ローマ人への手紙15章7~13節 「望みの神」

きょうは、「望みの神」というタイトルでお話したいと思います。クリスチャンが一致することについてかなりのスペースを割いて語ってきたパウロは、いよいよここでその結論を語ります。それはどういうことかというと、目の付け所を間違えないようにということです。神に目を向け、神に信頼しなさいというのです。なぜなら、神は望みの神だからです。13節をご覧ください。

「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」

教会における一致は、人間の努力や方策によってもたらされるものではありません。神が与えてくださるものです。ですから、お互いの違いに目を留めるのではなく、神に目を向け、神に信頼しなければならないのです。    きょうは、この望みの神について三つのことをお話したいと思います。まず第一に、キリストが受け入れてくださったように、私たちも互いに受け入れなければならないということです。第二のことは、キリストが私たちを受け入れてくださったのは神の栄光があがめられるためでした。大切なのは神の栄光があがめられることです。第三のことは、ですから望みの神に信頼しましょうということです。

Ⅰ.キリストが受け入れてくださったように(7)

まず7節を見てみましょう。

「こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。」

長いスペースを割いてクリスチャンの一致について語ってきたパウロは、これまで語ってきたことを受けて、「こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。」と勧めます。キリストがどのようにされたかが、すべてのクリスチャンにとっての模範であり、解決の鍵です。そしてここでは、キリストが私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさいというのです。 いったいキリストはどのように受け入れてくださったのでしょうか?私たちは既に14章を学んできましたが、15節には「キリストが代わり死んでくださったほどの人」という表現がありました。キリストはまさに信仰が弱いと思われる人たちのためにも死んでくださったのです。キリストはその人たちのために、いや、信仰が強いと思っている人たちのためにも、すべての人の罪のために身代わりとなって十字架にかかり死んでくださいました。ご自分のいのちを捨てるほど愛してくださったのです。これほどまでに愛してくださった人をさばくようなことがあるとしたら、それはほんとうに神に申し訳がないというのです。

私は、イエスさまを信じるまではそんなにキリストの十字架のすばらしさがわかりませんでした。しかし、信じて、救われてみて、徐々にですが、そのすばらしさが実感できるようになりました。十字架を覚えるたびに感動で胸が熱くなります。新聖歌106番に、「虫にも等しき者のために、主はかくもむごき目に遭いしか」という賛美がありますが、まさにこんな虫けら同然の者を、限りない愛をもって一方的に愛してくださいました。いや、今も愛し続け、赦し続け、受け入れ続けていてくださっているのです。何と大きな愛でしょう。その大きな愛こそ私たちの交わりの土台なのです。もしキリストがこれほどまでに愛してくださったのに、その人をさばくようなことがあるとしたら、それこそ大きな問題ではないでしょうか。教会においてはとかく自分と違う人をさばきがちになりますが、それは私たちのうちに今もなお残っている罪の残りかすのせいであって、この事実を忘れているからなのです。

皆さん、私たちはお互いに罪人であって、欠点も短所も弱さも持ち合わせている生身の人間です。決して聖人などではありません。完成された人などだれもいないのです。ですから、相手のクリスチャンに、嫌なことや、受け入れられないこと、なかなか好きになれないことがあっても当然なのです。皆さんにもそのようなところがあるからです。にもかかわらず、キリストはそんな私たちを受け入れてくださいました。それは私たちも互いに愛し合い、受け入れ合うためです。問題は、私たちがなかなかこの十字架の愛に立てないことです。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)

これが主のみこころです。そして、これは、私たちが「わたしがあなたを愛したように」と言われる主の愛に立つことによってのみできることなのです。言い換えるなら、私たちがキリストの十字架の愛を受けたかどうかが、互いに愛し合うという態度に現れてくるということです。キリストが愛してくださったように、互いに愛して合うこと。それが教会の一致の鍵なのです。

Ⅱ.大切なのは神の栄光があがめられること(8-12)

ところで、8~12節までを見ると、パウロは別の視点からもクリスチャンが一致する必要性を語っています。それは何かというと、神の栄光が現されるためにということです。

「私は言います。キリストは、神の真理を現すために、割礼のある者のしもべとなられました。それは、父祖たちに与えられた約束を保証するためであり、また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。こう書かれているとおりです。「それゆえ、私は異邦人の中で、あなたをほめたたえ、あなたの御名をほめ歌おう。」また、こうも言われています。「異邦人よ。主の民とともに喜べ。」さらにまた、「すべての異邦人よ。主をほめよ。もろもろの国民よ。主をたたえよ。」さらにまた、イザヤがこう言っています。「エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方である。異邦人はこの方に望みをかける。」

ここには、キリストがどのように受け入れてくださったのかが記されてあります。まず8節を見ると、キリストは、神の真理を現すために割礼のある者となられました、とあります。どういうことかというと、キリストはユダヤ人の子孫として、ユダヤ人の中に生まれてくださったということです。なぜなら、旧約聖書の中にそのように約束されていたからです。ユダヤ民族こそ神様が選ばれた民でした。そのユダヤ民族を通してキリストが誕生されたのは、彼らに与えられた約束が実現するためだったのです。

しかし、キリストが受け入れられたのはユダヤ人たちに対してだけではなく、異邦人に対してもそうでした。9節には、「また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。」とあります。キリストが十字架にかかって死なれたのはユダヤ人だけでなく、すべての人が救われて真理を知るようになるためだったのです。ユダヤ人も異邦人も一つになって、心を一つにし、声を合わせて、イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためだったのです。そのことを証明するためにパウロは、9~12節までの中で旧約聖書の四つの箇所を引用してこれを説明しています。まず9節後半のことばですが、これは詩篇18篇49節からの引用です。かつてダビデは異邦人の中で主の御名があがめられるようになると預言していました。主の御名は、異邦人の中でもほめたたえられるのです。それが主のみこころでした。また10節のことばもそうです。これは申命記32章43節からの引用ですが、異邦人も神の民とともに喜ぶようになるとあります。また11節と12節のみことばもそうです。11節のみことばは詩篇117篇1節からの引用で、12節のみことばはイザヤ書11章10節からのみことばですが、これも異邦人も神を賛美する者となることの預言でした。特に 12節にある「エッサイの根」とは、やがて来られるメシヤのことですが、このメシヤは異邦人のために、異邦人の希望のために、異邦人の救いのために来られるということが、ずっと昔から預言されていたのです。今まで生けるまことの神様を知らなかった異邦人までもが神を知り、神をほめたたえるようになるということです。つまり、キリストはユダヤ人も異邦人も受け入れてくださり、心を一つにして、声を合わせて、神の栄光がほめたたえるようにしてくださったということです。

ここでお気づきになられた方もおられるかと思いますが、これまでパウロは信仰の強い人と弱い人が互いに受け入れ合うようにというテーマで語ってきましたが、ここでは強い人とか弱い人というレベルではなくユダヤ人と異邦人が一致することにテーマが移っています。ユダヤ人と異邦人が一つになるということは考えられないことでした。それはまさに水と油のように相容れない関係だったのです。しかし、キリストが十字架にかかってくださることによって、隔ての壁が取り除かれました。敵意ず廃棄され、平和が実現したのです。

「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人を造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。」(エペソ2:14~18)

ということは、このキリストにあって一つになれないことはないということです。つまり、重要なのは神があがめられることを求めることであるということです。それがすべてなのです。

皆さん、小さな考え方の違いはあってもよいのです。しかし、大切なことは、もっと偉大なものに目を向けることです。本当に偉大なことに目が向けられると、小さなことなどどうでもよくなるからです。その重要なこととは、神があがめられることです。このことを求めて生きるなら、人間の間のささいな相違点などは全く気にならず、互いに受け入れ合うことができるようになるのです。

Ⅲ.望みの神に目を向ける(13)

ですから第三のことは、この神に目を向けましょうということです。お互いの違いや、自分の感情に振り回されるのではなく、この神に目を向けましょうということです。なぜなら、神は望みの神だからです。この方に目を向けるとき、初めて私たちは相手を受け入れることができるようになるのです。13節をご覧ください。

「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」

パウロは、ここで神を「望みの神」と呼んでいます。5節の所では、「忍耐と慰めとの神」と言いました。忍耐と励ましの神が、希望を持たせることができる・・・と。皆さん、私たちの信じる聖書の神は、何よりも「望みの神」なのです。「望みの神」というのは、私たちに望みを与えることができる神であるということです。人はみな何らかの希望によって生きています。希望がなかったら、生きていくことなどできません。生きていたとしても、それはまさに行ける屍のような人生となってしまうでしょう。

第二次世界大戦中に、ドイツのナチスによって大勢のユダヤ人が強制収容所に送り込まれ、そこで殺され、死んでいきました。その中で数少ない生き残った人々は、ほとんど例外なく、将来に対するしっかりした希望を持っていたと言われています。「神が必ず救い出してくださる」、「なんとかしてこのようなことが二度と起こらないような社会を建設するのだ」、「どうしても家族や恋人にもう一度会いたい」等々の希望を持ち続けた人々が、最後まで生き残ったのです。希望こそ私たちに生きる力を与えてくれるのです。

しかし、希望といってもそこにはいろいろな希望があります。たとえば、「お金持ちになりたい」とか、「もっと有名になりたい」、「もっと楽な生活がしたい」といったものです。そのようないわば願望や欲望、野望といったものは、一時的な満足は与えてくれるかもしれませんが、いつまでも続くものではありません。したがって、そうした希望は失望に終わってしまうのです。しかし、神が与えてくださる希望は、決して失望に終わることがありません。なぜなら、神は「希望の神」、希望の根源であられる方だからです。無から有を創造されたまことの神は「希望」の根源者でいらっしゃるので、このお方に信頼する時、決して「失望に終ることはないのです。

また、ローマ人への手紙5章を見ると、神の愛が私たちの心に注がれているので、この希望が失望に終わることがないことがわかります。5章5~10節です。

「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらです。 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」

神は、正しい人や恩人のためではなく、「弱く」「不敬虔で」「罪人で」、しかも「敵で」さえあった私たちをも愛してくださいました。私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことによって、神は私たちに対する愛を明らかにしてくださったのです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことなのです。

さらに、私たちの希望が「失望に終ることがない」という決定的な根拠は、キリストの復活の事実にあります。キリストが死からよみがえられたのは、キリストにある希望が何ものにも閉じこめられるものではないことと、その希望が永遠のものであることを確証するためだったのです。それゆえ、キリストに望みをおく者は、決してその希望が失望に終ることはないのです。

神は、この希望を与えてくざるのです。そしてパウロは、この望みの神が、ローマの教会の人たちの信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みに溢れされてくださるとようにと祈っています。彼らの努力によって、そうした希望、喜び、平安を持つようにではななく、信仰によって、聖霊によって持つようにと言っているのです。あくまでも与えてくださるのは望みの神であって、私たちの力や努力によるのではありません。私たちは、その神に信頼しなければならないのです。私たちが希望を失ってしまうほど、教会の中に問題が起こり、失望落胆してしまいそうな時でも、この希望の神に信頼することによって、そこから喜びと平安が与えられ、聖霊の力によって望みに溢れることができるようになるのです。

それは教会だけのことではありません。私たちの人生には、たびたび失望落胆するような出来事が起こりますが、そのような時にも、希望の神は、聖霊の力によって、私たちに希望を与え続けてくださるのです。問題は、私たちの目がどこを向いているかです。そうした問題に目が向けば失望落胆してしまいますが、神に目を向けると、希望が与えられるのです。

ダビデは、サウル王に憎まれ、命を狙われ、ユダの荒野を10年間も彷徨った時、人生の試練の中で、どこに希望と救いがあるのかを、次のように告白しました。詩篇62篇1~8節です。

「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。おまえたちは、いつまでひとりの人を襲うのか。おまえたちはこぞって打ち殺そうとしている。あたかも、傾いた城壁か、ぐらつく石垣のように。まことに、彼らは彼を高い地位から突き落とそうとたくらんでいる。彼らは偽りを好み、口では祝福し、心の中ではのろう。 セラ .私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。.神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。 セラ」

ダビデは、荒野の試練の中で、ただ神を待ち望みました。ただ神を望むというのは、神にのみ信頼して、人間的な一切の力を捨て、ひたすら主に心を向け、主だけに救いを求めることです。「黙って」というのがいいですね。「黙って」というのは、①呟かない・文句を言わない。ということです。②悪あがきをしないことです。神に信頼している人はそれだけで満足しているので、沈黙していることができるのです。ダビデは、サウル王や軍の攻撃の中で、6節「神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。」と告白しました。様々な思いが湧き起こっても、川の流れのように、ただ受け流すことができたのです。そして、心を神の前に注ぎだしました。神への沈黙は、感情に蓋をすることではありません。湧きあがった不安や怒りや悲しみを、主にささげることです。そのようにして心を主の前に注ぎ出すなら、感情の嵐はしだいに落ち着くようになるのです。ダビデの勝利の鍵は、この神に目を向けること、神に心を注ぎ出すことだったのです。目に見える現実に心が奪われ、神の前に静まることを素通りすると、人の顔色ばかりを気にする人間の奴隷になってしまいます。そして平安を失ってしまうのです。ですから、私たちは目に見える背後におられる神に目を向けなければなりません。神こそ、わが岩、わが救い、わがやぐらら。神は、われらの避け所なのです。この方に目を向け、この方に信頼することによって、完全な解決が与えられるのです。

皆さんの目はどこを見ているでしょうか?皆さんは何に信頼しているでしょうか。ダビデが「ただ黙って」ひたすらに主を信頼したように、私たちも主に信頼しましょう。それは望みの神が、聖霊の力によって、望みに溢れさせてくださるためです。