はクリスチャンでした。そして、神様が自分をどれだけ愛してくださったのかを知りました。そして、彼女もまた、この愛に生きるように変えられたからです。

「あなたも行って、同じようにしなさい」私たちもイエス様から愛された者として、その愛を隣人に対して実践していく者でありたいと思います。そこに神様の祝福と力が溢れるのです。