ローマ人への手紙14章1~12節 「さばいはいけません」

きょうは「さばいてはいけません」というタイトルでお話したいと思います。ある有名なキリスト教雑誌が、牧師たちを対象にアンケート調査をしました。それは「教会で一番困る人はどういう人ですか?」というアンケートでした。そして、第一は「四十日間断食をした人」、二位が「徹夜祈祷をよくする人」、三位は「神学を勉強した人」でした。断食、徹夜、神学の勉強、これらのことは個人の霊的成長にとってとても重要なものです。それなのに、なぜこれらのことが問題になるのでしょうか?それはこれらのことを経験したかなり多くの人が、その恵みを自分の成長に適用するのではなく、他人に適用してさばいてしまうために用いてしまうからです。四十日間も断食祈祷をすれば、どんなに恵まれることでしょうか。なのに断食祈祷が終わるとすぐに、「うちの牧師は恵みがないなぁ」とか、「うちの役員たちはもっと祈らなくちゃ」と言ってしまうのです。祈ったのであればより謙遜に、よりへりくだり、より恵みに溢れるはずなのに、かえって人をさばいてしまいやすいのです。私たちはみな心配するか、批判するかのどちらかに傾きやすい性格を持っています。比較的に弱い人は心配し、強い人は批判しやすいのです。人が集まるところには必ず問題が生じます。人によって性格も違えば考え方も違いますし、育った環境や年代、培われてきた信仰の背景、信仰生活のカラーなどが違うからです。十人十色ということばがありますが、十人いれば十人の色や考え方があるわけですから、違って当然なのです。大切なのは、そうした違いを批判したり、責めたりするのではなく認め合うことです。

きょうは、この「さばいてはいけません」ということについて三つのことをお話したいと思います。まず第一のことは、クリスチャンが他人をさばいてしまう原因の一つは、信仰の理解に差があるためです。何でも食べてよいと信じている日ともいれば、野菜の他には食べないという人もいます。第二のことは、他の人をさばかないために必要なことは、自分の立場をわきまえることです。第三のことは、クリスチャンにとって最も重要なことは何のためにするのかということです。すなわち、クリスチャンは主のために生きている者であるという意識をしっかりと持っていることです。

Ⅰ.食べる人と食べない人(1~4)

まず第一に、1~4節までをご覧ください。

「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。」

ここでパウロが触れている問題はどういうことかというと、信仰の弱い人と強い人との摩擦の問題です。1節には、「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」とあります。この弱い人とは体の弱い人のことではなく、信仰の弱い人のことです。その人は信仰がないわけではなく、信仰はあるのですが弱いのです。イエス・キリストを信じることによって救われていますが、それでも信仰が弱い人たちがいます。どういう人たちでしょうか。

信仰の共同体の中で他人をさばいてしまう原因の一つは、聖書の理解、信仰の差があるためです。この手紙が書き送られたローマは、その当時世界の中心都市でしたから、そこにはいろいろな人々が集まっていました。ユダヤ教から回心した人がいれば、ギリシャ的な背景のある人や、ローマ的な背景の人も、あるいは肌の色もさまざまで、奴隷もいれば、高貴な人もいました。また、教養のある人もいれば、教養のない人など、実にさまざな人たちがいたのです。いろいろな人がいればいろいろな考え方があって当然ですが、ここで問題になっていたのは、聖書の解釈に基づく違いにその原因がありました。2,3節には食べ物の問題が、そして5,6節には日の問題があげられていますが、こうした問題に関しての理解に違いがあったのです。

まず、食べ物についてですが、ある人たちは何でも食べてよいと信じている人もいましたが、ある人たちは野菜よりほかに食べてはならないと信じていました。それはわゆる菜食主義の人たちのように健康的な理由から主張していたのではなく、宗教的な理由からそのように主張していたのです。当時、いわゆる信仰が強いという人々は、キリストの福音によって旧約の律法と伝統から自由になったと信じていたので、旧約聖書のレビ記(11~16節)には汚れた食べ物に関する規定がありましたが、そういうことを気にせず食べていました。また、コリント人への手紙第一8章4節に出てくる「偶像にささげられた肉」についても、偶像の神がいるわけじゃないし、そんなことを気にしていたら何も食べることができないと、何でも食べていいと信じていました。このような人たちは福音がもたらしてくれた自由というものがどういうものであるかをよく知っていましたので、そうしたことにこだわっている人たちを見下げていたのです。

あるいは、5,6節を見ると、ある人たちはある日を、他の日に比べて、大事だと考える人たちもいましたが、どの日も同じだと考える人もいました。これはクリスチャンになっても依然として安息日をはじめとした旧約聖書に規定されている日を特別な日として守っていた人たちのことだと思われますが、律法から解放されたと信じていたクリスチャンにとっては、いまだに律法にとらわれた生き方をしていた彼らの生き方、考え方を受け入れることができず、さばいていたのです。

しかし、そのように信仰において意見や考え方が違ってもさばいてはいけません。食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけないのです。神がその人を受け入れてくれたからです。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、食べ物のことでさばき、滅ぼすようなことがあっては、神様に申し訳ありません。神が受け入れてくださったのであれば、私たちも受け入れることは当然です。さばいてはいけません。

しかし、クリスチャンだと自認していても、神に受け入れられていない人もいます。どういう人でしょうか?こうした食べ物や飲み物についてではなく、救いに関して間違った教理を持っている人です。救いはイエスにあります。イエスを主と告白しなければ救われません。にもかかわらず、イエス様を神と認めていなかったり、イエス様を信じるだけでは救われないなどと言う人たちがいるのです。

ある時、アメリカのいわゆるセキュラーな雑誌が、アメリカの六大教派の神学校で神学生にアンケートを取ったそうです。その結果、処女降誕を信じていない学生が56%、天国と地獄の実在を信じていない学生が71%、キリストが神であることを信じていない学生が98%、人間が完全に堕落していない、つまり、人間が自分の力で自分を救うことができると考えている学生が98%、キリストの再臨を信じていない学生が99%だったというのです。日本のいわゆる福音派と言われる教会では考えられないような結果です。私たちはイエス様が救い主、神の子、メシヤだと信じています。キリストが十字架にかかって流された血潮は私たちの罪の赦しのためであり、贖いであって、この方を信じる者はみな、永遠のいのちが与えられると信じているのです。なのにクリスチャンであると言いながら、こうした聖書の救いに関する基本的な教えを曲解したり、受け入れていない人もいます。そのような教えの風やだましごとの哲学には、断固反対すべきです。

1910年にエディンバラで世界宣教会議が行われましたが、その時の資料の中に「腐った鰯(いわし)は肥やしになるが、腐った教会はごみ捨て場からも拒否される」ということばがありました。すごいことばです。こんなことまで言っていいんだろうかとまで思ってしまう。しかし、それは事実なのです。本当に神様はいらっしゃる、イエス様の十字架の血潮が救ってくださる、イエス様以外に救いはないと、神様を、イエス様を、十字架を、聖霊を、永遠のいのちを信じない教会は腐っていると言えるでしょう。私たちは毎週、礼拝で使徒信条を唱えていますが、それは聖書の基本的な信条です。そのことばを信じることによってのみ救われるのであって、それ以外に道はないのです。このような根本的な問題については、きっきり間違っている人と、私たちは袂(たもと)を分かたなければなりません。

しかし、グレーな部分もあります。たとえば、バプテスマのやり方などはそうでしょう。ある人たちは、バプテスマは水を垂らすだけでいい、これを滴礼と言いますが、そう人たちがいれば、ある人たちは、いやバプテスマというのはもともと「浸礼」という意味だから、全身を水に浸さなければならないと主張します。私たちが属しているバプテスト派の特徴の一つはこれです。多くのバプテスト教会ではそのように信じているので、そうでない方法によってバプテスマを受けた人には、もう一度バプテスマを受けてもらう教会もあります。しかし、大切なのはどのような方法でバプテスマを受けたかということではなく、信じてバプテスマを受けたかどうかです。しんじてバプテスマを受ける者は救われるのです。たとえ、そのやり方が違っても、信じてバプテスマを受けたのであれば、それは神様に喜ばれることであり、有効であって、このようなことで考えが違うからと言ってさばいてはいけないのです。ただ、教会には秩序がありますから、それぞれの個人の考えを尊重し、受け入れても、教会全体として考えに従うべきです。そうでなければ、同じ考えを持っている教会に行くのがベストですでしょう。

このようなことは、バプテスマのやり方といったことばかりでなく、クリスチャン生活のこまかな点でも言えることです。ある人は、クリスチャンはお酒やたばこを飲んではならないと考える人がいれば、そうしたことは自由だと考える人もいます。コーヒーや紅茶など、カフェインが入っている飲み物を飲んではならないと主張するクリスチャンがいれば、映画館や劇場に入ってはならないとか、男女の交際をしてはならないと考えているクリスチャンもいます。ひどいのになると、女性はズボンをはいてはならないと主張するクリスチャンもいるのです。もし女性がズボンをはいてはならないというのなら、クリスチャンの女性の方はスカートをはいて田植えをするのでしょうか?それも大変です。しかし、そのように考えている人もいるのです。しかし、それはその人の考えであって、その意見をさばいてはいけません。受け入れなければならないのです。

アメリカのチャールズ・スウィンドルという牧師は、クリスチャンが他の人を批判してはいけない七つの理由を次のように述べました。 1.私たちはすべての事実をみな知らない。2.私たちはその動機を完全に理解できない。3.私たちは完全に客観的な考えをすることはできない。4.その状況にいなければ正確に知ることはできない。5.私たちには見えない部分がある。6.私たちには偏見があり、視野が薄れていることがある。7.私たちは不完全で、一貫性がない。です。考えてみると、ほんとうに私たちが知っていることは一部分であり、自分に都合がいいようにしか受け取らない傾向があります。自分を中心に物事を見ていく癖があります。そのような私たちが、ほかの人をさばくようなことがあるとしたら、それこそ問題ではないでしょうか。

イエス様は、「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」と言われました。(マタイ7:1~5)私たちがさばかなければならないのは他の人ではなく、自分自身です。まず自分の目から梁を取り除かなければなりません。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができるのです。

信仰の共同体の中にはいろいろな人がいます。そこにいろいろな違いがあってもそれをさばくのではなく、互いに認め合い、互いに受け入れ合うべきなのです。自分の考えだけが正しいと言える人は誰もいません。黙想に慣れている人は、一斉に大きい声で祈る人々を狂信的だと言わないでください。また、いつも叫んで祈っている人は、静かに祈る人を見て、霊的に冷え切っているなどとも言わないでください。叫んで祈ろうが、黙想して祈ろうが、祈っていればいいのです。ただ「自分とは違うスタイルで恵みを受けているんだ」と考えることです。それが寛容であるということなのではないでしょうか。

Ⅱ.自分の立場をわきまえる(4)

第二のことは、私たちは自分の立場をわきまえなければなりません。4節をご覧ください。

「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。」

なぜ、信仰の弱い人を受け入れなければならないのでしょうか?なぜ、その意見をさばいてはならないのでしょうか?そのことを教えるためにパウロは、ここで私たちがどのような身分、立場であるかに目を向けさせています。それは、私たちはしもべの身分にすぎないということです。なのになぜ、他人のしもべをさばくのですか?この「しもべ」ということばは家の使用人のことです。ある人の家で使われている使用人について、他人がとやかく言う権利があるでしょうか?ありません。もしあるとしたら、それはその家の主人だけなのです。ましてや同じしもべの身分にすぎない者が、他の家のしもべについて何かを言う権利などないのです。もしそのようなことがあるしたら、それこそ自分の立場をわきまえない、神のみわざに対する中傷であり、越権行為です。越権行為とは、自分の権利を超えているということです。そのようなことを平気でしているとしたら、それこそ罪であり、厳に戒められなければならないのではないでしょうか。

Ⅲ.主のために生きる(5-8)

ではどうしたらいいのでしょうか?ですから、第三のことは主のために生きなさいということです。クリスチャンにとってこれが最も重要なことであって根本的なことです。5~8節までをご覧ください。

「ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」

ここには「・・のために」ということばが七回も出てきます。つまり、食べるとか食べない、日を守るとか守らないということが大切なのではなく、何のために食べ何のために食べないのか、何のために日を守り何のために守らないのかというのです。そして、クリスチャンにとって重要なことは、それが「主のために」であるということです。食べる人は主のために食べるのであって、食べない人も主のために食べないのです。日を守る人も主のために守り、主のために守らないのです。それぞれどのように行動するかは自分の心の中で確信を持って行動すべきで、何よりも重要なことは、それが主のためなのかどうか、私たちが主のために生き主のために死ぬのかどうか、そこにかかっているというのです。

パウロは、ローマ人への手紙6章12節で、「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。」と言いました。いったいなぜ私たちの体を罪の支配にゆだねて、情欲に従ってはいけないのでしょうか?その理由をパウロは、その後のところで次のように言っています。6章18節です。「罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」イエス・キリストを信じ、キリストにつぎ合わされ、キリストの奴隷、義の奴隷となったのですから、罪の支配にゆだねてはならないのです。ガラテヤ人への手紙2章20節には、

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰に よっているのです。」

とあります。キリストとともに十字架につけられ、キリストとともに古い罪の生活に死に、キリストにあって生きる者へと変えにられたので、私たちはそのように生きるのです。主のために生きる者に変えられた。これがクリスチャンにとって最も重要なことであり、根本的なことなのです。

皆さんは何のために生きていらっしゃいますか?クリスチャンはだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬ。そう告白して生きるのがクリスチャンなのです。

有名な音楽家で、クリスチャンであったヨハネ・セバスチャン・バッハは、あるとき宗教改革をしたマルチン・ルターに手紙を書き送りましたが、その中で彼は「音楽の唯一の目的は、神の栄光が現され、人々の魂が新たにされることでなければならない」と言いました。少なくともバッハはそう思ったのです。ですから、彼が書いた楽譜の最後のところには、いつも彼は「S・D・G」とサインしたのです。これはある言葉の頭文字です。その言葉とは「Soli Deo Gloria」というラテン語です。つまり「神にのみ栄光あれ」という意味です。彼は、新しい曲を作るたびに、この曲が神の栄光を現すものでありますように、そしてこれを聴く人の魂が新たにされますようにという祈りを込めて、曲を作っていたのです。バッハの目的は、神の栄光が現されることだったのです。

1915年、第一次世界大戦下のベルギーで看護師として仕えていたEdith  Canvellは、敵兵を国外に逃がしたことでナチスに処刑されました。彼女は死刑に処せられる直前こう言いました。「愛国心だけでは足りません。」愛国心だけでは足りないのです。もっと大きな愛が必要です。彼女はもっと大きな神の愛で、戦争で傷ついた兵士を敵、味方関係なく介抱したのです。それは、私たちクリスチャン一人ひとりに求められていることでもあります。正義だけでは足りません。愛がなければなりません。正しい人であるだけでは足りません。受け入れる広い心が必要なのです。クリスチャンには広い心が必要です。批判せずに寛容でなければなりません。信仰の弱い人を受け入れるべきです。その意見をさばいてはいけません。そのような生き方の中にこそ、神の栄光が現されるのです。生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものですと告白しながら生きるクリスチャンにとって、それは難しいことではないからです。