ローマ人への手紙14章13~23節 「愛によって行動する」

テキサス州アントニオにあるオーク・ヒルズキリスト教会牧師のマックス・ルケードは、子供にも大人にも好まれる作品を書くベストセラー作家ですが、彼の著書「特別な愛」の中で、こんなエピソードを紹介しています。彼の奥さんの名前はデナリンといいますが、デナリンさんにはある一つの癖がありました。それは車庫に車を駐車する時、真ん中に駐車するということです。ですから、夫のマックスが車庫の扉を開けると、彼が駐車するスペースの半分くらいを占領していることがあるのです。優しい夫のマックスは、そのような時には何気なくヒントを投げかけます。「どこかの車がうちの車庫の真ん中に居座ってるね。」このようなことを言うと、日本では「何それ、嫌み?」なんて言われるので、このようなアプローチはなかなかできませんが、アメリカでは通じるのです。  ある日、少し強い語調で彼が話すと、奥さんがどのようにそれを受け止めたかはわかりませんが、そのときから駐車するときには気をつけるようになりました。 ある日、娘が母親に、「ママ、どうして車を真ん中に駐車しないの?」と聞くと、奥さんがこのように答えました。「そうね。ママはあまり気にならないんだけど、パパが嫌いらしいのよ。パパが嫌がることはママも嫌なの。」

自分が気にならないことでも相手が嫌なことはしない。それが礼儀であり、キリストに似ていくということなのではないでしょうか。  きょうのところでは、その問題について取り扱われています。すなわち、特に信仰の強い人はそうでない人がつまずくことがないように配慮することが求められるということです。きょうは、このことについて三つのポイントお話したいと思います。

Ⅰ.愛の配慮を(13-16)

まず第一に、13~16節までをご覧ください。

「ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。」

前回のところで、パウロはお互いにさばいてはならない、むしろ互いに受け入れなさいと教えました。今回のところでは、兄弟にとってつまずきになるものを置かないように決心しなさいと、信仰の強い人たちに対して配慮することを求めています。14,15節を見ると、パウロは、「私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです」と言っています。前回とのつながりの中で汚れた食べ物について言及しているわけです。パウロのようにいわゆる強い人は、食べ物それ自体で汚れているものは何一つないと確信していましたが、そうでないと思っている人たちもいました。そういう人たちは、旧約聖書レビ記11章にあるように、「清い動物」と「汚れた動物」があって、汚れた動物を食べることは罪だと考えていたのです。あるいは、第一コリント人への手紙8~10章にしるされてある偶像に供えられた肉の問題とも関係があったのかもしれません。偶像に供えられた肉を食べることは偶像と交わることであるので、汚れてしまうことになると思っていたのでしょう。いずれにせよ、そうした宗教的な理由から、それらのものを食べようとしないクリスチャンがいたのです。パウロはそういう人を信仰の弱い人と呼んでいました。別に信仰が弱かったというわけではありませんが、そうしたことを気にしてつまずきやすいという点でそのように呼んだのでしょう。クリスチャンの中にはそのように信仰の弱い人と、そのようなことは気にしないで何でも食べる人、つまり信仰の強い人がいたのです。

パウロ自身が確信していたことは、それ自体汚れているものは何一つなく、ただ汚れていると思う人にだけ汚れているということです。その点では、彼は信仰の強い人に属していたと言えます。それにもかかわらず彼は、信仰の強い人たちに「兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい」と言いました。なぜでしょうか?15節、「もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動している」ことにはならないからです。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、そうした食べ物のことで、滅ぼすようなことがあってはならないのです。先ほどのマックス・ルケードの例で言えば、奥さんにとって車庫の真ん中に駐車することはあまり気にならないことだけれども、そのことが夫であるマックスが気になることであり、嫌なことであるならば、自分も嫌だと思うこと、それが思いやりであり、礼儀であり、愛の配慮だというのです。

パウロがここで教えている原則は、教会においては、信仰の強い人は弱い人のことを配慮しなければならないということです。この原則はきわめて重要であって、教会における一致は、いつでも強いと思われている者が譲歩することによって図られるべきであるということです。

アメリカのチャールズ・スウィンドル牧師は、次のように言っています。「神の被造物はそれ自体は良いもので、私たちはその被造物を十分楽しむ権利を持っています。しかし、信仰が成熟していない人々にとって妨げとなる場合には、私たちの権利を自制しなければなりません。そうする必要がある時は、愛が、私たちの自由を制限するよう命令します。クリスチャンの自由の使用が、神の御業を損なう恐れがあるときには、まことの愛による分別力をもって、私たちの自由を用いなければなりません。」

15章3節を見ると、「キリストでさえ、ご自分を喜ばせることはなさらなかったのです。」とあります。イエス様も権利を自制されました。いや、放棄されました。イエス様は神でありながら神であるという考え方に固執しないで、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。イエス様が十字架につけられた時、それをながめていた民衆から「おい、おまえが救い主なら、自分を救ってみろ」とののしられましたが、イエス様はそのようにはしませんでした。それはイエス様にそれができなかったからではありません。イエス様がその気だったら、十字架から飛び降りて、そんなことを言う罪人を裁いて、地獄に送ることもできだでしょう。しかし、イエス様はそのようにはされませんでした。なぜなら、そんなことをしたら、キリストは十字架にかかって死ななければならないという神のみことばが実現しないからです。イエス様は、まだだれも経験したことがない、神に捨てられ、神にさばかれるということによって信じる者がみな永遠のいのちを受けたるために、十字架で死なれる道を選ばれたのです。つまり、イエス様が十字架で死なれたのは、私たちの益のためだったのです。イエス様はご自分を喜ばせるためではなく、私たちのために、私たちの徳を高め、私たちの益となることを考えてそうされたのです。これが愛によって行動している人の姿です。つまり、自分の考えによって行動するのではなく、そこには常に信仰の弱い人もいて、その人のことを考え、その人の益のために行動するということです。それは、その人もまたキリストが代わりに死んでくださったほどの人だからです。なのに、食べ物のことで、その人を滅ぼすようなことがあるとしたら、それこそ愛によって行動しているとは言えないのです。

Ⅱ.大切なのは本質的なこと(17-19)

第二に17~19節までをご覧ください。なぜ私たちは信仰の弱い人を配慮すべきなのでしょうか?「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」(17節)    パウロがここで強い関心を抱いていることは、教会の本質は何かということです。教会にとって本質的なことは飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びです。義とは神様との正しい関係のことです。つまりキリストの福音によって神様との正しい関係に入れられたことで与えられる平和と喜びこそが教会の中心であり、本質的なことであるということです。何を食べるのか、何を飲むかということが本質的なことではありません。であれば、飲み食いのことで多少意見の違いがあったとしてもそれはある意味でどうでもいいことであって、時には譲歩しなければならない時もあるということです。この本質的なこととそうでないことの価値基準と判断を間違うと、教会に混乱が起こります。そして、教会では、意外とこのようなことで争いが起こることが多いのです。

1994年に山形県米沢市の恵泉キリスト教会で、東北リバイバルミッションが行われました。私はその実行委員として何人かの先生方と準備のための話し合いを持っていましたが、その中で、遠くから来られる方々もいるが夕食をどうするかという話になったのです。「五つのパンと二匹の魚じゃないですが、こんなへんぴな所でその人数分の食事を用意するのは大変ですよ。めいめいが適当に食べるようにしたらどうでしょうか」と言うと、千田先生がこう言われたのです。「いや、食べ物が大切なんだよね。意外とみんな食べ物のことを気にしているのよ。そして、結構こういうことで問題が起こるから、ちゃんと用意した方がいいんじゃないですか」そんなもんかなぁと思って当日を迎えましたが、ふたを開けてみると千田先生が言われたとおりでした。食べ物になると皆さん目の色が変わるのです。食べ物なんてどうでもいいことなのに、意外と深刻な問題になるケースがおおいんです。あの初代教会の最初の問題も、食べ物のことでした。しかし、このときは千田先生のアドバイスによって教会の方々の献身的な奉仕によって美味しい食事を用意していただいたので、とても和やかな、温かい集会になりました。

しかし、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びです。それが教会の本質的なことです。ですから、本質的なことにおいては決して曲げたり、譲ったりしなくとも、そうでない非本質的なことについてはできるだけ丁寧に、忍耐強く対処しなければなりませんが、時には相手に一歩譲るといった広い心が求められるのです。

Ⅲ.信仰によって生活する(20-23)

第三のことは、自分の信仰の確信によって行動しなさいということです。20~23節をご覧ください。

「食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまづきを与えるような人の場合は、悪いのです。肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまづきになることをしないのは良いことなのです。あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。」

パウロの確信は、食べ物のことで汚れているものは、何一つないということでした。しかし、そのことで兄弟が心を痛めるようなことがあるとしたら、もはや愛によって行動しているとは言えません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、食べ物のことで、滅ぼしてしまうことになるからです。ですから、本質的でない事柄については譲歩することも必要なのです。それとは逆に、それは食べてはいけないと思っていたのに、食べても全く問題がないと説得されたのでそうしたという場合はどうなるでしょうか?自分で納得して食べたのであれば問題はありません。しかし、そうでないのに食べることがあるとすると、一つだけ問題になります。それは、良心に責めを感じてしまうことです。クリスチャンにとって大切なことは、心に責められることがないように生きることです。これを食べたらいけないんじゃないかなぁぅと、疑いを感じながら食べるとしたら、それは信仰から出ている行為ではないので、罪に定められるのです。信仰から出ていないことは、みな罪だからです。ですから、私たちはひとりひとりが神様の御前に、良心的に責められることがないよう、自分の信仰の確信に基づいて判断し、行動していかなければなりません。それがこのところでパウロが言っていることです。神様がそれぞれに与えてくださった賜物を無視して、自分の型に他の人を当てはめようとしたり他の人を型に自分をはめ込んだりしようとすると、こうした問題が起こってきます。そうではなく、神様がそれぞれに与えてくださった信仰の量りに応じて、それぞれがみことばの確信ををもって判断すべきですし、他の人はその人の判断や考えを認めるべきなのです。しかし、あくまでもここで言われていることは宗教的理由での飲み食いのことであって、ひとりひとりのこまかなところにおいてのことであって、教会全体の秩序のことではありません。バプテスマの方式や幼児洗礼のこと、あるいは教会の政治などつにいては、教会の秩序に関することであって、そういうことはひとりひとりめいめい勝手であっては、教会の秩序は保たれませんから、あくまでも教会の秩序に従うことが大切です。そうではなく、信仰生活のこまかなところにおいては、それぞれの信仰の理解に基づき、確信をもって行動しなければならないのです。

皆さんの行動の基準は何でしょうか?クリスチャンは正しい人でなければなりませんが、正しい人であるだけでは駄目です。正しい人であると同時に広い心、寛容な心を持っていなければなりません。批判するのではなく受け入れることが必要です。それは教会も同じです。教会は福音の真理に立ち、福音をまっすぐに解き明かさなければなりません。それがローマ人への手紙1章から11章の主題でした。その次に必要なことは、そうした真理の土台に立ちながら、クリスチャン同士の関係において開かれた心、open mind を持つことです。信仰の強い人も弱い人も、互いに心を開いて互いを受け入れる教会となることです。塩野七生(しおのななみ)というイタリア在住の日本人女性が書いたベストセラー「ローマ人の物語」を見ると、ローマをあれほど強力な帝国にした原動力は寛容であったと言っています。ローマ人には閉鎖的なところがなく、寛容なんだそうです。征服した民族もそれぞれ自分たちの王を選べるような体制にしたほど開放的な民族でした。それがローマを強くしたというのです。

イエス様はいつも罪人たちと一緒に食事をされました。これを見たパリサイ人たちは、イエス様を非難しました。「あいつは罪人の友だ。罪人たちと一緒に食事をしている」と。このときイエス様はこのように言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて救うために来たのです。」(ルカ5:31~32)イエス様のみこころは、弱い人を受け入れることです。弱い人を受け入れて変わっていくことに心を注ぐことなのです。罪に定めることではありません。教会には霊的な赤ちゃんからご老人までいろいろな方がおられます。自分の基準で相手を見てはいけないのです。今は立派に見える人でも、かつては霊的に幼かった時代があったはずです。それがこんなに立派に成長できたのは、ただ神のあわれみ以外の何ものでもありません。であれば、私たちもまた開かれた心を持って、互いに受け入れる教会となることを求めていきましょう。信仰が強い人も弱い人も、みんなが祈り合える教会、ただ遊びに来た人たちも、受け入れる教会になりましょう。なぜなら、教会の使命は罪人たちを救いに導くところにあるからです。